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そういえば「高松塚古墳」は誰の墓かわかったの?

石田雅彦科学ジャーナリスト、編集者
飛鳥美人と呼ばれる西壁の女子群像(再現模造模写) 画像提供:高松塚壁画館

 高松塚古墳は、その華麗な壁画により、発見された頃から注目を集め、古代史ブームの先駆けになった。だが、誰が埋葬されているのかは、まだ議論が続いている。いったい誰の墓だったのだろうか。

終末期古墳とは何か

 特別史跡に指定されている高松塚古墳が発見されたのは1972(昭和47)年3月のことで、すでに50年以上も前のことだ。半世紀以上経つが、依然として誰が埋葬されているのか、被葬者は誰だったのかについては議論が続いている。

 そもそも古墳とは、大区分としての墓の中に墳墓があり、その中の古代の墳墓が古墳だ。古墳の時代区分としては、弥生時代の後に古墳時代があり、前方後円墳などの古墳が各地で築かれたことで名付けられた。古墳時代は3世紀中ごろから7世紀ごろとされ、倭からヤマトへの移行期にあたる。

 古墳時代の現在の学術的な区分は、前期、中期、後期、終末期に分けられ、その中で高松塚古墳は、藤原京の時代(694年から710年、7世紀末から8世紀初頭)の古墳時代終末期の古墳と考えられている。天皇でいうと、およそ文武天皇(在位697年から707年)、元明天皇(天智天皇の第四皇女、草壁皇子の妃、文武天皇の母、707年から715年)の時代だ。

 終末期古墳の特徴は、墳形は円墳、方墳、前方後円墳、八角墳、上円下方墳などがあり、埋葬施設は大型の横穴式の石室から石槨(せきかく、一人分の棺だけの小部屋)など、棺も木棺や乾漆棺といった多様化、副葬品の簡素化などがある。また、ヤマト政権の葬儀に対する規制(646年に発せられた大化の薄葬令など)の影響、そして風水思想など中国からもたらされた思想の影響がうかがえ、石室などに用いられた凝灰岩(高松塚古墳とキトラ古墳は二上山の凝灰岩)の切石技術や石組みの技術も高度化する。

奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)にある高松塚古墳。二段式の円墳で終末期古墳とされる。写真撮影筆者。
奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)にある高松塚古墳。二段式の円墳で終末期古墳とされる。写真撮影筆者。

海獣葡萄鏡という副葬品

 高松塚古墳の被葬者の推測では、この間に亡くなった人物が当てはまるだろう。ただ、候補者はまだたくさんいるので、絞り込まなければならないが、可能性のある人物は数十人もいる。

 高松塚古墳の調査により、石室(石槨)内から熟年(40代から60代)男性(身長160cm前後)と思われる人骨(上腕骨、四肢長管骨、腓骨、大臼歯2個、小臼歯1個)が見つかっている。

 この人骨が被葬者のものとすれば、人骨に火炎痕がなく火葬ではないことから『続日本紀』の記述で火葬され、高松塚古墳に隣接する檜隈安古岡上陵(栗原塚穴古墳、円墳)か中尾山古墳(八角形墳)に葬られたとある文武天皇がまず被葬者の候補から除外された。また、高松塚古墳は、下段(直径23m)上段(直径18m)の二段式円墳であり、飛鳥の天皇陵の全ては八角形墳であることから、天皇以外が被葬者と推定される。

 高松塚古墳の被葬者の推定には、副葬品として発見された海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう、直径16.8cm)が手掛かりになる。ちなみに、高松塚古墳と同時期に築かれたと考えられ、同じように壁画が描かれたキトラ古墳から鏡は発見されていない。

 海獣葡萄鏡は、青銅で作られた円形の銅鏡の一種で、表面は鏡面となっていて裏面に模様が表現され、その模様が獣や鳥類、昆虫、葡萄や柏葉などの植物になっているものだ。葡萄という植物は、中国にはなかったが、シルクロードを経て西方からもたらされ、五穀豊穣などを祈願する図案とされている。

