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韓国に学ぶ、受動喫煙対策のカギ

石田雅彦科学ジャーナリスト、編集者
歩道に「ここから禁煙エリア、罰金10万ウォン」表示が(2017年7月、著者撮影)

日本のタバコ対策が危うい。厚生労働省の受動喫煙防止対策強化案は骨抜きにされかねない情勢だ。平昌冬季五輪を目前にした韓国では、公共施設はもちろん飲食店や宿泊施設での喫煙に対して罰則付きの規制条例を作っている。筆者は韓国へ出向き、関係者に取材した。見えてきたのは、日本でタバコ対策を進めるための多くのヒントだった。

 2020年の東京五輪が近づいてきたが、IOC(国際オリンピック委員会)が強く求めている「たばこのないオリンピック」が微妙な情勢になっている。一方、2018年に平昌冬季五輪を開催するお隣の韓国では、段階的な規制強化とその周知を経て、ほぼIOCの要請どおりのタバコ規制を実施済みだ。2012年末に大統領となった朴槿恵前大統領は、大統領選の公約の一環としてタバコ対策強化を打ち出した。

 韓国では2015年1月1日から全国の公共施設、飲食店(喫煙室設置可)、宿泊施設を全面的に禁煙した。同時に、全国約1万カ所の医療機関で禁煙治療を無料で受けられるなどの禁煙サポートを充実させ、薬剤と心理カウンセリングを併用した施策も講じている。

 こうした厳しい規制強化から1年半以上が経った韓国の現状はどうなっているのだろうか。筆者はこの7月、韓国を訪ね、街の様子を取材、行政府の担当官やタバコ反対運動の指導者らに会ってインタビューした。

飲食店はほぼ禁煙

 まず、ソウルで気付いたのは、飲食店はほぼ100%近く禁煙となっていることだ。主にアルコールを提供するバーなどを含め、飲食店に喫煙室を作る店がほとんどない。韓国政府や自治体が喫煙室設置費用を出さないこともあるが、これは飲食店に対して「店内を完全禁煙にしても売上げは減らない」という政府の周知徹底が大きい。

 官公庁や大企業が多いチョンノ(鍾路)の飲食店「SO」の女性オーナー、キム・ジヨンさんは「ソウルでは夫婦共稼ぎが増え、家族連れで外食することが多くなっている。家族と一緒だとタバコは嫌われる。特に奥さんがはっきり主張するのは日本と違うかもしれない」と笑う。ただ、外国人観光客が多いミョンドン(明洞)には、喫煙室が設置されているカフェが点在する。

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 ソウルから離れた郊外ではどうだろう。ソウル中心部から車で1時間ほど離れたイルサンドン(一山東)区にあるソバ屋「チンバッグクス」を訪ねた。店の周囲は田んぼや畑、雑木林、自動車修理工場などが点在するエリアだ。店主はチャン・ヨンシンさんという男性で数年前に禁煙した、と言う。「タバコを吸う客は店の外へ出て吸ってもらう。嫌がる客はいない。韓国ではどんな飲食店も禁煙だ」。

 取材中、タクシーに数回乗った。タクシー内はもちろん禁煙で、筆者が乗った6人のタクシー運転手の中に喫煙者は一人だけだ。「タバコを覚えたのは徴兵中だった」と唯一の「喫煙ドライバー」は言う。彼が軍隊にいた当時、無料でタバコが配給されたからだ。だが、その韓国軍も今は率先して禁煙へ動いている。

 一方、韓国では路上喫煙の多さが気になった。韓国の男性喫煙率は39.3%(※1、2015年、女性を含む全体の喫煙率は22.6%、19歳以上)で依然として高い(※2、日本の喫煙率は18.2%、男性30.1%、女性7.9%)。喫煙場所も少なく灰皿もないため、路上に捨てられる吸い殻が目立つ。ざっと観察したところ、携帯灰皿を持ち歩く喫煙者は見かけなかった。

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 日本は韓国とは逆だ。路上喫煙や喫煙マナーが重視されるためか、日本では駅前など屋外喫煙所の整備されているところが多い。

