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スクールウォーズから“優勝校長”へ。前橋育英・山田耕介監督物語

川端暁彦サッカーライター/編集者
96代目の王者に輝いた前橋育英・山田耕介監督(写真:アフロスポーツ)

 第96回高校サッカー選手権は前橋育英高校の優勝で幕を閉じた。「勝てない」「勝負弱い」と揶揄されることも少なくなかった山田耕介監督がつかんだ栄冠である。

「ホントに変なんですけれど、試合終了の瞬間はホッとした。『また準優勝か』とか言われるのかなあとか思ってしまっていた。だから生徒たちに『本当におめでとう、よかったな』という感じでした」(山田耕介監督)

 今回はそんな山田監督の優勝に至る軌跡を振り返ってみたい。

すべては「スクールウォーズ」から始まった

前橋育英高校オフィシャルサイトのスクリーンショット。校長先生である
前橋育英高校オフィシャルサイトのスクリーンショット。校長先生である

 前橋育英高校のホームページを開いて「学校紹介」のコーナーを開いてみると、校長先生が学校の理念や特色について語っているコーナーを読むことができる。よくある構成であり、このこと自体は驚きではないだろう。ただ、「校長先生」として登場しているのは、前橋育英高校サッカー部を率いて96代目の高校サッカー王者に輝いた山田耕介監督なのだ。

 山田監督も最初から「校長先生」だったわけでは、もちろんない。単に勤続年数が長かったので校長の椅子へ座ることになったわけでもない。その背景には情熱の指揮官が群馬の地で果たした幸運な出会いと、「毎日が戦いだった」という日々がある。

 長崎出身の山田監督が群馬へ来ることになったのは、少々偶発的な背景がある。「自分は長崎で教員になるつもりだった」と言う山田監督は、その教員試験に向けて準備を進めていた。1981年度のことである。島原商業高時代の恩師である小嶺忠敏監督(現・長崎総科大附高監督)も、自分の後継者と見込んでいた愛弟子の帰還を待ち望んでおり、ある意味で自然な進路選択だった。

 ところが、所属する法政大が全国大会で勝ち残っており、その準決勝と教員試験の日程がバッティングしてしまったのだ。事前に分かっていたことなので「監督、この日だけはお願いします」と根回しもして了解を得ていたつもりだったが、いざ準決勝進出が決まると話がコロリと変わる。「『おい、耕介。お前はサッカーと試験、どっちが大事なんだ?』と迫られてね。『サ、サッカーです』と答えてしまった」(山田監督)ことで、未来が急転することとなってしまった。

 元よりサッカーの実力は高く評価されていたので、進路自体に困っていたわけではない。当時はJリーグ開幕前だが、富士通(現・川崎フロンターレ)への加入が決まり、卒業後もサッカー選手としてやっていくことが決まりかけていた。「小嶺先生のような教師になるんだ」という大志を捨てたわけではないが、道がなくなってしまったのなら仕方ない。そう思っていたところ、大学生活も残りわずかとなった2月になり、事態は急転することとなる。

 前橋育英高校から教員として採用したいという話が舞い込んだのだ。

 この背景もちょっと複雑だ。実は群馬県が翌年に国体開催を控えており、当時はいま以上に権威のあったこの大会へ向けて県をあげての強化が進められていた。有力選手を「教員」として引っ張るのも珍しい話ではない。思わぬ形で「教員」の夢を叶えられる道が見えたため、この話に乗って「縁もゆかりも何もなかった」群馬の地へ赴くこととなった。もっとも当時はあくまで「翌年の国体が終わったら、長崎に戻って教員になろう」というプランだった。

 ところが、この当時の前橋育英高校は余り芳しい状態ではなかった。

「大学の後輩に群馬から来たやつがいたんでね。聞いてみたんですよ。『おい、前橋育英ってどんな学校なんだ?』と。そうしたら『いや、あそこは……』と口ごもるんです」(山田監督)

 現在の前橋育英しか知らない世代にはちょっと考えにくい感覚だろうが、当時は地域の人からちょっと敬遠されているような、「要するに不良校」(山田監督)と思われていたのである。

