Yahoo!ニュース

朝ドラ『らんまん』 万太郎の愚かさを感じさせないNHKの狡知で巧妙な演出方法

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:アフロ)

複層的な構造がおもしろい『らんまん』

朝ドラ『らんまん』はなかなかにあなどりがたい複層的な物語になっている。おもしろい。

主人公の愚かさを描きながら、見ている者にはそう感じさせない。

その構成がなかなかすごい。

(以下すべて『らんまん』の槙野万太郎の話である。モデルになった実在の博士の話ではない)

ただの研究好きの無職の人

主人公の槙野万太郎(神木隆之介)は、植物学の研究者でありながら、自由人である。

いわば「フリーの植物学者」として活動している。

いっとき東京大学の植物学教室への出入りを許されていたが、田邊教授(要潤)の逆鱗に触れて、出入り禁止となった。

その後、長屋の自室で研究をつづけている。

フリーの研究者だ。

フリーの研究者の問題点は、研究していてもお金が入らないことだ。

おそらく一日の大半を植物研究に費やしており、日銭を稼ぐことは万太郎はやっていない。図鑑を出版して金が入ればという目論見があるようだが、自費出版だから、まず儲かるものではない。

自然と「ただ好きな研究をしているだけで働いていない人」ということになってしまう。

植物好きで、すごく純粋で、かなり変わった人である。

わがままな「奇人」を主人公にして嫌みがない

今回の朝ドラのすごいところは「奇人」ともいえる男を主人公にして、その生涯を描きながら、まったく嫌みがないところだ。

朝ドラの主人公はだいたいわがままで、その我の強さゆえに壁にぶちあたり、なにも反省しない、ということを繰り返す。

そこを強く見せると、近年なかなか強い反響が起こる。昨夏の『ちむどんどん』はすごかった。

NHKもそれに懲りたのか、同じように「やりたいことをやり通すわがままいっぱいの主人公」を見せながら、なかなか爽やかな仕上がりにしている。

たいしたものである。

学校に行かずに学者になろうとする

やはりもっとも変なところは「学校には行ってないのに、研究者(学者)になろうとしている」ところだろう。

もともと万太郎にも気の毒な部分はある。

文久二年、土佐の富豪の家に生まれた。

明治政府が新しい学校制度を始めた明治五年には、万太郎は10歳になっており、なかなかに中途半端な年齢である。

新しい小学校に通ったが、すぐさま止めてしまっている。

行ってもつまらないから、ということで、勉学はどこでもできますき、と学校をやめた。

「勉学はどこでもできる」というのは、それは文久慶応のころの学問への態度であって、明治となるとそうはいかなくなる。

万太郎は明治以前の古い教えを守って、新制の社会に合わなくなっていった。

若いころから偏狭な万太郎

その後、家業(造り酒屋)の跡取り息子として、つまり商人として(若旦那として)過ごす。かたわら独学で植物学研究をつづけ、やがて、家業は継がずに、学者になるために東京に出ていく。

かえすがえすも、将来、研究者になる心づもりがあるのなら、この時期に新制の学校に行っておくべきであった、とおもう。

時間もあったし、金もたくさんあったはずだ。

いくらでも行けた。

でも行かなかった。

それは、周りの影響もあるだろうが、最終的には独自の考えによるものだ。

若いころからけっこう偏狭だったと見える。

不遜で傲慢きわまりない万太郎

東京に出てきて、植物学の研究をしたいと申し出る。

33話のことである。

大学の教授に植物を見てもらいたいと申し出て、助教授の徳永(田中哲司)に止められる。

「いいか、教授と話したければ順序というものがある、まず中学を出て、東京大学予備門を受験、予備門を卒業してから、改めて、東京大学に入学してきなさい」

それに対して万太郎は「そんな遠回りを出来ませんき」と答える。

見直すと、不遜で傲慢きわまりない態度である。

「みんな遠回りをしてここにいますよ」

そばにいた学生が(その後仲良くなる藤丸くんだが)「でも、おれたちは、その遠回りをして、ここにいますよ」と言い、学生波多野は「無論、進学できなかったやつもいます」と付け足していた。