 韓国でも路上喫煙禁止のエリアが増えているが、喫煙者からは「このままではどこで吸えばいいのか」という声も多くある。屋内と屋外のどちらで規制強化するか──悩ましいところだが、欧米など世界の趨勢は「屋内禁煙」だ。日本で今後もし屋内規制を強化する場合、喫煙者の受け皿として屋外喫煙所増設や路上喫煙防止条例がある自治体での規制緩和など、屋外での喫煙環境の整備が必要になる。

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規制実行の主体は省庁の下部団体に

 では、韓国行政はどういうアプローチでタバコ規制に臨んできたのだろうか。日本の厚生労働省にあたる韓国健康福祉部健康促進課のチャン・ヨンジン副課長は「政府は表立って出ない。代わりにその下部組織にあたる韓国健康保険公団(NHIS)と韓国健康増進公団(KHPI)が反タバコの健康キャンペーンや訴訟などを行っている」と言う。韓国健康保険公団は、社会保障や健康保険、高齢者保険などを扱う非営利の公的機関であり、韓国健康増進公団は多種多様な健康保健に関する公的な仕事を包括的に行う機関だ。

 チョン・ヨンジン副課長は「喫煙による健康被害は自己責任という観点からタバコ対策が強化された。同じ保険料を支払っているのに喫煙者の治療費も非喫煙者が負わなければならないのはなぜなのか、という指摘や批判に応えるためだ」と説明する。

 日本では厚生労働省が表に立って反対派を説得してまわるが、韓国では規制の実行主体は健康保険公団や健康増進公団になっている点が異なる。日本政府はJT(日本たばこ産業)の株を3割以上保持しており、同じ政府がやっていることとして、一方でタバコを売り、一方でタバコ規制をするというのでは整合性がとれない。この事情はタバコ税収を徴収する企画財政部(日本の財務省)と健康福祉部との関係がある韓国も同じだ。

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 この矛盾の解決策として韓国のこの方法は参考になる。たとえば、韓国健康保険公団は、フィリップモリスなどのタバコ会社に対して訴訟中だが、その訴えの根拠は韓国健康保険公団には保険料や治療費が喫煙により余計に支払われたという直接の利害関係があるからだ。日本の厚生労働省がこうした訴訟主体にはなれないだろうし、財務省やタバコ族議員との調整もタバコに明かな利害関係のある組織のほうがやりやすいだろう。

 この訴訟ではタバコ会社に537億ウォン(約53億円)の損害賠償を求めているが、同公団のアン・ソンヤン担当弁護士は「もちろん裁判に勝つことが目的だが、その過程でタバコ会社がいかに嘘をついてきたのかを暴き、タバコという商品の欺まん性を社会に知ってもらう目的もある」と言う。

 タバコ会社との訴訟は、個人が原告となるケースが多い。韓国でも個人が起こしたタバコの健康被害の訴えが最高裁で棄却されている。だが、膨大な健康データを持ち、資金的にも潤沢な健康保険公団のような存在が裁判を起こせば、タバコ会社の主張とどちらが正しいか明らかにできる可能性が高まる。一方、禁煙エリアの拡大については、喫煙者や飲食店経営者、ネットカフェ経営者らが反対の裁判を起こしているが、いずれのケースでも健康を追求する権利のほうが喫煙権よりも優先される、と棄却された。

横断的で広範な禁煙運動団体の活動

 韓国では1980年代から、強力な禁煙運動団体や禁煙学会の運動が知られている。韓国健康福祉部のチャン・ヨンジン副課長は「こうした組織が政府とタバコ企業との癒着などを監視し、医学的なエビデンスをもとに知識普及と啓蒙をすることでタバコ対策に大きな影響を与えてきた」と言う。

 韓国禁煙健康協会の代表を務めるホングアン・スー博士(韓国国立がんセンター教授)は「日本政府がJTの株を30%以上も持っていることは大きな問題だ。政府やタバコ会社のような大企業に立ち向かうためには、禁煙を訴える側も力を持たなければならない」と主張する。実際、韓国禁煙健康協会の運営は、韓国禁煙学会、医師会、歯科医師会、薬剤師会、消費者団体、弁護士など、国内の多種多様な団体からの理事による。こうした「広範で粘り強い活動を続けることで今のタバコ規制が実現した」とホングアン・スー博士は考えている。

