人気=観客動員?サン・セバスティアン観客賞2位『Custody』。共同親権下の”人質”としての子供

週末は強制的に父と。一番守られるべき11歳が体験する恐怖とは?写真は同映画祭提供

サン・セバスティアン映画祭の賞の1つに「観客賞」というのがある。

これは観客(ジャーナリストを含む)が上映後に投票用紙を渡され、それを1点から5点まで採点し投票。その合計ポイントで受賞作を決めるというもの。2017年は16作品が対象で、この『Custody』は2位に入った。

ちなみに、日本公開が中止となった『マザー!』は最下位で、『ハッピー・エンド』はブービー(15位)、『三度目の殺人』は9位。1位の『スリー・ビルボード』は2018年2月の日本公開が決まっている。一般人気が観客動員と一致するなら、そうして『マザー!』の公開中止が不人気のためだとすれば、逆説的に『Custody』は日本で公開されてもいい。

少年サッカーの現場で見る親子の事情

ただ、この題名の日本語訳「親権」がどの程度、日本で身近な問題なのかはわからない。結婚したカップルの6割以上が離婚するスペインと、3組に1組の日本では深刻度が違うからだ。

私はスペインで少年サッカーの監督をしている。指導しているのはこの作品の主人公11歳と同じ年代だ。

子供と接していると自然と家庭の事情もわかってくる。練習日ごとに交替で父と母が送り迎えをし連携が良いのに、2人が一緒にいるところを見たことがない、となると、かなりの確率で「共同親権」、つまり子供の親権を分け合っている。

さらにデリケートなことに、元夫婦の仲はほぼ100%良くない、いやはっきり言えば「悪い」。週末の試合に両親が出くわしても口も聞かない。子供だけがうれしそうだが、よく見ると彼も別々に愛嬌を振り撒いていたりして、けな気である。

「共同親権」と聞くと友好的に響くけど、実際に“仲良く”親権を分け合っているのはごく少数だろう。当たり前だ。仲が良ければ離婚していない。「子はかすがい」という言葉がある通り、子供のために我慢してきたものの限界を超えて別れた、となると遺恨があってもおかしくない。渡したくなかった親権を調停や裁判を経て譲らざるを得なかった、ということもあるに違いない。

『Custody』はこのケースである。

親権の優先権は母親にあり、父親は一部譲渡を訴える
親権の優先権は母親にあり、父親は一部譲渡を訴える

息子の意見は無視され娘は尊重される

子供が作文で父に会いたくない旨を訴えたのに、優秀な弁護人と涙の演技のせいで父親にも親権が与えられてしまう。2週間に1度は強制的に父と子が過ごすことが義務付けられてしまう。

設定としてうまいのは、この男の子に18歳の姉がいること。父は彼女の親権は争わない。なぜなら、成人である姉の会いたくない、という決断は尊重されるから。一方、弟の方は11歳だから、いくら会いたくない、と言っても、“それは母親にそそのかされたから”という解釈の余地が残る。

皮肉なことに、母親の父親への憎しみが明らかなほど、父親は可哀想な被害者面ができ、“憎悪のあまり母親が父と子の仲を裂こうとしている”という心証を調停人や裁判官に与えかねない。”離婚でどちらかが一方的に悪いことはないだろう”という予断もある。結果として「共同親権」という結論にたどり着き易くなるのだ。

週末に迎えに来る元夫へ引き渡される子供は、一種の人質である。“無事に返してほしければ俺と会え”と、いつでも元妻を脅すことが可能なのだから。

「共同親権」は母親には義務を課し、父親には権利を与えた。そして、権利も義務もない法的に無防備な状態にある子供を、さらに精神的・肉体的な暴力に対しても無防備な状況へ追い込むことになる――。

こう紹介すると「離婚の一番の被害者は子供!」という声が出て来そうだ。それはその通りだが、離婚しなければ主人公が幸せになったかと言えば、そうではない。

暴力から逃れるための離婚は正しい。正しくないのは、一見公正で民主的な「共同親権」の裏の顔の方なのだ。