すごく常識的な発言である。

だから万太郎は相手にされない。

まあ、当然である。

研究の現場とて、いま目の前のことで手一杯で、田舎から出てきたアマチュア研究者に私の研究を見てくれと言われても、相手をしていられない。

当然だ。現場は現場で忙しいのだ。

際立つ万太郎の変人ぶり

本来ならこのまま門前払いされるところだが、田邊教授の「土佐の人には恩義がある。見てあげよう」のツルのひと言で、万太郎は特例として、出入りを許される。

見返してみて、なかなかうまく作ってあるドラマだと感心する。

最初、33話を見ているとき、こちらの心情は万太郎にがんばって欲しい一心で、負けるな万太郎、きみの努力を東京のやつらに見せつけてやるんだ、と本気で応援して見守っていた。

少なくとも私はそうおもって見ていた。

まんまと、してやられている。

このあたりがうまい。

免許がなくても運転していいのか

「大学の研究室を自由に使いたいなら正規どおりにやってこい」というのは、たとえば「クルマの運転をしたいなら、免許を取ってから来なさい」と言っているようなものだ。

クルマを運転しようとおもえば、みんな、免許を取りにいく。

いきなり独力で運転を覚えたりしない。

時間と金をかけて教習所に通い、目の前の時間は少々取られるが、それを越えれば一生使える資格を得られるので、そこは我慢して少しだけ遠回りする。

それが普通だ。

でも万太郎はそんなことを気にしない。

万太郎の主張は、無免許で運転しているのを注意され、見つかる前に教習所に通えよ、と言われたときに「え、いまから教習所いくんですか、クルマがもう運転できるのに? 時間の無駄ですき」と言っているようなものなのだ。

ちょっとなかなかにいただけない。

変なのは万太郎のほう

でも、これはあとから見返して気づいたことである。

初見のときはそうはおもわなかった。

今回の朝ドラは、主人公のわがままぶりを客観的に眺める視点を隠すのが巧妙なのだ。

もちろん、隠されていて心地いいから、それでいいんだけどね。

でも、万太郎が善で正義であり、大学側の人間が心狭くて悪である、と考えるのは、たぶん、まちがっている。

変なのは、万太郎のほうだ。

「それが嫌ならいますぐ留学に行きなさい」という親切

この流れで、67話、万太郎は教授宅に呼ばれ、自分だけの専用の手先にならないかと誘われる。

このときの教授の態度はとてもいやな感じだったので、絶対に断れよ万太郎とおもって見ていたのだが、それまたNHKの巧妙な見せ方で、あらためてゆっくり見返すと、教授の言っているのは、かなり真っ当なことだったのがわかる。

