映画『コサージュ』。ある主張に実在の人物を当てはめることの難しさ
昨今、フェミニズムが映画界でブームになっている。
女性の解放が作品のテーマとなっていたり、女性監督が脚光を浴びたり、性による差別や区別を無くす観点から、サン・セバスティアン映画祭では、昨年から男優賞・女優賞が廃止され俳優賞に一本化されたりした。
詳しくは、2021年映画界での“女性の大躍進”を素直に喜ぶべきか?
■フェミニズムを面白く見せる時が来た
が、その流れも一息ついた。
女性の解放や男女平等が実現したわけではもちろんないが、その語り口に工夫が求められるようになった。虐げられる女性が解放や平等のために戦う、というのは社会的に意義があることなのだが、物語としては出尽くした、飽きた感がある。
映画なのだから、面白く見せ、魅きつけ、感動させる何かの工夫が必要だ。
シッチェス・ファンタスティック映画祭では一時レイプ・リベンジものが大流行した。強い女性を描く、という狙いだった。
こちらもまた一息ついた。
詳しくは、強姦する性、「男」という恐怖。シッチェス映画祭総括、主人公たちは何と戦ったのか?
そんな中、男性社会や女性の解放、性差の解消を面白く語るのに向いているのは、ファンタジーではないか、と思う。
『カオス・ウォーキング』で描かれる男女の“機能”の違い、『MEN 同じ顔の男たち』で突き付けられる男へのメッセージ、“お前らみんな○○なんだよ!”には深く考えさせるものがあった。
ファンタジーであるからこそ、例えば、“女性社会になり男が差別される世界”なんて設定で物語を作れる。
なので、フェミニズムを面白く見せた作品はサン・セバスティアン映画祭よりもシッチェス映画祭の方が多かった。
参考『カオス・ウォーキング』、『MEN 同じ顔の男たち』のオフィシャルサイト
いずれも面白い。おススメです。
■コサージュを脱ぎ捨てる=解放
そこで、『コサージュ』である。主人公はオーストリア皇后のエリーザベト(1837年-98年)で実在の人物だ。
コサージュとはボディ(胴着)の意味。拘束着のような胴着の紐でぎゅうぎゅう締め付けたのと、極端なダイエットのせいで、エリーザベトのウェストは確か「45cm」と紹介されていた。
長身で痩身、色白、ウェストが極端に細い、当時では理想的なスタイルと美貌の持ち主だったのだが、物語は40歳の誕生パーティから始まる。60歳で亡くなっているから、晩年の20年間、若さを失うことで彼女が変わっていく、というお話である。
コサージュによる締め付けが「拘束と抑圧の象徴」であり、ボディを脱ぎ捨てることが「解放と自由の象徴」というのは、題名だけで想像がついてしまうが、マリー・クロイツァー監督はあえて隠さず、“とにかくこの女性の生きざまを見てくれ!”ということなのだろう。
■実在の人物の人生をなぜ脚色?
で、生きざまを見せてもらったが、首をかしげる部分があった。生きざまに問題があるわけではない。純粋に映画上の演出の問題だ。
自由になったエリーザベトはいろんなことをする。その中には当時の男社会の中では常識外だったこと、不道徳だったこと、不健全だったこともあるし、今の私たちの社会でも不道徳、不健全と見なされていることもある。ある行為は現代でも立派な犯罪である。
本当に型破りな自由人だったのである。
しかし、こうした行動は誇張、脚色、もしかすると嘘かもしれない。
※ここからほんの少しネタバレがあります。知りたくない人は読まないでください
終盤のある演出によって、「伝記」として語られてきたものが「実はフィクションであること」が明らかにされるのだ。
上で紹介した予告動画も、注意深い人なら"あれ、おかしいな”と引っかかる箇所がいくつもあるはずだ。
■フィクション化で失われた事実の迫力
これは大いに興ざめなことだった。
例えば、刺青を入れるシーンがあった。あれが史実なら凄いが、フィクションなら全然凄くない。
今どき、刺青なんて誰でも入れる。19世紀の皇室の女性が入れてこそ、とんでもない行為で、“大いなる自由の刻印”となる。
どこまで史実でどこまでフィクションなのかは明らかにされない。よって、エリーザベトの振る舞いすべてを色眼鏡で見直すことになった。
映画を面白く見せるために、史実を捻じ曲げる必要があったとしたら、本末転倒である。なぜなら、自由と解放のテーマを語るのに「エリーザベトは役不足で、その人生はエピソード不足だ」と言っているに等しいからだ。
時代の重みが染み込んだ事実の迫力を、監督が信じ切れなかった。だから余計なことをした。
鑑賞後のみなさんのご意見をぜひ聞いてみたい。
※見る前に、エリーザベト、オーストリア皇后の基本的な知識を持っておいた方がいい。
※写真提供はサン・セバスティアン映画祭
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