映画『神が描くは曲線で』で考えた、サプライズの良い仕込み方、ズルイ仕込み方
どんでん返しを用意するには、前もって鑑賞者を騙しておかねばらならない。騙しの仕込みが上手で、かつ謎解きに説得力があるほど、サプライズは大きい。映画『神が描くは曲線で』はどうだったのか?
例えば「実は生きていた!」という、どんでん返しを成立させるカギは2つある。
1つは「いかに上手に死んだと思わせるか」。もう1つは「いかに生きていたことの説明に説得力を持たせるか」だ。
主人公が崖から突き落とされる。
落ちたら間違いなく死ぬ高い崖であることを事前に見せておく。犯人が下を覗き込み死体は見えないのだが、“生きているはずがない”と、立ち去る。
これで「死んだ」という騙しと、「実は生きていた」のサプライズの仕込みは終了である。
次に、謎解きだ。
あんな高い崖から落とされてなぜ生きていられたのか、の説明が要る。
ここで“死角に生えていた松の枝に引っ掛かって助かった”という説明をされたら、私なら怒って席を立つ。
■仕込みと謎解きの上手さは断然『シックス・センス』
仕込みが上手く、謎解きに説得力があったのは断然『シックス・センス』だ。
ラストのサプライズの前提として、「主人公の少年が特殊能力の持ち主」という説明があった。それまで私たちが見ていた映像すべては少年視点のもの。つまり、私たちは少年の特殊能力を通して、この物語を追っていた。
騙しの仕込みは、少年にしか見えない特殊映像を見ること、少年にしか体験できない特殊体験をすることで終わっていた。
謎解きも非常に丁寧だった。
わざわざ、特殊能力のない普通の人視点で、物語を振り返ってくれた。“実はこうだったんです”と映像的に検証してくれて、我われも“なるほどそういうことか”と納得できたのである。
嘘の仕込みとサプライズの謎解きを、特殊能力ではなく「妄想」に求めることもよくある。
精神疾患による妄想で、前もって私たちを騙しておく。で、現実は違いました、と謎解きをする。
例えば『シャッター アイランド』や『ビューティフル・マインド』はそうである。
■驚き損の『ラストナイト・イン・ソーホー』
逆に、騙し方と仕込みに首を傾げたくなったのが『ラストナイト・イン・ソーホー』だ。
1年前の記事――ネタバレ厳禁映画『ラストナイト・イン・ソーホー』は予告編も厳禁レベル――に、「不満部分」がある、と指摘しておいたが、今回見直してみてやはり思った。
あの騙し方、サプライズの仕込み方は、ズルくないか?
映像で騙したり、誤解させたりする。それはいい。
だが、そのためには説明が要る。特殊能力者にしか見えなかった映像だとか、現実ではない妄想だったとか、崖の上からはよく見えなかったとか……。
『ラストナイト・イン・ソーホー』の騙し映像には何の説明もない。
なぜ、現実と正反対の映像を主人公が見てしまったのか、という点は謎のまま。
説明がゼロだから謎解きもゼロである。
確かにサプライズはあった。嘘映像に騙されていたから。でも、納得はできない。納得できないと、サプライズの衝撃は小さくなってしまい、“騙された……”という後味の悪さだけが残る。
驚き損であった。
※見ていない人は何を言っているかわからないでしょうから、以上4作品、ぜひ見てください。
■『神が描くは曲線で』のオリジナルな騙し方
『ラストナイト・イン・ソーホー』には編集で騙す、という手もあった。
ナイフを振り下ろした瞬間に、別のシーンに切り替わる。“ナイフは胸を貫いたもの”と見ている方に想像させておいて、全部を見せない。
そうしておいて、“物陰に隠れていた仲間がナイフの男に殴り掛かって、実は無事”とかの謎解き(木村の創作です)を用意する。
しかし、繰り返しになるが、この作品では何が起こったのかを主人公の目を通して全部見せた上で、その前提を説明抜きで引っくり返した……。
そこには、映画らしい物語的、映像的、編集的な工夫がない。
さて、『神が描くは曲線で』の騙し方は、画期的なもので、他の作品では見たことがない。「編集による騙し」に分類される騙し方だが、オリジナル過ぎて、効果があり過ぎて、ちょっと反則ではないか、と思った。
『神が描くは曲線で』はスペインのアカデミー賞、ゴヤ賞の候補となっている。有力候補の『ザ・ビースト』よりもはるかに面白かった。
みなさんにおススメしたいし、この作品の騙し方と謎解きの感想をぜひ聞いてみたい。
※写真提供、『神が描くは曲線で』はサン・セバスティアン映画祭、『ラストナイト・イン・ソーホー』はシッチェス映画祭
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