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がんとコロナと認知障害 独居の高齢がん患者の現実(下)

片瀬ケイ在米ジャーナリスト、翻訳者、がんサバイバー
認知機能の低下で薬を飲み忘れたり、飲めなくなってしまったら?(提供:イメージマート)

突然、寝たきりに

 ようやく新型コロナの感染者数が減少傾向に転じたが、8月下旬の日本は第7波のニュースで持ちきりだった。発熱外来の予約がとれない、救急車が来ても搬送先の病院が見つからない、病院で診てもらえずに自宅で死亡したといったニュースが続いていた。

 私が帰国してすぐの8月中旬に、母の4回目コロナワクチン接種の予定が入っていた。その日、母は緊張したのか、何度となくワクチン接種券をカバンから取り出して眺めては、「今日は何時からコロナの注射だっけ?」、「どの病院だっけ?」、「何の注射だっけ?」、「今日はどこへ行くんだっけ?」と繰り返し聞いた。母の急激な認知機能の低下に愕然としながらも、これから介護サービスで多くの人と会うようになる前に4回目の接種を済ませられることに安堵した。

3年ぶりに会った母の異変についての前編は、こちらから。

 8月下旬。猛暑の続く東京で母はあまり食べなくなり、水分補給には応じるものの、ほぼ一日中ベッドで眠るようになった。そしてある日の夕方、突然、体が震えて立てなくなった。私は生まれてはじめて救急車を呼んだ。すぐに来てくれた救急隊員は、母が高熱を出していることに気づいた。その日の昼過ぎは、確かに平熱だったのに。今は病院に運んでもコロナの検査をして解熱剤を持たされて家に戻されるので、高齢者は消耗するだけかもしれないと救急隊員に告げられ、自宅にあった解熱剤を飲ませてそのまま休ませることにした。

 翌朝には熱はだいぶ下がっていた。米国から持ってきた抗原検査では陰性という結果だったが、念のためその週から来てもらう予定の介護ヘルパーはキャンセルした。その一方で、歩けない状態の母を病院に連れて行く可能性を考え、ケアマネージャーに車椅子の手配をしてもらった。

 その後も微熱が続き、母は食事がとれず、トイレにも行けない寝たきり状況となった。介護経験のない私は、スーパーに何度も足を運び水分補給のスポーツドリンクや介護食、紙パンツやおむつ、防水シート、お尻ふき、消臭効果のあるごみ袋など、必要と思われるものを手あたり次第に買ってきた。3時間ごとに水分補給やおむつ交換をし、一日に何回も洗濯機を回した。

 数年前に亡くなった義父が長い間アルツハイマー型認知症を患ったため、認知障害に関してまったくの未経験ではなかったが、短期間のうちに猛スピードで壊れていくような母の変化にうろたえた。私が帰国した直後は、86歳でも何種類もの薬を適切な時間に自分で摂取し、週に1、2回はコンビニやスポーツクラブに1人で行っていた。それが2週間もしないうちに、朝と夜の認識もできなくなり、24時間介護を必要とする寝たきり状態になってしまったのだ。

コロナ禍での入院

 9月頭には母が腹痛を訴えたので、がん治療で通っている総合病院に連れて行った。ただし診療前に発熱外来のPCR検査でコロナ陰性を確定する必要があった。当時はまだ、どこの医療機関も検査件数の急増と全数検査報告の作業に追われ大忙し。母も猛暑のなか「迅速検査」のために戸外で1時間以上も待たされ、やっと陰性の結果をもらった。消化器科での診察ではもともとの大腸がんの転移によるがん性腹膜炎という見立てで、そのまま入院となった。

 抗がん剤は大腸内の腫瘍には効いていたようだが、小腸部分の転移には効果が見られず、母の全身状態も悪化したので中止とした。コロナによる面会制限で、入院中は面会できない。病棟のエレベーター前で車椅子に乗った母と別れる際、コロナ感染で病院に運ばれて、そのまま家族と会うこともなく病院で亡くなる高齢者のイメージが私の頭に浮かんだ。

 幸いにも母の病院では週1回、15分と短時間だがZoomによる面会ができるようになっていた。数日後、コンピューター画面ごしとはいえ、母の顔を見ることができて少し安心した。しかし実際の母の状況はわからない。病院や施設に入ると認知機能がさらに衰える高齢者の話も耳にするが、母はどうなるのだろう。

 コロナ禍で渡航制限が続き、3年ぶりにようやく2カ月ほど母と落ち着いた時間を過ごすはずだった。しかし壊れていく母との怒涛のような3週間が過ぎた後は、母のいないアパートにひとり座り、膨らむ一方の不安を抱えながら今後の母の生活を思い悩む日々が突然やってきた。

