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なぜ“岡山劇場”の岡山一成は監督になったのか。JFL昇格を目指すVONDS市原の新指揮官が決意語る

金明昱スポーツライター
今季からVONDS市原の新指揮官となった岡山一成監督(写真提供・VONDS市原)

 2019年12月、関東サッカーリーグ1部のVONDS(ボンズ)市原が新監督の就任を発表した。その人物が岡山一成であったことに、一瞬、驚いた。

 長らくJリーグでプレーした岡山が、2018年から指導者の道を歩んでいることは知っていた。

 だが、監督就任までの数年間に何を学び、どこを目標に、何を目指しているのかについての消息はほとんど聞いたことがなかった。

 かつて川崎フロンターレ、柏レイソル、ベガルタ仙台などで活躍し、試合後にサポーターと共にマイクパフォーマンスで盛り上がる“岡山劇場”で有名なあの岡山一成が、初めて一つのチームの監督になったというのだから、話を聞かずにはいられなかった。

 ただ、新型コロナウイルスの感染拡大で、直接会うことができず、インタビューはリモートで行うことになったが、のっけからトーンの高い明るい声、笑顔がPC画面いっぱいにあふれ出した。

 VONDS市原はJリーグ百年構想クラブとして承認され、Jリーグ参入を目指している。高い目標もさることながら、昨年は関東サッカーリーグ1部で1位になった強豪クラブでもある。

 ただ、目標であるJFL昇格を逃している。その夢を託されたのが岡山一成新監督というわけだ。

 コロナ禍で中止になっていた関東サッカーリーグも、7月11日(VONDS市原の初戦は12日)から開幕することが決まった。

 気合い十分の岡山監督に、就任の背景やこれから達成したい目標、将来の夢について聞いた。

「天皇杯は戦ったが、監督デビューはまだ」

――今年から関東サッカーリーグ1部のVONDS(ボンズ)市原の新監督に就任されました。しかしながら、新型コロナウイルスの影響でリーグ(前期)が中止となり、リーグ戦の“監督デビュー”が遅れてかなりモヤモヤしていたと思います。

 新型コロナウイルスの感染が広がった時期は、本当にピリピリしていましたよ。VONDS市原は老人ホームで介護の仕事をしている選手もいるので、すごく気を付けていました。練習も続けたかったですが、当面の間は活動休止の判断をしました。今は何とか新型コロナが落ち着いてほしいなという思いが一番です。

――そんな中で関東サッカーリーグも7月11日からの開幕が決まりました。VONDS市原は12日に初戦を迎えますが、どんな気持ちですか?

 今年の2月に天皇杯の千葉県予選の決勝トーナメントで“兄弟対決”という形でVONDS市原Vertと対戦したんです。監督としての公式戦の初戦でしたが、そこで本当にいい戦いができて、これから開幕に向けてがんばろうというところでのコロナ禍です。ただ、自分の中でも本当の意味での“監督デビュー”はまだしていないなという思いがずっとありますね。

――気になっていたのは監督就任までの経緯です。現役時代は試合後にサポーターと一体となって盛り上がる“岡山劇場”が有名でしたが、2017年に現役を引退(奈良クラブを退団)してから何をしていたのでしょうか?

 2017年で選手生活が終わったときに、ずっとどうしようかなと考えていました。僕の場合、“選手の終わり方”というのがよく分からなかったんです。今もどの様に終わったのかな、という思いもあります。ただ、選手としてはとことん、やりたいことをやってきました。そんな中で2017年、本当にどうしようかと悩んだときに、Jリーグの試合を見に行ったんです。

――それはいつの試合ですか?