 高松塚古墳で発見されたものと同型の海獣葡萄鏡が中国・西安近郊のいくつかの墓(独狐思貞墓、十里舗337号墓など)や日本国内の古墳から10面以上出土している。そして、独狐思貞墓の墓誌によれば、その墓が作られたのは698年ということがわかっている。

遣唐使が持ち帰った鏡なのか

 もしも高松塚古墳の海獣葡萄鏡が中国で鋳造され、遣唐使などによってもたらされたものだとすれば、この年号の前後、おそらく後に古墳が築かれたことが推定できる。銅鏡には大型から中型、小型化へ、そして量産化といった製作の歴史的な流れがうかがえ、このタイプの海獣葡萄鏡にも流行の時期があったと考えられるからだ。

 このタイプの海獣葡萄鏡が698年よりも大きく古い時期に鋳造されたとは考えにくいので、遣隋使を除外し、630(舒明2)年から始まった遣唐使でも668(天智7)年に帰国した事例以後になるだろう。これ以後の遣唐使としては、704(慶雲元)年、718(養老2)年、734(天平6)年、754(天平勝宝6)年、761(天平宝字5)年、778(宝亀9)年、781(天応元)年、805(延暦24)年、806(元和元)年、839(承和6)年がある(いずれも帰国年、20回説より)。

 704年に帰国した遣唐使は702(大宝2)年に派遣された遣唐使で、その前回の669(天智8)年派遣から長い間隔が空いた。663(天智2)年、白村江の戦いで敗れ、その後は壬申の乱が起きたり律令制への過渡期であったなど、遣唐使を派遣する環境になかったと考えられている。

 朝鮮半島からの献上品の可能性もあるが、高松塚古墳の海獣葡萄鏡が遣唐使によってもたらされたことを手掛かりにするならば、中国・西安の独狐思貞墓の墓誌(698年)により、704年の遣唐使帰国後に亡くなった人物、それも事例の少ない壁画が描かれ、飛鳥に古墳が築かれるほどの人物で、これまで埋葬場所が確定されていない人物が被葬者の候補になる。

右襟になった時期

 ところで、高松塚古墳が発見当時に大きな注目を集めたのは、石室の内壁に漆喰が塗られ、天井面には星図(星辰、星宿)、四面には日月と四神図(玄武、白虎、青龍、盗掘の際に失われたと思われる朱雀)、飛鳥美人と呼称された女性群像、男性群像が描かれていたことだ。また、1kmほど離れた場所にあるキトラ古墳の石室の内部にも見事な壁画が描かれている。

 高松塚古墳の壁画は、顔が獣の十二支像が描かれるなどのキトラ古墳のものとは異なっている部分もあるが、基本的には天井面に星図(キトラ古墳は天文図)が、四面に四神が描かれるという共通点がある。九州地方を中心に石室や石棺などの壁面に三角形や四角形などの絵が描かれた装飾古墳、あるいは動物や船などが描かれた装飾古墳の例はあるが、現在までこの二つ以外に星図や四神図の壁画が描かれた古墳は発見されていない。

 高松塚古墳もキトラ古墳も被葬者についてはわかっていないが、もし星図や四神図という壁画の特殊性に注目するならば、被葬者にも壁画という共通点があるということになる。つまり、他にはない尊い身分の人物ということだ。

 また、壁画に描かれている女性群像の着衣は左襟になっているが、719(養老3)年に唐の制度にならって襟を右にせよという右衽(みぎまえ)の令が出されていることから、高松塚古墳が築かれたのは遣唐使が帰国した704年から右襟になった719年までの間と推測される。

左襟になっている女性の衣装(再現模造模写) 画像提供:高松塚壁画館
左襟になっている女性の衣装(再現模造模写) 画像提供:高松塚壁画館

 また、キトラ古墳の被葬者として可能性があるのが、高市(たけちの)皇子(天武天皇の皇子、696年没、埋葬地は香具山か百済の原とされる)、長(ながの)皇子(天武天皇の皇子、715年没)、阿倍御主人(あべのみうし、天武・持統・文武期の官人、右大臣、703年没)らだ。当然、キトラ古墳の被葬者が確定すれば、高松塚古墳の被葬者からその人物は除かれる。