 実際に赴任してみると、山田監督は後輩から聞いた話も十分にオブラートに包まれたものだったことに気付かされる。訪問早々にサッカー部を訪ねてみると、色彩も形も豊かなバリエーションを持った頭髪をした生徒たちが新米教師と対峙することとなる。

「あ? なんだてめえは?」

 乱雑な部室からは煙草の煙も漂ってきた。「完全にスクールウォーズの世界でした」(山田監督)。

 当時のサッカー部員は20人ほど。当然、強くはなかった。学校としてはもちろん、サッカー選手として秀でている山田監督を招くことで強化を図りたいという気持ちもあったはずだが、どこまで本気でやれると思っていたかは定かではない。それだけ酷い状態だったからだ。

「偉そうにやってきて何やら文句を言ってくる自分に腹が立ったんでしょう。すぐに練習をボイコットされましたよ。1カ月半、いや2カ月だったかな」(山田監督)

 打開を図るために、若き青年教師が取り組んだのは、「まさに体当たり指導」(同監督)である。

「彼らは教師から隠れて悪いことをするんじゃなくて、堂々と悪いことをしていた。そういうふうに育ってしまっていただけで、根はいい子なんですよ。だから、『俺と勝負しろ!』と言って、戦いを挑みました」(山田監督)

 最初は3000メートル走で勝負したそうで、これは監督の圧勝。練習不足のサッカー部員と、全国トップレベルの大学で戦ってきた実力者では勝負になるはずもない。「じゃあ、1対1だ」とサッカーの勝負もしたが、こちらも当然ながら結果は見えている。「で、それなら『相撲で勝負だ!』とか言われて、相撲までした」(山田監督)。取っ組み合いのバトルも経て、教師と生徒の距離は徐々に近づいていく。自分たちを恐れて敬遠している教師たちと、この「山田先生」の間に決定的な差があることに彼らも気付き始めたからだ。少しずつ態度が変わり、練習への姿勢も変わり、そうなればサッカーも変わっていく。「前橋育英サッカー部」の礎は、まさにこの最初の代で築かれていった。

群馬に根を下ろして

「徐々に、徐々に、少しずつ分かり合っていく感じでした。最初は僕も彼らのことをよく分かっていなかったし、何でこんなワルなんだとか思っていたけれど、そうじゃないんだと分かったし、彼らも僕のことを少しずつ認めてくれて、変わっていってくれた。大変でしたけど、でも楽しかったんだろうなあ。今では、みんな飲み友達なんですよ」(山田監督)

 そして山田監督が企んでいた「長崎帰還プラン」は破綻することになる。小嶺先生からは毎年「まだなのか?」という催促の電話がかかってきたのだが、「先生、いま見ているこの子たちを見捨てるわけにはいかないので」と断るものの、「でも次の年には新しい子が入ってくるんですよね(笑)。そうすると、『この子たちも見捨てるわけにはいかない』という気持ちにやっぱりなるんですよ」(山田監督)

 やがて群馬で家庭を築き、両親も群馬に呼び寄せた山田監督は、すっかり「群馬の男」になって「いつか小嶺先生のように」という夢を追い掛けることになる。

 もっとも、全国優勝への道は長く険しいものだった。後にフランスW杯日本代表MF山口素弘が入学してきたことが一つの転機となり(山口は前橋育英が第一志望ではなかったそうなので、偶発的な要素もあっての入学である)、1986年度大会で選手権に初出場を果たす。これで一気に上昇するかとも思われたが、そう甘い世界でもなかった。

「そのあと3年間は出られなかった。奈良知彦先生(現・ザスパクサツ群馬社長)の前橋商が本当に手強くて……。先生には逆に相談へ行ったりもしたんですよ。『どうしたら先生に勝てますか?』って(笑)。でも先生は温かくてね。そんな私にも付き合ってくれた。普通なら、群馬の外からやって来た“よそ者”ですから、疎外されていてもおかしくない。でもそうじゃなかったんだよなあ」(山田監督)

