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「天国ではバーバラに一番に会いたい」逝去したブッシュ元大統領がバーバラ夫人と紡いだ愛の物語

飯塚真紀子在米ジャーナリスト
逝去したジョージ・H・W・ブッシュ大統領は今、天国でバーバラ夫人と再会している。(写真:ロイター/アフロ)

 2012年、ジョージ・H・W・ブッシュ元大統領は孫娘のジェナに、こう聞かれた。

「天に召されたら、天国では誰に一番に会いたい?」

 ブッシュ元大統領はこう答えた。

「バーバラが私より先に逝ってしまったら、彼女に一番に会いたいな」

 11月30日夜、94歳の命を閉じたジョージ・H・W・ブッシュ元大統領は、天国で、今、8ヶ月前に先立ったバーバラと手を取り合っていることだろう。

話が尽きなかった初デート

 バーバラとジョージ。

 2人の愛の物語は、1941年、クリスマスのダンスパーティーが行われた夜に遡る。時に、バーバラ16歳、ジョージ17歳。ジョージは当時“ポピー・ブッシュ”というニックネームで呼ばれる、凛々しい面立ちの青年だった。

 その夜、共通の友人の紹介で出会った2人は一緒にダンスを踊った。音楽がワルツに変わり、おしゃべりを始めた2人。ジョージは「次の夜は何をするの?」ときいたが、バーバラには残念ながら別のダンスパーティーの予定が入っていた。

 しかし、2人は出会ったことが嬉しかったようだ。バーバラは母親に「最高に素敵で、最高にハンサムな青年と出会ったわ」と出会った感激を伝え、ジョージも母親に「とても素晴らしい女性と出会ったよ」と話している。

 そして、初デート。2人は話が尽きることがなかった。

「ジョージから“あの夜は喋ったね。あれからずっと喋り続けているね”と言われて、何年もからかわれ続けたのよ」

と後にバーバラは振り返っている。

 その後も、2人は文通を続け、春休みにはダブル・デートをして、映画「市民ケーン」を観た。

結婚までヴァージンを守る

 ジョージがプロムに誘ったのは、もちろんバーバラだった。プロムの夜、彼女を寮まで送ったジョージは、別れ際、頬にキスをした。舞い上がったバーバラは、浮き足立って部屋に戻り、ルームメイトを一晩中眠らせることなく話し続けた。

「ポピーが地球上で一番素敵だわ!」

 ジョージも、母親にこんな手紙を書き送ったという。

「バーバラとは、結婚までヴァージンを守ることを含めて価値観が合って、共通点が多いんだよ」

 1942年、海軍に入隊し、軍隊の訓練に赴くことになったジョージは、旅立ちを前に、バーバラに2つの贈り物をした。一つは時計、そしてもう一つはファースト・キスだった。

 戦争が始まり、戦地に赴いたジョージ。彼を支えたのはバーバラからの手紙だった。常に、バーバラをそばに感じていたかったのだろう。ジョージは3つの戦闘機に、それぞれ、バーバラ、バーバラII、バーバラIIIと名付けている。

 1944年、2人は婚約するが、同年、父島近海で、ジョージが乗っていた戦闘機が撃ち落とされる。9人の乗員中、サヴァイヴし、アメリカに帰還することができたのはジョージだけだった。

試練で深まった2人の絆

 1945年、戦争から戻って来て間もなく、ジョージはバーバラと結婚。2人はハッピーな新婚生活を送った。

「結婚生活は期待していた以上だ。バーバラは素晴らしいワイフだよ」

とジョージはシスターに書き送っている。

戦争から帰還後間もなく結婚したバーバラとジョージ。時にバーバラ20歳、ジョージ21歳。www.dailymail.co.ukより
戦争から帰還後間もなく結婚したバーバラとジョージ。時にバーバラ20歳、ジョージ21歳。www.dailymail.co.ukより