1人暮らしができなくなる時

 入院して3週目に入ると治療も終わり、母は食事もとれるようになった。シルバーカーを押しながらトイレにも自分で行けるほど回復したらしい。急性期の病院は治療の場であり、患者はその後は自宅やそれ以外の場所で、必要に応じた介護を受けながら療養することになる。

 母は当然、自宅で1人暮らしを続けるつもりだろうが、体力や認知機能が低下した状態で服薬管理やお金の管理、買い物や食事の準備といった日常生活ができるとは考えにくい。遅かれ早かれ、本格的な終末期のがんの痛みコントロールの必要性もでてくるだろう。数週間後に米国に戻る予定だった私は再び焦燥感にかられ、どんな介護サービスなら母の生活を支えられるのか、ケアマネージャーに相談した。

 介護度や本人のニーズによっても違うが、ヘルパーやデイサービス、訪問看護、短期的な介護施設への入所などが使えるという。家族が多少なりとも見守れる状況にあれば、こうしたサービスを組み合わせて生活できるかもしれないが、独居では難しい。例えば一時的に排泄に問題が起きたり、自宅内で転倒して立ち上がれなくなったりしても、母が自分で対処できなければ、ヘルパーさんが訪問してくれる時までそのままになってしまう。具合が悪くなった時に、母が自分だけで救急車を呼べるかどうかも疑わしい。

医療と介護のはざまで

 介護施設に入ったとしても、安心はできない。そこでは医療行為ができないために、例えば痛みが出るなど体調を崩せば救急車で再び病院に送られるという。容体が安定したら、また療養先を考えるといった繰り返しになる。

 終末期のがん患者である母の場合は、どのみち医療的なケアが必要なため、退院後の療養先について相談や調整をしてくれる病院の医療福祉相談員に相談した。痛みを恐れている母は、最終的にはホスピスに入ることを希望している。しかし多くのホスピスや緩和病床は、すでに何百人もの人が入所の予約登録をしつつ在宅療養をしており、必要度が高くなった人から入るといった仕組みになっているようだ。

 長期療養が必要な人を対象に医療と介護を一体的に行う介護医療院というのもあるが、こちらも実際には介護度がかなり重い人でないと入所できないそう。長期に入院できる昔からの療養型病院だと、今のようなコロナによる面会制限が続けば入院したきりでオンライン面会さえなく、それこそ最後まで会えない可能性もある。

 病院の医療福祉相談員から比較的新たな形態として紹介されたのが、がん末期や人工呼吸器使用など医療ケアが必要な人を受け入れる有料老人ホームだった。看護師や介護士が常駐する居住型病床スペースで、入居者が選んだ外部の在宅診療医、調剤薬局、ケアマネージャーなどと連携して医療と介護を提供しながら看取りまで対応するという。

 ホスピス的な要素もあり、コロナ対策をしつつも対面による家族との短時間の面会や、差し入れの自由など病院よりも柔軟性がある。介護保険や医療保険を使うことでケアにかかる費用は比較的抑えられるという。施設の担当者によれば、ホスピスに入れない、がん末期で介護施設は受け入れ不可、在宅での療養は不安といった人達からの問い合わせが増えているそうだ。

 母の行先は、まだ決まっていない。独居で終末期のがん患者である母が、安心して最後の時間を過ごせる場所はどこなのだろう。若い時から体が弱く50歳でがんを発症した母は、自分でも80代半ばまで生きるとは思いもせず、最後はがんの治療で入院中に死ぬと考えていたようだ。

 しかし今やがんを発症しても、社会生活を送りながら治療をし、長く生きる人達も沢山いる。緩和ケアや在宅医療も使われるようになり、がんの終末期でさえ、どこで、どのように過ごすかの選択肢が増えた。他方、高齢になれば認知障害やがん以外の基礎疾患の悪化といったリスクや介護の必要性もでてくる。私ももっと早くに介護サービスやホスピス、施設についての情報収集をし、母と最期の迎え方についての「人生会議」をしておくべきだったと、つくづく思う。

在米ジャーナリスト、翻訳者、がんサバイバー

 東京生まれ。日本での記者職を経て、1995年より米国在住。米国の政治社会、医療事情などを日本のメディアに寄稿している。2008年、43歳で卵巣がんの診断を受け、米国での手術、化学療法を経てがんサバイバーに。のちの遺伝子検査で、大腸がんや婦人科がん等の発症リスクが高くなるリンチ症候群であることが判明。翻訳書に『ファック・キャンサー』(筑摩書房)、共著に『コロナ対策 各国リーダーたちの通信簿』(光文社新書)、『夫婦別姓』(ちくま新書)、共訳書に『RPMで自閉症を理解する』がある。なお、私は医療従事者ではありません。病気の診断、治療については必ず医師にご相談下さい。

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