『The Sower』=「種をまく人」。ソフィア・コッポラの新作と合わせて問う、女にとって男とは?
『The Sower』とは「種をまく人」の意味。邦画に同名の作品があるようだから、もし日本公開がされるとしたら邦題は変更せざるを得ないだろう。
この題名『The Sower』には二重の意味がある。1つは小麦の耕作によって生きる主人公たちのこと。もう1つは「男」のことを意味する。畑だけでは収穫はできない。実をならせるためには種が要る。その種を持っているのが男である。
「女だけ」なら平和だが、未来はない
“男を種、女を畑”にたとえるのは、男尊女卑的に響くかもしれない。“男は種をまきっ放し、芽生えたものの世話をするのは女”という、今の男女平等思想には馴染まない、古めかしい役割分担を連想させもする。
だが、物語の舞台1850年代のフランスの小村には、そんな男と女の役割分担を疑う者はいない。女は子供を産むのが当然であり、子供は繁栄の象徴だった。
だからこそ、女だけの村に流れ着いた男を彼女たちは何としても引き留めようとする。長老は、適齢期になっていた未婚の若く美しい才女(村で唯一字が読める)を男の世話係に選ぶ。恋に落ちて子供ができれば村に定住するだろう、という狙いだ。
男抜きのコミュニティは争いもなく円満に民主的に機能していた。
小麦を収穫してパンを作り、果物を摘み、牛から乳を搾るといった作業はすべて共同作業で、それを必要性に応じて平等に分配する。まるで理想の共産社会のようだ。
だが、そこにあえてよそ者の「異物」を招き入れる。男の存在が女たちの争いの種になりかねないのは明白だったが、それでも男が必要だった。女だけでは子孫を残せず、村の未来はないからだ。
男を有効に、そして平等に使うために
そうして彼女たちは、種まき人としても、性欲のはけ口としても、農作業に必要な男手としても有効に使おうと、男を“共同財産化”する。男という私有財産を認めてしまえば、持てる者と持たざる者の格差と嫉妬が共同体を崩壊させる恐れもあった。
もちろん男の意志は無視。“男を種、女を畑”という発想を突き進めてみたら、女性主導のフェミニズム的結論にたどり着いたという逆説である。
女だらけのところに男が転がり込む、という設定は、ソフィア・コッポラ監督の新作『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』(2018年2月日本公開)と同じである。監督がともに女性というのも共通している。
あちらではケガ人の人道的な救助という理由で男は男子禁制の地へ導かれ、男に免疫がない女学院の女たちは大騒ぎになるのだが、村の女たちはたくましく、こちらで葛藤し苦悩するのは若い主人公くらい。
男が最後にどうなるのかという結末を含めて、比較するためにもぜひ日本で公開してほしい。