 川崎フロンターレの優勝決定戦(2017年12月)です。古巣の川崎がリーグ優勝を決めて、ものすごく忘れられない試合でした。当時のチームメイトで唯一残っているのが(中村)憲剛なんですけれど、試合後に『あのときからチームを作ってきた人たちの歴史があるから、この優勝がある』と言ってくれて、それがまた本当にうれしかった。でも、やっぱりそれ以上に、鬼木(達)さんですよ。

17年川崎Fの優勝を見て「指導者になろう」

――岡山監督が現役時代、川崎では鬼木監督と同じプレーヤーとしてピッチに立っていましたよね。

 チームメイトで一緒にプレーしていた人が、Jリーグの優勝監督になったんですから本当にすごいですよ。川崎フロンターレはずっとタイトルを取れなくて、鬼木さんがキャプテンをやっていたときもタイトルを取れなかった。僕が引退したあとも連絡を取りながら、いろんな話をしました。鬼木さんの場合は、監督に就くまで10年ぐらいかかっているので、その瞬間を見たときに、純粋に「鬼木さんかっこいいな!」と思いました。初めて「うわ、何か雲の上の存在になってしまった」って思って(笑)。

――それが指導者になろうと思ったきっかけでしょうか?

 そうなんです。2017年の12月の川崎の優勝が、現在のVONDS市原の監督就任につながっています。今さら僕が憲剛になろうと思ってもなれないなと(笑)。当時、B級ライセンスは持っていたので、もしかしたら鬼木監督みたいに俺もなれるんじゃないかって思ったんです。選手としての体力が落ちていく中、どうやって自分が生きるような道があるのかとか、そういうことばかり考えていましたから。

――そのあと1年をかけてA級ライセンスを取得していますが、これも新たなチャレンジでした。

 実は2017年末に、他クラブから選手としてオファーをもらっていました。それで年末までに答えを欲しいと言われていたのですが、2018年も選手としてチャレンジするのかどうか、とても葛藤しました。そのオファーを受けたら、また選手としてやれる。でも、もう監督をやりたいという思いが強くなっていたので、そこからA級ライセンスの取得を目指しました。

2017年12月の川崎フロンターレの優勝決定戦を観戦した岡山監督(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)
2017年12月の川崎フロンターレの優勝決定戦を観戦した岡山監督(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

「コーチとしてどうか?」と自ら売り込む

――2019年からJFLの鈴鹿アンリミテッドFC(現・鈴鹿ポイントゲッターズ)にコーチとして入りましたが、これはオファーがあったのでしょうか?

 2018年にA級ライセンスを取らせてもらい、どこかで指導をしたいと思い、自分からいろいろ売り込んだんですが、やっぱり時期が悪いこともあり、なかなか見つかりませんでした。そんな中で鈴鹿アンリミテッドにコーチとして入るわけですが、実は2017年の12月の最後に、選手としてのオファーを断ったチームが鈴鹿アンリミテッドだったんです。そこに僕は「コーチとしてどうですか?」と聞いたんですよ(笑)。

――選手オファーを断ったところに、次は指導者として自分を売り込んだわけですね。

 当時の監督がスペイン人のミラ(ミラグロス・マルティンス)という女性指導者でした。そしたら最初、「スペイン語はしゃべれますか?」と聞かれたんです。

――もちろん、スペイン語は話せませんよね?(笑)

 少しは話せるんですよ!(笑) 2011年に半年間、スペインにテストを受けに行ったりしていましたし、「僕はスペインが好きなんです」という話もしました。「じゃあ、スペイン語の通訳はできますか?」と言うんです。さすがの僕でも、そこは嘘はつけないなと。「ちょっと無理です」と伝えたら、どうしても今は通訳兼コーチの人を探さなければならないと断られました。

――それでは一度は断られてから、再びオファーがあったということですか?

 そうなんです。スペイン語を話せるコーチがそこまでいなくて、通訳を採用したので、ヘッドコーチ的な存在が欲しいということで、年明けの2月ぐらいに、オファーがあったんです。自分でもびっくりしました。僕はチームでの指導を諦めて、また1年かけて勉強しようかなと思ったら、開幕前に鈴鹿アンリミテッドに入れたんですよ。

――ものすごく急展開ですが、これも何か縁ですね。

 鈴鹿アンリミテッドで、監督のミラの下で学んだことはすごく大きかったです。彼女は日本のS級ライセンスと同じ国際的な規格のライセンスを持っていて、それこそ、UEFAチャンピオンズリーグ(CL)も指揮できるものです。そこでたくさん教わりましたし、行ってよかった。自分なりにスペインと日本の文化、いろんな違いの微調整を担っていましたし、僕がJリーグで長くやっていた経験というのをミラもすごく尊重してくれていました。ここでの指導者生活にとても満足していて、2019年から2年契約だったので今年も残るつもりでした。

全国地域リーグの経験が監督就任につながる

――それからVONDS市原からオファーが来たと?