 1946年、長男ジョージ・W・ブッシュが誕生。ジョージはテキサス州に引っ越し、オイル・ビジネスを始めた。しかし、3人の暮らしは順風満帆とは言えなかった。借りていたデュプレックス(二世帯用住宅)では、隣に住んでいる売春婦の母娘と風呂を共同で使わなければならなかった。バーバラは流産もした。2人は長男ジョージの存在を励みにして頑張り、やがて、風呂つきのアパートに引っ越すことができた。

 しかし、その後も、2人は試練に襲われる。1949年、バーバラの母親が交通事故死し、その後誕生した第2子のロビンが白血病に冒されたからだ。バーバラは白髪が増えるほど看護に身をやつしたが、1953年、ロビンは天に旅立ってしまった。2人はロビンの亡骸を研究機関に寄贈した。 

 ロビンの死は、2人の絆を深めた。ジョージの仕事への情熱も高まった。ロビンの死から、人生は予測できない、脆いものであることを学んだからだ。

 前に進もう! 突き進もう! ジョージはそう決意した。

 ジョージは、やがて、テキサス州の政治に関わり始め、同州の議員、共和党全国委員会委員長、CIA長官を経て、レーガン政権下副大統領に任命され、1989年には第41代大統領となる。しかし、その決意は大統領になってからも揺らぐことはなかった。ジョージの執務室のデスクの引き出しにそっと置かれているロビンの写真が、ジョージをいつも見守っていた。

笑わせてくれたから

 突き進むジョージを“セイント(聖人)”と呼び、献身的に支えて来たのがバーバラだった。ジョージの最大のファンだったバーバラは、選挙の時は有権者たちに手作りのスパゲティをふるまうこともあった。

 しっかりもののバーバラはジョージの目に、時に、厳しい母親のようにも映った。実際、バーバラは、家族からエンフォーサー(監視役)と呼ばれていた。例えば、バーバラがテーブルで本の執筆をしていた時、ランニングから戻って来たばかりの息子ジョージ(当時、大統領だった)がお行儀の悪い姿を見せたので、彼女は強く命令したことがあった。

「ジョージ、足をテーブルの上から降ろしなさい!」

 その様子を見て、父ジョージはこう言った。

「ちょっと待ってよ、彼はアメリカの大統領だよ」

 笑いを誘うそんな出来事はよく起きていたという。

 笑わせてくれたから。

 バーバラは、1990年、ウィルズリー大学の卒業式で挨拶をした時、ジョージとの結婚を決意した理由についてそう回顧している。笑いは、結婚してからも続いた。

「私たちは時々涙が出るほど笑うのよ。でも、一緒に笑ってきたことで絆が強くなっていったの」

 天国で真っ先にバーバラと再会したジョージは、きっと今、バーバラを笑わせていることだろう。

(参考記事:https://www.eonline.com/news/927830/inside-barbara-bush-and-george-h-w-bush-s-epic-love-story-how-a-christmas-dance-led-to-a-dynastyhttp://www.nbcnews.com/id/3226939/ns/dateline_nbc/t/looking-back-barbara-bush/#.XALo3C3jaT9https://www.theglobeandmail.com/opinion/article-barbara-bush-was-an-enforcer-with-an-indomitable-spirit/

在米ジャーナリスト

大分県生まれ。早稲田大学卒業。出版社にて編集記者を務めた後、渡米。ロサンゼルスを拠点に、政治、経済、社会、トレンドなどをテーマに、様々なメディアに寄稿している。ノーム・チョムスキー、ロバート・シラー、ジェームズ・ワトソン、ジャレド・ダイアモンド、エズラ・ヴォーゲル、ジム・ロジャーズなど多数の知識人にインタビュー。著書に『9・11の標的をつくった男 天才と差別ー建築家ミノル・ヤマサキの生涯』(講談社刊)、『そしてぼくは銃口を向けた」』、『銃弾の向こう側』、『ある日本人ゲイの告白』(草思社刊)、訳書に『封印された「放射能」の恐怖 フクシマ事故で何人がガンになるのか』(講談社 )がある。

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