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スペイン→メキシコ→ミシュテカ。 映画『ROMA/ローマ』で支配の連鎖を学ぶ

木村浩嗣在スペイン・ジャーナリスト
一見ほのぼの。裏には、メキシコの今に続く問題が透けて見える(写真:Shutterstock/アフロ)

アカデミー作品賞に選ばれるかどうかには、政治的な正しさも考慮されるのだろうか?

そうだとすれば『ROMA/ローマ』には、受賞の理由がある。監督の幼少期を描いた、一見ほのぼのした内容だが、“昔は良かった”という回顧ものではないからだ。少なくともスペインではそう受け取られていないし、当地メキシコではもっともっとそうだろう。

『ROMA/ローマ』には、階級差別、人種差別、男性優位主義が透けて見える。

70年代の日常を丁寧に忠実に描いたことで、そういう部分も包み隠さず含まれている。だから、見た後に考えさせられることになる。薄っぺらい、自伝的ノスタルジーものではない。アルフォンソ・クアロン監督が満を持して撮ったのがよくわかる。

言語をめぐるクアロン監督の怒り

この作品がスペインで公開された時、ひと悶着あった。

怒ったクアロンは「教条的で無知で、スペイン人にとっても無礼だ」と切り捨てた。メキシコで撮られたスペイン語の作品がスペインで公開されたのに、スペイン語の字幕が付いていたからだ。

スペインのスペイン語とメキシコのスペイン語は違う。中南米各国のスペイン語とも違う。だからこそ、スマートフォンや「Word」の言語選択欄はスペイン語(スペイン)などとわざわざ断ってあるわけだ。

イントネーションが違うだけでなく、単語の意味も違う。例えば、スペインのサン・セバスティアン映画祭の作品賞の名は「黄金の貝」(Concha de Oro コンチャ・デ・オロ)なのだが、この「コンチャ」。メッシが口走ると下手するとレッドカードが出る。アルゼンチンでは「女性器」の隠語なのである。

旧宗主国スペインの“言語的な傲慢”

とはいえ、よく似た単語を類似の文脈で使うのがほとんどなので、意味不明ということはない。

私は『ROMA/ローマ』を字幕無しで見たが、問題無く理解できた。沈黙や街の音を楽しむ作品なのでセリフは多くないし。

ただ、クアロンやスペイン在住メキシコ人たちの怒りには、“不必要”で済まないニュアンスがあった。メキシコのスペイン語をスペインのスペイン語に訳してしまうことは、多様性を無視するもの、メキシコのスペイン語を軽視するもの、という見方をしているからだ。

ご存じの通り、メキシコはかつてスペインの植民地だった。

メキシコのスペイン語をスペインのスペイン語に“翻訳”したところに、クアロンらメキシコ側は旧宗主国スペインの“言語的な傲慢”を見たのだ。

バイリンガルなのは常に「下位」の人

言語の問題は、水平的な「違い」だけでなく垂直的な「上下関係」も考慮されるべきだ、とスペインにいると、つくづく思う。スペインと中南米のスペイン語の関係もそうだし、スペイン語とカタルーニャ語の関係でもそうだ。

今スペインはカタルーニャ独立問題で揉めているが、大きな争点になっているのは言語の扱いである。

カタルーニャ語はカタルーニャでの公用語だが、スペインでの公用語ではない。よって、カタルーニャ以外の地域では義務教育の科目ではないし、裁判所でもカタルーニャ語で証言はできない。

カタルーニャ人たちはスペイン語とのバイリンガルだが、それ以外の人たちはスペイン語だけを話す。2つの言葉を覚えないといけないのは、常に言語的な上下関係で下位にある人たちなのだ。

これ、『ROMA/ローマ』のメキシコ人たちと主人公の家政婦クレオの関係でも同じである。

家政婦クレオと女主人ソフィアの差

字幕無しで見た私にはさっぱり理解できなかったシーンがあった。クレオとアデラの家政婦同士の会話で、少数民族ミシュテカの2人が自分たちの言語でしゃべっているところだ。

クレオはバイリンガルだが、当然ながら女主人ソフィアはそうではない。クレオは家政婦という仕事をするためにもスペイン語を学ばないといけなかったが、ソフィアら雇い主側にはミシュテカ語を学ぶ動機はゼロだろう。

クレオは夫婦の関係まで知ってしまうが、雇い主側の方は、クレオの年齢すら知らない。同じメキシコ人なのに、階級と人種の差でこういう恐るべき関心の一方通行があるのである。

クアロン監督とクレオ役のヤリッツア・アパリシオ。彼女はミシュテカ語は話せず、撮影のために勉強したのだという。写真提供/サン・セバスティアン映画祭
クアロン監督とクレオ役のヤリッツア・アパリシオ。彼女はミシュテカ語は話せず、撮影のために勉強したのだという。写真提供/サン・セバスティアン映画祭

『ROMA/ローマ』公開でクアロンは図らずとも「スペイン→メキシコ」の傲慢な上下関係を再認識することになったが、作品内では「メキシコ→ミシュテカ」のそれがきちんと描かれている。

象徴的なのは金持ちの駄犬の糞を、住込みの家政婦たるクレオが水で流して掃除するというシーンだ。

ここだけで階級差、人種差がわかるし、それは過去の問題ではない。

『エル・パイス』紙の報道によると、現在メキシコにいる224万人の家政婦のうち社会保険に加入しているのは2.4%に過ぎない、という。

朝最初に起きて夜最後に床に入る、彼女たちの労働は美しく、私的には感謝されているかもしれないが社会的には報われていない。

最悪の男たちが、女たちを団結させる

とはいえ、これまで述べた何よりも増して酷いのが男たちである。

『ROMA/ローマ』に出て来る男は、葉巻でデカい車で拳銃で狩猟で刀だ。もう、こうやって物を並べるだけで彼らを十分語れる。それ以上掘り下げる必要は無い。

女という犠牲者であるソフィアとクレオは、格差と人種差を超えて団結する。横暴で無関心な男という、彼女たちの共通にして最強の敵がいるからである。

毎日スペインでマチスモ(男性優位主義)、男性による女性への暴力が話題にならない日はないが、メキシコもそうなのだろう。いや、しばしば入って来る悲惨なニュースを聞く限り、この国以上なのか。

アカデミー作品賞を選ぶアメリカでのメキシコへの関心具合はいかほどだろうか?

社会問題を扱ったからといって賞が獲れるわけではないだろうが、鑑賞後の味わいは関心の深さで確実に違う。見る前に、例えばメキシコの歴史や「血の木曜日事件」の知識を軽く入れておくといい。

在スペイン・ジャーナリスト

編集者、コピーライターを経て94年からスペインへ。98年、99年と同国サッカー連盟のコーチライセンスを取得し少年チームを指導。2006年に帰国し『footballista フットボリスタ』編集長に就任。08年からスペイン・セビージャに拠点を移し特派員兼編集長に。15年7月編集長を辞しスペインサッカーを追いつつ、セビージャ市王者となった少年チームを率いる。サラマンカ大学映像コミュニケーション学部に聴講生として5年間在籍。趣味は映画(スペイン映画数百本鑑賞済み)、踊り(セビジャーナス)、おしゃべり、料理を通して人と深くつき合うこと。スペインのシッチェス映画祭とサン・セバスティアン映画祭を毎年取材

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