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ドラマ『あなたがしてくれなくても』 意外なラストの「本当の意味」

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:ロイター/アフロ)

『あなたがしてくれなくても』の予想外の終わりかた

ドラマ『あなたがしてくれなくても』の終わりかたは意外だった。

(ドラマ『あなたがしてくれなくても』のネタバレしています)

登場する二組の夫婦は、ラスト前(第十話)でどちらもきちんと離婚した。

それぞれ四人はべつべつの人生を歩み始めた。

最終話の最後でヒロインは「雨が上がっても、明日になっても、その向こうには何が見えるのかわからない。だから私は歩いていく」と、急坂を登っていた。

まるでタラの大農園地に立つスカーレット・オハラのようだ、とおもったがその急坂をうしろから男が追ってきた。

もと夫である。

どうやら、二人の仲はもとに戻っているようだ。

風と共に去ったわけではなかったらしい。

予想しない結末だった。

『あなたがしてくれなくても』は恋愛が薄くなっていった

ただ、もとに戻った、というわけではない、のではないか。

最終話のこの少し前、楓(田中みな実)とみち(奈緒)は立ち飲み屋で一緒に飲んでいた。

「元に戻るのって、前に進めるよりむずかしいんだよね」

「自分の過去のことって邪魔してきますからねえ」

すでに離婚してしばらく経っている二人は、復縁について、日本酒を飲みながらそう語っていた。楓はまったく戻るつもりはないと宣言し、みちは言葉を濁していたが、戻ることはむずかしいという意志を示していた。

不倫ドラマではなかった

『あなたがしてくれなくても』は、不倫ドラマではなかった。

恋愛ドラマであったかどうかさえ疑わしい。

途中、タイトルの表記が気になった。

『あなたがしてくれなくても』というタイトルは、ドラマでは三行で書かれていた。

あなたが 

  してくれ

 なくても

というぐあいに三行になっていて、しかも二行目の「してくれ」の上の部分はどうみても一文字ぶんの空白があった。

最終話を見終わってすぐにまた第一話から見返して、二回目の五話まで進んで冒頭のタイトルシーンになった。二人が川(たぶん目黒川)のあっち側とこっち側を別々に歩いている。この三行のタイトルが出た。