教授は、きみには本来は、研究を発表する資格も場所もないと指摘する。そのとおりである。

どうしたらええがでしょうかと万太郎が聞くので「方法はふたつある」と教授は答える。

「大学予備門に四年間通い、その後、東京大学を受けなさい……それが嫌なら、いますぐ、留学に行きなさい……」

予備門からというのは遠回りにしても、この「留学に行きなさい」はじゅうぶんに検討すべき申し出ではないか。強くそうおもう。

「学歴がすべてゆうことですか」

こう言ってくれた教授は、かなり親切な人だとみていいんじゃないだろうか。

留学で目の前の3年ほど使えば、一生名乗れる資格を得るのだ。しかも留学先で研究をつづけられる。

でも万太郎は、それをにべもなく断っている。

留学に行きなさいと言われて、彼が答えたのは「…学歴がすべてゆうことですか……」である。

「学歴」を持ち出す演出の「狡知」さ

ここの演出は巧妙を超えて狡知である。

答えが噛み合っていないのにそれを感じさせない。

「学歴がすべてゆうことですか」つまり、学歴がすべてじゃないでしょう、と主張するのは、それは、令和ならいい。

学歴がすべてじゃないと信じている人たちもたくさんいるし、説得力もある。

でもここは明治の10年代だ。

しかも新しくできた「大学校」という場である。

ここにはいまでいう「学歴」という概念は存在しない。しているわけがない。

この時代、大学を卒業した人は、その氏名が全員、新聞で発表されていた。

わかりますか。大学を出て「学士号」を取った人は全員、日本人がその氏名を共有していた時代だった、ということです。

年に二、三十人、いるかいないかくらいである。

大学を卒業する人は、日本人総員の期待のかかった「頭脳」だったのだ。

大学の価値が違う。違いすぎる。

教授が常識派であり万太郎は非常識

その時代、「学歴」という概念は存在しない。

教授や助教授が問いただしているのは「国費で賄う研究室を使う資格をきみは持っているのか」ということであり、持っていないなら、至急なんとかしなさい、ということである。

「学歴」という(令和の人が勝手に思い浮かべる)うわべだけの肩書きの話をしているでのはない。

資格の話だ。

「学歴がすべてということですか」は、未来から飛んできた概念がいきなり青年に取り憑いて話させたセリフだと考えるしかないが、この不思議の一言を入れただけで、万太郎が善、教授が悪に見えたから見事である。

役者としての神木隆之介と要潤の力量でもある。

でも、落ち着いて見てみると、逆だ。

教授が常識側、万太郎は善は善でも独善、非常識サイドにいる。

見てるものを万太郎側につかせ、教授を憎む構造を作りだして見事である。

万太郎のダメダメ発言

ちなみに、大学にも入り直さない、留学にも行かないと断った理由を万太郎はこう語っている。

「…人の一生には限りがあります。ほんじゃき、日本中…、世界中には数えきれんほどの植物があるのに、どういて遠回りをする時間があるがですか(……)わしは、わしの一生は、植物に打ち込むと決めました、ほかのことに使っている時間はありません」

これも改めて見ると、ダメダメな発言である。

ちょっと自分の立場をわかっていなさすぎる。

ちむどんどんの暢子か、と言いたくなるほどのわがままぶりである。

無資格では存分に研究できないから、資格を取ったらどうだ、という提案されているのに、自分の独善的な考えを守るために拒否している。理由も間違っている。

何が間違っているかといえば、このとき三年留学していれば、きちんと正規の研究者として一線で活動が続けられ、しかも研究職に就いて給料ももらえた可能性が高い。

それなのに目先の時間を惜しんで断るから、無資格のアマチュア研究者という不安定な立場のままである。

残念ながら、愚かな決断だと言わざるをえない。

自分の立場にあまりに無自覚

大学の植物学研究室に万太郎が出入りできて、そこの資料なども見放題だったのは、それはあくまで「大学教授の田邊の許可があったから」でしかない。

でも万太郎はそのあたりに無自覚だった。

教授の助力を得ながら書いた論文に、教授のことを一言も触れずに仕上げたところで、教授の逆鱗に触れる。もう出入りするなと言われる。いわば破門である。

彼は簡単に破門される立場だという自覚がなかったのだ。

好きなことに没頭できるのが嬉しく、どうすればその立場を維持できるのかについて何の興味も持っていなかった。純粋な人であり、かなり困った人でもある。

こういう人は組織から歓迎されない。しかたのないところだ。

朝ドラは元気が一番

このドラマでは、主人公の「わがままな態度」をわがままに見せないよう徹底して工夫されている。

主人公のわがままは、いわば「学問を独自に自由に研究していたい」という態度に置き換えられ、また世間や大学がそのわがままぶりに困惑すると「頭の固い連中はわかってくれない!」と、うまく問題をすり替えている。

おかげで見てる者は心地いいまま主人公を応援できる。

なかなか巧妙な構成である。

でも主人公はいつも楽しそうだ。そして前向きである。

無器用でヘタな生き方だが、見ていて元気が出る。

それでよろしい。

見ていて反感しか持てない朝ドラの千倍いい。

狡知で巧妙でもいい。朝ドラは元気が一番である。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

堀井憲一郎の最近の記事