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サンジのタバコが飴玉に〜韓国テレビ界は「喫煙シーンNG」

石田雅彦科学ジャーナリスト、編集者
韓国の禁煙テレビCM「肺が壊れてしまった」とCOPD患者。提供:韓国健康増進公団

タバコと喫煙の印象はメディアによるものも大きい。特に子どもたちは影響されやすいが、テレビなどで喫煙シーンを流すことは世界的にも禁止の方向へ動いている。韓国では政府主導でテレビを利用した禁煙キャンペーンが始まっているが、日本はこの面でも国際的に大きくたち遅れている。

 筆者はこの7月、タバコ対策事情を取材するために韓国へ行ったが、テレビを見て驚いたのは政府がスポンサーになって禁煙啓発のテレビCMをバンバン流していることだ。現地の人間の話によると、韓国のテレビで「喫煙シーンは絶対にNG」らしい。

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一般の55才、男性が出演している韓国の禁煙テレビCM。「32年間、タバコを吸い続けた結果、口腔がんになった」と訴えている。この後、口腔がんの患部の写真が記載されたタバコのパッケージが映される。提供:韓国健康増進公団(KHPI)

 日本では普通にタバコを吸うシーンが流されるが、韓国のテレビの制作現場はタバコについてどうとらえているのだろうか。公営放送局である韓国放送公社(KBS。日本のNHK)のプロデューサー、チェ・チュル氏は日本のアニメの大ファンだが「日本のアニメ『ワンピース』を韓国で放映する際、サンジのタバコが飴玉に変えられてしまったことがあった。今の韓国テレビ界で、喫煙シーンを流すことは厳しく規制されている」と言う。

 韓国では2003年から2004年にかけて段階的に強化された国民健康増進法により、テレビ番組の中での喫煙シーンに規制がかけられた。アニメ『ワンピース』のような海外からの輸入コンテンツに喫煙シーンがあれば、そこにモザイクをかけたりチュル氏が言うように別のカットに差し替えたりする。

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韓国放送公社(KBS)のプロデューサー、チェ・チョル氏。禁煙を啓発するテレビCMは「正確性と客観性」が大事と言う。

「冬ソナ」の喫煙シーンもモザイクだらけになる

 韓国のテレビドラマといえば『冬のソナタ』(KBS2、2002年)がなじみ深い。このドラマの中で高校生役のペ・ヨンジュンがタバコを吸うシーンがある。複雑な事情を持った転校生という役柄の演出上、重要なシーンだが、このドラマを韓国内で再放送する場合はどうなるのだろうか。

 チェ・チョル氏は「KBSには放送局の中でも特に厳しい局の規則がある。高校生がタバコを吸うというのは、今では考えられないシーンだ」と首を振る。ペ・ヨンジュンの喫煙シーンも韓国内で再放送する場合、手元にモザイクがかけられたり、そのシーンまるごとカットされたりするようだ。なんとも味気ない話ではあるが、韓国のタバコに対する感覚はそれほど厳しい。

 ドラマの制作でも、喫煙シーンを入れられない影響は大きい。「日本の医療ドラマ『白い巨塔』のリメイク(2003年のフジテレビ版)を作ることになったが、設定では肺がんだったのを膵臓がんに変えたこともある」。かつて編集ミスでうっかり喫煙シーンが放映されたときには、視聴者から激しい抗議が多くあったそうだ。

 ところで、韓国でタバコについて取材を重ねていると、禁煙した人たちがある人物の名前をよく口にするのに気付いた。その人物とは、イ・ジュイル。韓国の国民的なコメディアンだ。彼の影響でタバコを止めたと言うのだ。いったいどういうことだろう。

国民の意識を変えた一人のコメディアン

 イ・ジュイルは、コンサート司会者からテレビへ進出し、全斗煥(チョン・ドファン)大統領のモノマネで人気を博したが、1990年代の後半から病に倒れてほぼ活動を休止した。その後、2002年1月からは韓国健康福祉部(日本の厚生労働省)の禁煙キャンペーンに賛同し、テレビCMでタバコの害を訴え続け、同年8月に肺腺がんで死去した。