そのとき、タイトルがこう見えてしまった。

あなたが

 愛してくれ

 なくても

まあ、目が悪いから、ときどきそういう存在しないものが見えてしまう。

でもそう見えてしまった。

「あなたが愛してくれなくても」という錯誤

ただの錯誤である。

愛、なんて文字はどこにも入っていない。

でも一瞬、そう見えてしまったのだ。

妙に納得してしまった。

ヒロインのみち(奈緒)はレスであることをただ訴えているわけではなかった。

夫は私を愛しているつもりのようだが、それは自分の求めている愛とはまったく違うものではないか。

それでも私は愛されていると言えるのだろうか。

そこにおもい悩み、愛されてないことを認めるのを恐れていた。

夫婦として一緒にいても、実は一人きりなのと同じではないか。

認めるとそういうことになってしまう。

その恐れを描いたドラマとして、秀逸だったとおもう。

「人としての行き違い」の物語

あらためて見直すと、恋愛話ではなく、レスの話でもなく。

行き違いの物語だったようにおもう。

それも恋愛ではなく「人としての生き方」の行き違いを描いていた。

「夫婦」という形をめぐって、行き違いながらも奮闘する人たちの物語だったのではないか。

永山瑛太の慄えるような凄み

最初は、セックスレスが引き金となった不倫のドラマだとおもって見ていたから、重苦しくてしかたなかった。

レスの妻が迫ってくるところ、それをかわして、妻が傷ついているのには気がつかず、でも何とかフォローしようとして見当違いなことをやらかす夫の姿。

夫を演じて永山瑛太がすごかった。

見ていてつらかった。

彼にかわって男として謝らせてください、と何度、言いそうになったことか。

永山瑛太の「自分の気持ちを表すのがヘタな男性の人類代表」のような慄える演技が続いていて、ちょっとすごかった。

だから、いたたまれなかった。

直視できず、横目で眺めていた。

夫婦間の「あきらめ」を描いて見やすくなった

ところが途中からトーンが変わった。

夫婦でわかりあえないのはしかたのない、その「あきらめ」が描かれているように感じた。

夫婦は二人で暮らしている。

若いときは隣りあって寝てもいる。

でも、やっぱり人は、一人でしかない。

つまるところ、「孤」である。

夫婦といっても、孤と孤。一人と一人でしかない。

その姿が丁寧に描かれだした。

二組四人の集団劇のよう

相手を理解しようとしているのに、わからない。

自分をわかってもらおうとしているのに、まったくわかってもらえない。

二組の夫婦、四人それぞれの姿を描いて、集団劇のようであった。

視点がひとつところに固まらないのがよかった。

簡単にいうなら「いま一緒にいる人はわかってくれない、少し離れた人はわかってくれる」という図式で描かれていた。

皮肉な情勢を描いて、説得力に富んでいた。

パートナーがいても自分で決めるしかない人生

離れている人がわかってくれる。

ただ離れている人は、当事者ではない。

近くのわかってくれない人と、わかってくれるが離れたところにいる人、それしかいないなら、人は自分で決めていくしかない。

パートナーがいたとしても、自分の生きる道は自分で選ぶしかない。

それを示したドラマであった。

まさに「生殺与奪の権を他人に握らせるな」である。

冨岡さんの言うとおりだ。(『鬼滅の刃』第一話です)

もとサヤに収まろうと人生は変わっていく

二組とも夫婦であることをやめた。

そのあと、一人で生きようと、別のパートナーと一緒になろうと、でも同じである。

誰と一緒になっても、「孤」は解消されない。

そこは覚悟を持って生きるしかない。

だから、また同じ人とやり直すとしても「一人であること」からは逃れられない。

もとサヤに収まろうと、これまでの生活が繰り返されることはない。

同じ人とやり直す「孤」としての覚悟

ラストシーンには、私は、そういう意味合いしか読み取れなかった。

この人と一緒にいてもまた、孤独だとおもうことは起こるはずだ。

しかたがない。

それでも一緒にいよう、という選択だ。

「孤(ひとり)」の自覚と覚悟のうえで、同じ人とやり直す。

なかなかにすごい決断だとおもった。

すさまじい。

スカーレット・オハラの決意にとても近い。

ただまあ、この解釈は人によって違うだろうし、違っていていい。

それぞれの解釈でいい。

結婚生活をどうとらえるかは、人それぞれ違うからだ。

そして結婚観は、往々にして夫婦間でもかなり違うものだ。

そのことも、よく示していた。

ラストシーンは「オマケ」でしかなかった

見直してみると、物語は第十話(ラス前)でほぼ終わっているようにおもう。

最終十一話は、後日譚でしかない。

夫婦の理解と孤絶を描いて、親切にもその一例を挙げてくれただけ、というところだろうか。

「夫婦であっても、最後は孤であること」を強く自覚できたとしたら、さて、それからどうしますか、というのがドラマのテーマだったのだろう。

みちと陽ちゃんの「別れたあと、また戻って、表面上は仲が良さそう」というのは、ひとつの例でしかない。

「たとえばこんな形もあるかもね」というオマケ部分だったようにおもう。

四人が、みんな「孤」を受け止めて、それぞれ歩き出す物語であった。

(陽ちゃんの浮気相手の三島さんまで含めた五人の物語だとも言える)

不倫ドラマを装いつつ、骨太な「人の生きる道」を示したドラマに見えた。

ラストのあの急な坂道は、豊島区から文京区に行くとき登らされる関口台地みたいだなあとおもいつつ、不思議な感慨にとらわれて、ラストシーンの空を見ていた。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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