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映画『新感染半島……』にみる、ゾンビものパート2の難しさ

木村浩嗣在スペイン・ジャーナリスト
前作で昼間も大暴れしていたゾンビが夜行性で、画面が暗くてよく見えないのも残念

やはり、ゾンビもののパート2は難しい……。

『新感染半島 ファイナル・ステージ』を見てそう思わずを得なかった。

2016年10月シッチェス映画祭のオープニングアクトで見た『新感染 ファイナル・エクスプレス』は衝撃的だった。同年の映画祭ベストだと思ったし、実際「監督賞」と「視覚効果賞」を獲ったのだが、パート2の『新感染半島……』の方はもう一つだった。

そもそも、「大金を奪うため半島に舞い戻った男を待っていたのは、凶暴な感染者と狂気に支配された軍団」公式ホームページの文言より)という設定が……。狭い世界での、特殊な人間集団の物語に矮小化されている。前作は、社会&人間ドラマだったのに。

■ゾンビ映画の出来は人間ドラマ次第

ゾンビ映画は何映画か?

私は社会と人間を描く映画だと思っている。

突然襲って来るゾンビという災厄に翻弄される人類、阿鼻叫喚、立ち向かおうとする政府や軍隊、警察、市井の人々……。これ、「ゾンビ」を「ゴジラ」や「ウイルス」に置き換えても同じである。

ゾンビは脇役ですらなく「環境」に過ぎない。

ゾンビがするのは人を喰うこと。それ以上でもそれ以下でもない。そこではなく、ゾンビ禍の下で我われに何が起きるか?我われが何をするか?こそが重要であり、そこがきちんと描かれている作品が、面白い。

「感染した娘と父の葛藤」というテーマを感動的なドラマに仕立てた『マギー』
「感染した娘と父の葛藤」というテーマを感動的なドラマに仕立てた『マギー』

■「苦渋の決断」の数と「感動」は比例する

もともとゾンビという設定には、人間ドラマが起こりやすい。噛まれた者を見捨てなければならないからだ。

仲間、恋人、肉親を置き去りにしたり、自ら手を掛けて殺したり、あるいは本人が犠牲になってゾンビを止める――。「俺のことは放って置いて、君たちは行け!」というシーンが必ず生まれる。

さらに、この延長である集団の見殺しや皆殺しシーンも生まれる。

感染が広がり過ぎて制御できず、隔離施設や国境に押し寄せる人々を金網で押し返し、見殺しにするか、最悪の場合は銃の乱射で皆殺しにする、というのもゾンビものにはつきもの。人類を守るために決して少なくない人々の命を犠牲にする、というのは究極のドラマであり、心を激しく揺さぶる。

■「韓国の社会問題」を巧みに反映させた前作

前作『新感染 ファイナル・エクスプレス』が優れていたのは、人間ドラマに韓国の社会問題を巧妙に絡めていたことだ。

あの作品を見ると、現代の韓国人が抱く危惧がよくわかった。

利己主義がはびこり、夫婦や親子など血縁関係が崩壊しかけ年長者への尊重や寛大さは失われ、社会的な弱者は救済されなくなっている。

そんな過酷な社会に、さらに苛烈なゾンビが襲来するとどうなるか?

主要人物に、ファンドマネージャーや政治家といった社会的強者、老人と妊婦、子供、浮浪者といった弱者、社会の枠外にあるアウトローが混じっていたのは、もちろん偶然ではない。

団結し頭を働かせ犠牲的な精神をもって危機を乗り越えるべき人間が、ゾンビ並みに我先に行動しゾンビ並みの脅威になるのである。

日常空間が突然、阿鼻叫喚の場に。パニックシーンも素晴らしい『新感染 ファイナル・エクスプレス』
日常空間が突然、阿鼻叫喚の場に。パニックシーンも素晴らしい『新感染 ファイナル・エクスプレス』

■侵略・隔離済みではドラマが生まれない

以上のようなゾンビものの面白さが、パート2には盛り込みにくい。

というのも、街はゾンビによってすでに侵略済みであるからだ。そのため、日常が異常に侵食される瞬間――携帯電話で話しながら普通に通勤しているサラリーマンとか、集団登校の小学生の列に同伴するお母さんたちにゾンビが飛び掛かるとか――のパニック部分は必要ない。

人間ドラマ部分も前作で散々描かれているので掘り下げようがないし、そもそも、人間は逃げたか死んだかだからゾンビと人が交じらず、ゾンビを環境とした人間ドラマが生まれようがない。

そこで、ゾンビの群れを轢き殺しつつ、狂気の軍団と戦う、というバイオレンス・バトルものにシフトしたのだろうが、やはり社会的・人間的視点を欠く分、感動が薄くなってしまった。

あと、人間が汚染地域へわざわざ乗り込む、という設定にはやはり無理がある。

■『28週後...』が「パート2のお手本」のわけ

ゾンビものパート2のお手本としては、『28日後…』を前作とする『28週後...』を挙げたい。

うまかったのは、ゾンビ禍後に復興した世界を舞台としたこと。これで、新たに侵略シーンのパニックが描ける。

それと、家族間の裏切りと嘘というドロドロの人間ドラマにしたこと。特定の主人公を置かない群像劇にして、主に子供目線で描いたのも正解だった。

また、人間の時も卑怯だったが、ゾンビになったら逆ギレでさらに非人間的な化け物となる、という設定で、ゾンビ化に物語的必然性を加えたのもいい。

あと、パート2ではないが、ゾンビ後日談としてはここに紹介した『The Cured』が新鮮だった。

※写真提供はすべてシッチェス・ファンタスティック映画祭

『新感染半島 ファイナル・ステージ』の1シーン
『新感染半島 ファイナル・ステージ』の1シーン

在スペイン・ジャーナリスト

編集者、コピーライターを経て94年からスペインへ。98年、99年と同国サッカー連盟のコーチライセンスを取得し少年チームを指導。2006年に帰国し『footballista フットボリスタ』編集長に就任。08年からスペイン・セビージャに拠点を移し特派員兼編集長に。15年7月編集長を辞しスペインサッカーを追いつつ、セビージャ市王者となった少年チームを率いる。サラマンカ大学映像コミュニケーション学部に聴講生として5年間在籍。趣味は映画(スペイン映画数百本鑑賞済み)、踊り(セビジャーナス)、おしゃべり、料理を通して人と深くつき合うこと。スペインのシッチェス映画祭とサン・セバスティアン映画祭を毎年取材

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