 1年しかコーチをしていない自分に、まさか監督のオファーが来るとは思っていませんでした。オファーが来ていると聞いたときは「うわ、俺やりたい」って思いましたね。監督のミラにはすぐに伝えたんです。そしたら「それは絶対にいいことだからやるべき」と言ってくれました。さよならじゃなくて、行ってらっしゃいと送り出してくれました。

――VONDS市原が岡山監督にオファーした最大の理由はどこにあったのでしょうか?

 VONDS市原の監督の最終面談のとき、僕以外にも何人か候補はいました。その時に僕はこうアピールしたんです。全国地域チャンピオンズリーグで勝つためには、練習からしっかりと走っていかなだめだし、シーズン中もどんどん走らせていくと。それにクラブ側がはっきりと言ってくれたのが、僕が「全国地域チャンピオンズリーグを経験しているから」ということでした。たぶん、日本で一番過酷な日程だと思いますよ。1次予選は3日間連続で試合をして、決勝ラウンドも5日間のうち、1日おきに3試合を消化するわけです。JFL昇格のための1年の成果が報われるか報われないか、ここにすべてがかかっていますから。だから、そこを経験している人に託そうというふうになったんだと思います。

――誰がどこで見ているか本当に分からないですね。

 2014年にVONDS市原が初めて地域リーグ決勝大会に進んだときの予選リーグで、当時、僕が在籍していた奈良クラブと対戦したんです。そのときは奈良クラブが勝利し、僕らはその年に優勝してJFL昇格を決めました。当時、僕がチームを盛り上げている姿をVONDS市原の方が見てくれていたんです。だからそこにも縁があるんですよね。

取材はリモートで行われた(写真提供・VONDS市原)
取材はリモートで行われた(写真提供・VONDS市原)

「覚悟を持ってやりなさい」と言われ

――周囲に監督になることを伝えた時、どのような反応でしたか?

 僕が川崎フロンターレで選手していたとき、GMだった庄子春男(現・川崎フロンターレ強化本部本部長)さんに「監督をします」って伝えたんです。僕は元々こういうキャラなので、「庄子さん、俺、監督になっていい経験をするので、いつかフロンターレにオファーをもらえるように頑張りますから」と言ったんです。いつもだったら冗談ではぐらかされるのに、「監督やるんか」と驚いていました。普段の庄子さんなら「お前にそんなん任せるなんて大丈夫か」とか言われているはずなんですけれど、「監督として何十人もいるチームの選手をまとめるのだから、それはもう並大抵じゃない。覚悟を持ってやりなさい。監督をやれるチャンスが、一生来ない人もいるのだから。それに一つのチームを率いたというのは、自分のキャリアとして必ず生きてくるから」と言ってくれたのがすごく励みになっていますね。

――川崎フロンターレには特に強い思いがあるのですね。

 僕は“打倒・鬼木さん”ですから(笑)。これは冗談ではなく本気です。本気でそこを目指しますよ。鬼木さんが10年かけてJリーグで優勝したように、自分も10年たったときには、鬼木さんのその位置より上にいく気持ちでやりたいと思っています。

選手に最初に伝えた「市原市民歌を覚えてきなさい」

――選手時代は試合後にサポーターと一体となって盛り上がるマイクパフォーマンスの「岡山劇場」が有名ですが、「サポーターと共に市原劇場を作り上げる」とも宣言していますね。

 選手、監督、コーチとかは関係なく、僕はいつもそのグラウンドという空間を本当に劇場にしたいんです。鈴鹿アンリミテッド(現・鈴鹿ポイントゲッターズ)にいたときも、コーチながらも、“鈴鹿劇場”をやっていました。市原でも選手たちに「劇場を作るから、『市原市民歌』を覚えてきなさい」と最初に伝えましたから(笑)。