 ライバル二人の友誼は現在も続き、その後も違う果実を実らせることになるのだが、それはまた別のお話である。現在の山田監督は「優しい」と評されることが多いが、こうした原体験が背景にあることは想像に難くない。

 こうした苦労を経ながら徐々にサッカー強豪校としての体裁も整い、選手も集まるようになっていく中で群馬県内での地位を前橋育英は確立していく。全国大会での学校としての地位自体も向上し、「滑り止め校」「不良校」というイメージも徐々に脱却していくこととなった。サッカー部以外の生徒も集まるようになり、施設も整った。こうした流れを生み出した功労者なのだから、山田監督が「校長先生」にまで出世するのは、学校側からすると、むしろ自然なことでもあったのだ。

そして、初めて宙に舞う

昨年1月、新人戦での一コマ。このときも「もう0-5を忘れたのか!」と選手たちを叱咤していた。(写真:川端暁彦)
昨年1月、新人戦での一コマ。このときも「もう0-5を忘れたのか!」と選手たちを叱咤していた。(写真:川端暁彦)

 全国的な強豪となってからも道のりは険しかった。1998年度、99年度、01年度の選手権で4強入り。08年度にも4強、14・16年度には準優勝と、「亀の歩みのようだけど」(山田監督)少しずつ栄冠に迫っていった。その間にも故・松田直樹氏や青木剛、細貝萌といったトップクラスの選手たちをJリーグや代表の檜舞台へ送り出し続けたが、どうにも優勝だけは届かない。前年度決勝に大敗したあとは「日本一勝負弱い監督と言われるんだ」と肩を落とした。

 前年度、青森山田に屈辱的大敗を喫したあとは「自分はずっと悔しい思いばかり。決勝で0-5というのはない。あれは、立ち直れない」と悔し涙も流した。だが、それでも山田監督はグラウンドへ向かい続けた。今年度から「校長先生」の肩書きも付き、サッカー部の指導から手を引いたり、少し離れたりしても誰も何も言わなかっただろう。それでもグラウンドに立ち、校長の仕事で立てないときは「すまない」と選手に謝りもした。真摯な姿勢は選手たちにも伝わっており、「いつも本気で自分たちにぶつかってきてくれる」(MF田部井悠)というリスペクトを勝ち取る要因ともなっていた。

 ベースにあったのは新米教師だったころでも校長先生になってからでも変わらない指導者としての情熱である。つらい経験があっても、結局は「だって楽しいもん」と選手たちに向き合ってきた。

 96回目の全国高校サッカー選手権大会。1月8日の決勝戦は、最後の最後に劇的な決着。監督生活36年目にして「山田先生」が初めて宙を舞った。

「やっぱり0-5という負けは強烈だった。でも、だからこそ、そこから強くなっていったんだと思う。『0-5を絶対忘れるんじゃねえ』というのは繰り返し言ってきた。忘れるような雰囲気のときもあったんで、そういうときはまた映像を見せてやってきた」

 勝負弱いと言われてきたチームと監督が屈辱の記憶を糧にしながらやってきた1年間。敗れた流経大柏の本田裕一郎監督は力の差を認めて「負けるべくして負けた」と試合を評したが、チームが掲げるスローガン通りに強く激しく美しいチームへと生まれ変わった前橋育英が「勝つべくして勝った」試合までたどり着いた。

「『泥臭くやろう』と言ってきた」山田監督と選手たちが全力で向き合う日々は36年にわたって継続されてきたもの。その結晶としての初優勝だった。

サッカーライター/編集者

1979年8月7日生まれ。大分県中津市出身。2002年から育成年代を中心とした取材活動を始め、2004年10月に創刊したサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊事業に参画。2010年からは3年にわたって編集長を務めた。2013年8月をもって野に下り、フリーランスとしての活動を再開。古巣の『エル・ゴラッソ』を始め、『スポーツナビ』『サッカーキング』『サッカークリニック』『Footballista』『サッカー批評』『サッカーマガジン』『ゲキサカ』など各種媒体にライターとして寄稿するほか、フリーの編集者としての活動も行っている。著書『2050年W杯日本代表優勝プラン』(ソルメディア)ほか。

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