映画『Vortex』、ギャスパー・ノエが描く「死」よりももっと怖い「死の前」
上映前にギャスパー・ノエが突然現れた。「近くにいたから、ついでに挨拶しておこうと思って……」と。
『Vortex』のサン・セバスティアン映画祭のパンフにある解説は「人生はすぐに忘れ去られる短いお祭りだ」という一文だけ。写真は上に載せた1枚だけ。“予断を持たず、とにかく見ろ”というメッセージなのだろう。
ただ、上映前に本人がいろいろ語ってくれたことは解禁なのだろうから、それを記して作品紹介の導入に代えたい。
■「君も僕も、みんな死ぬ」
「おそらく最もリアルで、初の年齢制限のない作品だ」
「君も僕も、我われはみんな死ぬんだ」
「襲撃を描いた映画は山ほどあるが、襲撃なんて決して起こらない。これはすべての家族に日常的に起こっていることを描いている」
「心臓よりも脳が先に壊れるすべての人にこの作品を捧げたい」
以上で何を描いているか想像できますか?
アルツハイマーである。アルツハイマーはすべての家族に日常的に起こっているのに、ほとんど映画のテーマになっていない。「見たい人がいないから」(本人談)だ。
アルツハイマーと映画と言えば真っ先に浮かぶ、『愛、アムール』(ミヒャエル・ハネケ監督)は撮影前に見たらしい。『楢山節考』(木下惠介監督)にはいたく感動したようだ。
■自身も1年半前、脳卒中を経験
別のいくつかのインタビューでは、祖母や母に起こった経験を元にした、と言っている。1年半前に脳卒中になり生と死の境を彷徨ったことも、テーマ選びの理由になったようだ。
脳卒中の経験もあり死を恐れてはいない。「50歳を過ぎれば死は自然なことだし、場合によっては望むことかもしれない」(プレスリリース)。
スペインには「50を過ぎればどこかが痛いのが当たり前。痛くなければもう死んでいる」という冗談がある。ノエは1963年生まれ、私とは1つ違いだ。歳も歳だし脳卒中でリアルに死を意識した、ということだろう。
彼は死を「命の不在」と捉えている。死は空白期間であって、何かが存在するわけではない。何かの始まりでも、何かの集大成でもない。「心臓が止まらないよう抗うことはできない。単に起こるだけ」だから「自分の死は平和なもの」と想像しているらしい。
■本当に怖いのは死の前
ノエが恐れるのは、そんな穏やかだろう死の瞬間ではなく、「死の前」である。心臓が壊れる前に脳が壊れると、長短の記憶が失われ、行動から一貫性や意志が消えて、自身を制御することができなくなる。
彼はそれを「絶対的な恐怖」と呼ぶ。ドラッグであれば妄想は薬物を使用した者だけを使用した時だけに襲うが、神経系の破壊による妄想からは誰にも逃げ場も抜け出す方法もないからだ。
最後に感想を一言だけ。
以下、少しネタバレがあります。
「人生はすぐに忘れ去られる短いお祭りだ」と聞けば、短いお祭りの方を見たくなるが、そっちは無視されて“人生賛歌”なんて作品ではないところが、残酷さにフィルターを掛けないノエらしい。
最も怖かったシーンは、愛した者を「あの人」と認識して、「あの人」が最も大切にしていたものを徹底的に破壊するシーン。そこにある明らかな悪意は、自分が制御可能な時には我慢したり隠したりしていたものだ。
制御不能とはつまり、そういう最愛の人に対する生涯遠慮してきた――実際大したことではない――ネガティブな感情すら漏れ出しかねない状況、言い換えれば、短いお祭りを自らの手で台無しにして、自分に関する良い記憶を最悪の後味で上塗りしかねない状況である。
心臓と脳と、先に壊れるものを選べるなら、心臓にしてほしい、と心から思った。
※こちらは同じギャスパー・ノエ作の『ラブ』について以前書いたもの。
※写真提供はサン・セバスティアン映画祭。