天武天皇の皇子の誰かか

 ここまでのまとめになるが、高松塚古墳に誰が埋葬されていたのか、その手掛かり、ヒントになるのが以下の条件だ。

・7世紀末から8世紀初頭(古墳時代終末期)、特に704年から719年までの間に亡くなった人物。

・天皇ではないが古墳が築かれるほどの人物で、おそらく天皇の皇子。あるいは有力官人か朝鮮半島(高句麗など)の王族。

・残された人骨が被葬者とするなら40代から60代の男性。

 もちろん、発見された人骨は被葬者ではないとするのは可能だが、高松塚古墳の石室(石槨)の内部は狭く、被葬者以外の人物が埋葬されたり、後年に入り込んだ誰かが中で死んだなどと考えるのは現実的ではない。

 また、海獣葡萄鏡が遣唐使によってもたらされたものではなかったとするのも可能だが、698年に作られた中国(長安=西安)の墓から同型の海獣葡萄鏡が出土していることから、704年に帰国した遣唐使が持ち帰ったものとするのが自然だろう。

 以上のことから、候補者は以下の人物に絞られる。亡くなった年の順だが、生年がわからない人物の死亡時の年齢は推測になる(生年がわかっている他の皇子の関係から)。

・忍壁(おさかべ、忍坂部、刑部)皇子(天武天皇の第4?皇子、705年没、30代から40代)

・葛野(かどのの)王(弘文天皇/大友皇子の第1皇子、706年没、37歳)

・穂積(ほづみ)親王(天武天皇の第5?皇子、715年没、40代から50代)

 また、704年以前に亡くなっているが、候補者としてあげられている人物は以下だ。

・草壁皇子(天武天皇と持統天皇の皇子、文武天皇の父、689年没、公式の陵墓は真弓丘陵、27歳)

・川島(河島)皇子(天智天皇の皇子、691年没、埋葬地は越智野、34歳)

・弓削皇子(天武天皇の第9?皇子、699年没、26歳?)

 また、この他に皇族ではないが候補者として考えられる人物もいる。

・高級官人、例えば石上(いそのかみの)麻呂(天武・持統・文武・元明・元正期の官人、左大臣、717年没、77歳)

・高句麗など朝鮮半島の王族

 これらの候補者のうち、草壁皇子(689年没)の場合は、陵墓を704年の後に高松塚古墳へ移送し、中国からもたらされた海獣葡萄鏡を息子の文武天皇が副葬品として入れたという説がある。草壁皇子は天武天皇と持統天皇の息子であると同時に文武天皇の父であり、高松塚古墳が文武天皇陵(檜隈安古岡上陵もしくは中尾山古墳)の墓域内に位置していることなどをその理由とする。

 高句麗などの王族説は、高句麗などに風水の影響がうかがわれる壁画古墳があり、高松塚古墳の墓室内壁画との類似性から唱えられているが、近年の研究から朝鮮半島よりも中国の隋や唐の影響のほうが強いとされたことから否定的な説になっている。また、当時の有力官人説も根強いが、石上麻呂とすれば、死没した年齢が高松塚古墳で見つかった人骨とは大きく外れている。

重要な高松塚古墳の立地

 また、高松塚古墳の位置も重要だ。近くには天武天皇(埋葬年687年)と持統天皇(天武天皇の皇后、埋葬年703年)の合葬陵古墳や文武天皇陵(埋葬年707年、文武天皇陵という説が有力な中尾山古墳も高松塚古墳に隣接)などがあり、これらの天皇との強い関係性がみられる。また、立地に風水の影響がみられ、これも周辺の終末期古墳と共通する特徴だ。

上が高松塚古墳の北にある天武・持統の合葬陵で宮内庁による御陵名は檜隈大内陵。下が高松塚古墳の南に隣接する文武天皇の陵墓とされる古墳(円墳、宮内庁治定)で御陵名は檜前安古岡上陵。写真筆者撮影。
上が高松塚古墳の北にある天武・持統の合葬陵で宮内庁による御陵名は檜隈大内陵。下が高松塚古墳の南に隣接する文武天皇の陵墓とされる古墳(円墳、宮内庁治定)で御陵名は檜前安古岡上陵。写真筆者撮影。