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 また「日本の禁煙関係の研究者や禁煙運動をやっている人たちをそれぞれよく知っているが、彼ら同士は相互にあまりよく知らないようだ」と首をかしげる。つまり、日本の禁煙団体は横の連携が弱い、ということなのだ。韓国よりも強力なタバコ利権のある日本にとって、禁煙運動の連携強化は必須だろう。

 さらにホングアン・スー博士は「1996年に協会の代表になって以来、アグレッシブかつ攻撃的にタバコ会社と戦ってきたが、マスメディアを有効に利用することも大切だ」と強調する。

 韓国ではタバコ規制が強化され、国内で販売されるタバコ・パッケージの50%以上にタバコの健康被害を示す画像を含んだ警告を記載しなければならない。この50%以上の警告表示をパッケージの上下どちらに記載すべきか、議論が起きたことがある。朴槿恵前大統領の諮問機関に規制緩和を目的に設置された組織があり、記載位置はタバコ企業の宰領にまかせたらどうか、とこの機関が助言した。

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 ホングアン・スー博士は「その機関にKT&GのOBが入っていた。規制緩和派は4人。我々はそれ以外の委員を個別に説得し、最終的にパッケージの上部に記載するよう規制強化に動き、それが実行された。これも我々が市民レベルで活動し、マスメディアに訴えかけたからだ」と主張する。このあたりも日本での受動喫煙防止強化の参考になるかもしれない。

日本が乗り越えるべきハードルとは

 韓国の事例では、いくつか重要なヒントが得られた。

・屋内・屋外のどちらも規制強化するのは得策ではない。

・政府に政策的な矛盾がある以上、治療費など直接利害関係のある部署が表に立つほうが良い。

・禁煙運動には強力なセンターと横断的な連携、そしてマスメディアの活用が重要。

 日本でタバコ対策がより実効性のあるものとして強化されるためには、政府が保持しているJT株の問題を含め、いくつかハードルを乗り越えなければならないのは確かだ。

 臨時国会は政府が9月下旬開会で押し通すことになりそうだが、健康増進法改正案である受動喫煙防止対策強化の内容がどうなるか、強化推進を担う塩崎恭久厚労相が内閣改造で留任するかどうか、わからない。韓国の事例からは、より国民的な禁煙運動の盛り上がりが不可欠なように思えるが、日本でこうした運動を市民レベルで取りまとめられる存在はいない。

 日本に限らず、タバコに関する「利権」は巨大だ。こうした巨大な相手に対しては、やはり反タバコ勢力の側もそれなりの組織でなければならないし、マスメディアを含めた連携強化が必要だろう。厚生労働省にばかり頼っていては、日本における受動喫煙防止は一歩も前進できない。

※1:Annual Korea National Health & Nutrition Examination Survey, The Ministry of Health and Welfare, the Korea Centers for Disease Control and Prevention

※2:2015(平成27)年「国民健康・栄養調査」

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています】

科学ジャーナリスト、編集者

いしだまさひこ:北海道出身。法政大学経済学部卒業、横浜市立大学大学院医学研究科修士課程修了、医科学修士。近代映画社から独立後、醍醐味エンタープライズ(出版企画制作)設立。紙媒体の商業誌編集長などを経験。日本医学ジャーナリスト協会会員。水中遺物探索学会主宰。サイエンス系の単著に『恐竜大接近』(監修:小畠郁生)『遺伝子・ゲノム最前線』(監修:和田昭允)『ロボット・テクノロジーよ、日本を救え』など、人文系単著に『季節の実用語』『沈船「お宝」伝説』『おんな城主 井伊直虎』など、出版プロデュースに『料理の鉄人』『お化け屋敷で科学する!』『新型タバコの本当のリスク』(著者:田淵貴大)などがある。

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