 ソウル郊外の自動車修理工場のオーナー、58歳の男性は「私は10年前にタバコを止めたが、その理由はイ・ジュイルがやっていた禁煙キャンペーンのテレビCMを見たからだ。彼の影響はとても大きかったと思う」と言う。また、ソウルの繁華街で美容師をする31歳の女性は喫煙者だが「まだ中学生だったが、イ・ジュイルの禁煙CMはよく覚えている。タバコが健康に悪いことを知ったのも彼の発言からだ。だから、本当は今でも禁煙したいと思っている」と眉根を寄せた。

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2002年に肺腺がんで亡くなったイ・ジュイルの禁煙テレビCM。「タバコは絶対に止めましょう」と訴えた。日本で言えば、森繁久弥や立川談志、青島幸男クラスの超有名タレントだった。

 前出のテレビ局KBSのチェ・チョル氏もまたイ・ジュイルの禁煙キャンペーン映像のショックを受けた一人だ。「私は非喫煙者だが、彼のテレビCMで多くの韓国人の意識が変わった。ただ、最近はこうした有名人ではなく、ごく普通の一般人がタバコで健康を害した事例を紹介することが多くなっている」とも言う。つまり、韓国の多くの人たちの健康に対するタバコの意識を変えたのは、一人のコメディアンだった、というわけだ。

 こうした禁煙キャンペーン、今では韓国健康福祉部ではなく、その下部組織である韓国健康増進公団(KHPI)が主体となって行っている。同公団のソン・フィルホ氏は「テレビCMの年間予算は、2016年度で120億ウォン(約12億円)で、3作品制作した。今年(2017年)はすでに2作品、制作している。1つはCOPD(慢性閉塞性肺疾患)のもの、もう1つはタバコ規制と禁煙治療などのキャンペーンだ。年間、約5500回、地上波や衛星テレビ、ケーブルテレビなどに流している」と胸を張る。

韓国映画界では喫煙シーンOK

 一方、韓国の映画に喫煙シーンについての規制はほとんどない。日本の「R指定」と同様、年齢によって指定があるが、誰でも閲覧可能な作品でも、児童や青少年の喫煙シーンがなく喫煙を推奨する表現がなければ上映可能だ。

 映画とテレビドラマを制作しているロゴス・フィルムのプロデューサー、チェ・テヨン氏は「映画の場合、観たい人がお金を払って自由意志で閲覧する。また、映画を見る人たちはストーリー重視で、フィクションを楽しむ傾向にある」と言う。確かに、タバコが害悪だからNGということになれば、殺人にせよ薬物にせよ戦争にせよ、倫理的に悪い表現が一切できなくなってしまうだろう。

 また「タバコは心理描写にとても便利な小道具だ」とチェ・テヨン氏は訴える。タバコを使えば、イライラしていたり焦燥感を抱いていたり人間関係の強弱を示したりと、低コストで手軽に登場人物の内面を映像であらわすことができる。筆者が「喫煙率が高いうちはタバコを使った表現が通用するが、タバコを吸う人が少なくなったら演出上、困ることになるか」と聞くとチェ・テヨン氏はうなずいた。

 そして自分もまた前述したイ・ジュイルの禁煙CMで恐怖心を抱いた一人だと言う。「韓国の人の健康意識は、この10年で大きく変化している。タバコを安易に使わず脚本を書かなければならなくなれば、それは映画の質の向上につながるかもしれない」。

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ロボス・フィルムのプロデューサー、チェ・テヨン氏。「撮影現場にタバコ会社が勝手にタバコを置いていくことも多い。映画製作に対するタバコ会社の関与は減りつつある」と言う。