 やはり、高松塚古墳の被葬者は、天武天皇の皇子の一人だろう。だとすれば、忍壁皇子、穂積皇子、没年がズレるが草壁皇子、弓削皇子の4人に絞られる。この中で最も可能性が高いのは、キトラ古墳の被葬者が同じ天武天皇の皇子である長皇子とすれば、没年時の年齢などから高松塚古墳の被葬者は忍壁皇子となりそうだ。

 ただ、父は天武天皇だが、母は持統天皇ではなく地方豪族の娘である忍壁皇子が、こうした重要な場所に葬られるのかどうかには疑問が残る。なぜならば、持統天皇の時代に忍壁皇子はそれほど重要な地位にいたわけではないからだ。

 一方、持統天皇の死後、忍壁皇子は天皇に次ぐ政権の最高位にのぼっているから、天武天皇の皇子であり、高い地位で亡くなったから、この場所に葬られたということはできる。

 では、もしも高松塚古墳の被葬者が忍壁皇子ではないとすると、いったい誰の墓なのだろうか。前述した説のように草壁皇子が移葬されたのだろうか。それとも穂積親王か弓削皇子なのだろうか、天武天皇の皇子以外の墓なのだろうか。謎は残ったままだ。

天武・持統陵、中尾山古墳、高松塚古墳、文武天皇陵、それぞれの位置関係。国土地理院の地図に筆者が加筆。
天武・持統陵、中尾山古墳、高松塚古墳、文武天皇陵、それぞれの位置関係。国土地理院の地図に筆者が加筆。

 ところで、墳墓の被葬者の特定はなぜ難しいのだろうか。

 墓誌や墓碑があればわかるのだが、日本で文字が使われ始めたのは、漢字が伝わった後になるので早くとも5世紀にならないと記録が残らず、墓誌や墓碑の確認も現在のところ、7世紀半ば以降(松岳山古墳の船氏王後墓誌銘、山ノ上古墳の墓碑など)となる。また、主な古墳は宮内庁が陵墓と指定して発掘調査が進まないことも被葬者の特定ができない理由の一つだし、盗掘によって副葬品などが持ち去られていることもある。

 高松塚古墳に誰が埋葬されていたのかは依然として謎のままだが、候補者はかなり絞られてきた。確定するのは難しいかもしれないが、残された人骨や歯を手掛かりにして明らかになる日がいつかくるのかもしれない。

参考文献:

島五郎、「高松塚古墳出土人骨について」、奈良県教育委員会・奈良県明日香村、壁画古墳 高松塚調査中間報告、193-198、1972

梅原猛、「黄泉の王─私見・高松塚」、新潮社、1973

河上邦彦、「終末期古墳の立地と風水思想」、高取町教育委員会、高取町文化財調査報告 : 束明神古墳の研究 : 奈良県高取町佐田、18、175-193, 1999

林順治、「高松塚古墳の被葬者はだれか」、季報唯物論研究、第138巻、134-142、2017

廣瀬覚、建石徹、「極彩色壁画の発見 高松塚・キトラ古墳」、新泉社、2022

科学ジャーナリスト、編集者

いしだまさひこ:北海道出身。法政大学経済学部卒業、横浜市立大学大学院医学研究科修士課程修了、医科学修士。近代映画社から独立後、醍醐味エンタープライズ(出版企画制作)設立。紙媒体の商業誌編集長などを経験。日本医学ジャーナリスト協会会員。水中遺物探索学会主宰。サイエンス系の単著に『恐竜大接近』(監修:小畠郁生)『遺伝子・ゲノム最前線』(監修:和田昭允)『ロボット・テクノロジーよ、日本を救え』など、人文系単著に『季節の実用語』『沈船「お宝」伝説』『おんな城主 井伊直虎』など、出版プロデュースに『料理の鉄人』『お化け屋敷で科学する!』『新型タバコの本当のリスク』(著者:田淵貴大)などがある。

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