――「市原市民歌」という歌があるのは知りませんでした。

 僕が行く街にはありがたいことに、本当にいい歌があるんですよ。探してみたら市原には「市原市民歌」がありました。「海幸誇る市原に♪」とね。それを選手の前で最初の演説で歌いました。みんな、ぽかーんとしていましたね(笑)。もちろん歌を知らない選手もいたのですが、これを絶対覚えてきてほしいと言いました。

――就任初日にそんなことを伝える監督は、たぶん他にいませんよね。

 僕くらいでしょう(笑)。でも、今は試合前にみんなで歌っています。これを市原市の市長もすごく喜んでくれているんです。市長に表敬訪問に行ったときも、「市民歌の話はうれしい」と言ってくださったので、「市長もスタジアムに来て一緒に歌ってください」と伝えました。

――岡山監督はチームの盛り上げや団結のためには、歌は大切な要素と考えているのでしょうか。

 歌というのは、心が一つになっていくんですよね。僕はどのチームに行っても、そのチームの応援歌なり、街にまつわる歌をまずはYouTubeで探します。Jリーグにいたときもそうです。川崎フロンターレのときもそうですし、柏レイソル時代は「柏バカ一代」とかね。まずは最初に勝ったときの喜び方を考えて、これを選手みんなで歌おうよと提案していく。どこに行っても僕はそうしていきますね。だから僕はこの市原市の市民歌が、VONDS市原だけじゃなくて、市原市の人たちみんなに歌ってほしいと願っています。

――監督としてのスタートラインにようやく立ったわけですが、VONDS市原での目標はやはりJFL昇格でしょうか。

 去年、VONDS市原は関東リーグ1部で1位でしたが、やはり目標は自分の中ではJFL昇格というのを本当に達成したいと思っています。それができないなら、ここに来なかったですよ。チームからのJFL昇格がミッションだとはっきり言われているのでがんばりたいですね。

――最後に開幕に向けてのメッセージをお願いします。

 僕はJリーグから8年も遠ざかっているので、今のJリーグは進化がすごくて、自分が置いてけぼりを食らっている感覚です。僕は選手を長くやりたいと言って地域リーグやJFLでやってきましたが、竜宮城にいるみたいで、すごく楽しかった。もしかしたら古い感覚になってしまっているかもしれないけれども、地域リーグでやってきた歳月で、自分が成長したと信じたい。「地域リーグでやってきて良かったんだぞ!」って見せるためにも、監督として結果で証明しないといけない。自分の夢でもあるJリーグの監督に続く道でもあるので、まずはVONDS市原をJFL昇格に導けるように頑張っていきたいです。

12日の開幕戦に向け、指導にも気合が入る(写真提供・VONDS市原)
12日の開幕戦に向け、指導にも気合が入る(写真提供・VONDS市原)

■岡山一成(おかやま・かずなり)

1978年生まれ。大阪府堺市出身。1997年に横浜マリノスに入団。その後、大宮アルディージャ(1999年)、横浜F・マリノス(2000年)、セレッソ大阪(2001年)、川崎フロンターレ(2002~05年)、アビスパ福岡(2005年、期限付き移籍)、柏レイソル(2006~07年)、ベガルタ仙台(2007~08年)、浦項スティーラース(2009~10年)、コンサドーレ札幌(2011~12年)、奈良クラブ(2013~17年)でプレー。奈良クラブでプレーした後、指導者の道へ。2018年に日本サッカー協会公認A級ライセンスを取得し、同年に関東学院大学サッカー部アドバイザー。19年は鈴鹿アンリミテッドFC コーチを務め、今年からVONDS市原監督に就任した。

スポーツライター

1977年7月27日生。大阪府出身の在日コリアン3世。朝鮮新報記者時代に社会、スポーツ、平壌での取材など幅広い分野で執筆。その後、編プロなどを経てフリーに。サッカー北朝鮮代表が2010年南アフリカW杯出場を決めたあと、代表チームと関係者を日本のメディアとして初めて平壌で取材することに成功し『Number』に寄稿。11年からは女子プロゴルフトーナメントの取材も開始し、日韓の女子プロと親交を深める。現在はJリーグ、ACL、代表戦と女子ゴルフを中心に週刊誌、専門誌、スポーツ専門サイトなど多媒体に執筆中。

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