テレビで公的機関が禁煙の啓発をやるのは世界的潮流

 韓国で作られているようなテレビの禁煙CMは世界で一般的だ。米国の疾病管理予防センター(CDC)は、2012年3月から喫煙が健康に与える悪影響について「Tips From Former Smokers」という広告キャンペーンを開始しているし、タイ王国のタイ保健振興財団(The Thai Health Promotion Foundation)も禁煙啓発のテレビCMを作っている。タイ保健振興財団のテレビCMでは、子どもが喫煙者にタバコの火を借りた後にメッセージを送る「Smoking Kid」が有名だ。

 日本の場合はどうだろうか。政府の内閣府は、2013年に「たばこの煙の恐ろしさ」というテレビCMを制作し、しばらくオンエアした。だが、その後、続編は作られず、内閣府によればせっかく作ったのに再放映の予定もない。また、厚生労働省に聞くと、こうした映像を作るつもりは当面ない、とのことだった。

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日本政府のテレビ広報CM。受動喫煙(副流煙)の危険を啓発している。一時的にオンエアされたが、現在のところ再放映する予定はない、とのことだった。

 また、NHKによれば「放送倫理を定めた局内のガイドラインに、公序良俗に反しない、青少年の健全な育成のため、という内容があり、その範囲内で番組制作を行っている」とのことだった。ただ、現場の裁量にまかされているのが現状で、たとえばドキュメンタリーなどでその対象者が喫煙者の場合、制作サイドとのやり取りの中で喫煙シーンをいれるべきかどうか判断している。社会の趨勢が喫煙にとって厳しくなってきている環境変化の中、朝の連続ドラマ『とと姉ちゃん』(2016年)で主人公のモデルの花森安治がヘビースモーカーだったのにも関わらず、喫煙シーンはほとんどなし、というようなことも多くなってきている。

公衆衛生の公的センターを作れ

 ここまでみてきたように、韓国では独自の予算を保持して活動する健康保険公団や健康増進公団などを中心に協力し、メディア面からも禁煙対策を進めている。独自の予算を保持してこのような活動をしている機関は日本にはない。全国各地の保健所、国立感染症研究所、地方衛生研究所などもあるが、これらはあくまで都道府県や政令都市などの出先機関、厚生労働省所管の研究機関であり、その行政的な権限や予算は限られているし、全国各地の保健所を統括するような組織はない(※)。

 ヒアリ問題でも環境省や各自治体がバラバラに対応し、国立感染症研究所の研究者がメディアに出てきたりしている。受動喫煙防止などのタバコ対策にしても、前回の記事で紹介したとおり、同省だけでは各省庁との利害関係が強すぎ、国民の生命や健康について矛盾せずに取り組むことが難しい事案もありそうだ。

 厚生労働省から公衆衛生を切り離し、独自の権限と予算をつけた機関を作れないのだろうか。たとえば、日本公衆衛生協会を強化して国立感染症研究所などと連携させたらどうだろう。厚生労働省や環境省あたりの反発は必至だが、外来種対策やパンデミック対策などでも公衆衛生部門を専門的に独立させ、対応することで柔軟な仕事ができるのではないだろうか。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています】

科学ジャーナリスト、編集者

いしだまさひこ:北海道出身。法政大学経済学部卒業、横浜市立大学大学院医学研究科修士課程修了、医科学修士。近代映画社から独立後、醍醐味エンタープライズ(出版企画制作)設立。紙媒体の商業誌編集長などを経験。日本医学ジャーナリスト協会会員。水中遺物探索学会主宰。サイエンス系の単著に『恐竜大接近』(監修:小畠郁生)『遺伝子・ゲノム最前線』(監修:和田昭允)『ロボット・テクノロジーよ、日本を救え』など、人文系単著に『季節の実用語』『沈船「お宝」伝説』『おんな城主 井伊直虎』など、出版プロデュースに『料理の鉄人』『お化け屋敷で科学する!』『新型タバコの本当のリスク』(著者:田淵貴大)などがある。

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