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【アイスホッケー】廃部が決定した日本製紙クレインズの「これから」を考える<2>

加藤じろうフリーランススポーツアナウンサー、ライター、放送作家
日本製紙クレインズのホームゲーム(Photo:Jiro Kato)

 2003年11月に第一歩を記した「アジアリーグ アイスホッケー」の初代優勝チームで、国内屈指のホッケータウン釧路のシンボルとなっている日本製紙クレインズ(旧十條製紙)が、昨年12月19日に今季限りでの廃部を発表しました。

 昨日配信した廃部が決定した日本製紙クレインズの「これから」を考える<1>に続いて、今日は20季前に廃部発表から一転、クラブチームとして再生し、今も活動を続けているチームを紹介します。

▼古河電工が活動停止を発表

 「日本リーグ」の名前を記した中では、サッカーに次ぐ長い歴史を誇った「日本アイスホッケーリーグ」。

 1966年11月15日に最初の試合が行われてから、2004年2月29日まで、国内のトップリーグとしてファンを沸かせました。

 しかし、38季にわたる長い歴史の中には、第1回リーグで優勝した岩倉組や、大阪をホームとしていた福徳相互に始まり、晩年には西武鉄道など、チームの歩みにピリオドを打ったチームも。

 日光市(栃木県)を活動拠点としていた「古河電工」(登録名が古河の年も含む)も、その一つです。

▼日本リーグで初めての市民クラブチーム

 1925年(大正14年)末に、従業員のレクリエーションとして「日光精銅所アイスホッケーチーム」が誕生。

 翌年には東京へ赴き試合を戦うなどして本格的に始動したチームは、相手にパックを渡さず攻撃を仕掛ける「ローリングオフェンス」を武器に、全日本選手権で2連覇を含む4度も日本一に輝いた実績を誇ります。

 1951年にチーム名を「古河電工」に改めて以降、景気の低迷による休部などを経ながら、73季にわたって活動を続けましたが、1999年3月7日のクレインズ戦をもって活動停止(廃部)に。

 しかし、翌シーズンからは、日本リーグで初めての市民クラブチーム「日光アイスバックス」(当時の名称)に生まれ変わり、現在に至っています。

▼アイスバックス誕生へ苦難の道のり

 古河電工からアイスバックスに移行した前後を含む12季にわたって、筆者はホームゲームのテレビ中継の実況や、出版物の原稿執筆を担当し、目の当たりにしてきただけに痛感しましたが、企業チームから市民クラブチームへの移行は、文字どおり「苦難の道のり」だったと言えるでしょう。

 「長野オリンピック」が幕を下ろして1年になろうとした1999年1月14日。古河電工がシーズン終了後にアイスホッケー部の活動を停止すると発表。

 この知らせを受けて、すぐさま動きを見せたのが、日本アイスホッケー連盟(日ア連)の堤義明会長(当時)でした。

▼日本人初のHall of Famer

 長年にわたり日ア連の会長職を担い続けた堤氏は、NHLの日本公式戦開催や、長野オリンピックで史上初めて現役NHL選手が出場できるよう尽力するなどした功績を称えられ、1999年に日本人で初めてアイスホッケー殿堂入りを果たしました。

  

1999年に日本人で初めてアイスホッケー殿堂入りを果たした堤義明氏(Photo:Jiro Kato)
1999年に日本人で初めてアイスホッケー殿堂入りを果たした堤義明氏(Photo:Jiro Kato)

▼古河電工存続へリーダーシップを発揮

 古河電気工業(株)がシーズン終了後の活動停止を正式に発表すると、すぐさま堤会長は「地元の栃木県アイスホッケー連盟が軸になって、3月までに新たなスポンサーを見つける。不可能だった場合は、日ア連が8月末までを目安に全国的なスポンサーを探す」との活動指針を発表。

 さらに加えて、「在籍選手の移籍は8月まで認めない」と公言し、スポンサーが見つかった際に、チームを構成する選手がいなくなってしまう危険性も防ぐなど、アイスホッケー界のトップパーソンとして、リーダーシップを発揮しました。

▼受け入れ先を見つけるも・・・

 その一方で、堤会長は古河電工に替わる新たなスポンサー企業を、早々に見つけていました。

 現存する企業のため社名は明かしませんが、当時の古河電工に所属していた複数の選手が、「新しいチームの運営企業だと知らされた」と話していたので、チームをそのまま受け入れる全体移籍となる予定でした。

 しかし、既に日光では、ファンの署名活動をはじめとするチーム存続の運動への気運が高まり、「古河電工アイスホッケーチームを愛する会」のメンバーが、チームの活動停止発表から、およそ2ヶ月半の間に、日光でのチーム存続を求める「41000人」分の署名を集め堤会長に提出。 

 それに先立ち3月19日には、堤会長と栃木県アイスホッケー連盟会長も兼務する日光市長との会談終了後、「日光にチームを残すことを前提に、スポンサー獲得の活動期間を延長する」との指針を公表。

 これによって、事実上(翌シーズンに)日光からチームが移転する可能性が、ゼロになりました。

▼次々に打ち出された「支援策」

 堤会長の尽力とは異なる路線へ向かっていったものの、堤会長と日ア連は、次々と「支援策」を打ち出します。

 当初は「5月末まで」としていた日本リーグ参戦可否の決定時期を「6月下旬」まで遅らせたのに加え、開幕も約半月遅らせて、アイスバックスの活動資金を集める期間を、少しでも長くするスケジュールを作成。

 それとともに、レギュラーシーズンの試合数を、前年より各チーム10試合ずつ削減し、年間の活動経費を抑えられるように改めました。

 さらに加えて、強化や普及活動の際に、日ア連の大きな財源となっていた日本リーグの興行収入を、ホームチームに付与する改革を断行。

 堤会長の働きかけを受け、古河電工も最長で2季までなら、アイスバックスでプレーしたあとも会社に戻ることが可能な、出向制度を設けるなど、次々に打ち出された「支援策」が、アイスバックスが軌道に乗るまでの創設期を支えたのです。

▼「鶴への恩返し」に期待!

 このような日本のアイスホッケー界こぞってのサポートに助けられ、アイスバックスは今季で創設20周年を迎えました。

 くしくも、アジアリーグを統括するチェアマンは、昨季までアイスバックスの会長を務めていた小林澄生氏。

 クレインズファンのみならず、アジアのアイスホッケーファンは、チーム名のクレインズ(=鶴)になぞらえて、「鶴への恩返し」に期待を寄せているかもしれません。

フリーランススポーツアナウンサー、ライター、放送作家

アイスホッケーをメインに、野球、バスケットボールなど、国内外のスポーツ20競技以上の実況を、20年以上にわたって務めるフリーランスアナウンサー。なかでもアイスホッケーやパラアイスホッケー(アイススレッジホッケー)では、公式大会のオフィシャルアナウンサーも担当。また、NHL全チームのホームゲームに足を運んで、取材をした経歴を誇る。ライターとしても、1998年から日本リーグ、アジアリーグの公式プログラムに寄稿するなど、アイスホッケーの魅力を伝え続ける。人呼んで、氷上の格闘技の「語りべ」 

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