Yahoo!ニュース

衝撃のドラマ『ペンディングトレイン』は『漂流教室』のようにはならない その現代的な事情

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:アフロ)

※ドラマ『ペンディングトレイン』と、楳図かずおの漫画『漂流教室』のネタバレしています。

『ペンディングトレイン』を見て『漂流教室』をおもいだした人たち

ドラマ『ペンディングトレインー8時23分、明日 君と』は予告編を見たときから「漂流教室」なのか、とおもっていた。

本編(4月21日放送の第一話)を見てもやはりそうおもう。

同じように感じた人も多いだろう。

それは「ハコモノが人を抱えて未来に飛ぶ」という設定が似ているからだ。

『漂流教室』では小学校そのものが、『ペンディングトレイン』では多くの乗客を乗せた電車が、未来へ飛ぶ。そこでの手探りの生活が始まる。

その初期設定がかなり似ている。

『漂流教室』は50年前の名作漫画

『漂流教室』は1970年代の楳図かずおの漫画である。

古典的な名作と言っていいだろう。

当時の楳図かずおの絵は怖かった。

恐怖漫画の手法を存分に生かしたサスペンス漫画になっていた。

『漂流教室』は単行本では11巻。

昭和のころの漫画の名作は、巻数が手ごろでいい。世界がまだ「おたく」の意思で動かされていなかった時代だった、ということだろう。

未来の路線として登場する「有楽町線」

漫画『漂流教室』は後半は、社会的な問題も内包したSFものになっていく。

少年たちが、自分たちがいるのは未来だと気づき、それに対する考察で物語が深みを持っていった。

いま僕たちがいるのが未来だ、と気づくきっかけのひとつに「まだ存在しなかった地下鉄路線」が登場する。

いまの有楽町線である。

『漂流教室』が少年サンデーに連載されていたのは1972年から1974年(の半ばころ)であり、有楽町線(池袋―銀座一丁目間)の開通より前のことである。

知らない地下鉄駅名を見て、子供たちは未来に来ていることを確認する。

(作品内では「有楽町線」という名称は出てこない)

この電車が動くところは、とても怖いシーンだった。

1987年に映画化された『漂流教室』の驚き

『漂流教室』は何度か映像化されている。

でも原作の世界をそのまま忠実に映像化したものは存在しない。

まあ、それはできないだろう。

まず、1987年に映画化されている。

公開当時に見た。

愕然としたのをありありとおもいだす。

あまりに原作とかけ離れており、何を見せられているのだろうと、気を失いかけた。

あらためて、原作漫画の力が強すぎるのだとおもった。

映像製作者が映像化したくなる気持ちもわかるが、もともとの作品があまりにも複層的な構造と哀しみを描いていて、どれかは切らなければいけない。

切ってしまったら最後、原作を読んだ人(読んで戦〈おのの〉いたすべての人たち)を得心させる映像が作れるわけがない。

2002年のドラマも原作の「恐怖」をかなり削ぎ落とした

2002年には連続ドラマになった。

『ロング・ラブレター〜漂流教室〜』である。

これも設定が変えてあった。

ドラマとしての出来は悪くなかったとおもうが、でも原作世界の一部を切り取って作られていた。

原作漫画のアイデアをうまく使った別の作品だった、と言うしかない。(ドラマとしておもしろいのでいいんだけど)

原作では小学生がたくさん死ぬ

やはり原作の「小学校だけが丸ごと見知らぬところに飛ぶ」という発想が秀逸だったのだ。

小学校にいた大人たちは、異様な状況に耐えられずすべて死ぬ。

だから少年と少女だけで生き延びなければいけない。

そこが、とても力強い作品であった。

また『漂流教室』がリアルに映像化できないのは、小学生がたくさん死ぬからでもある。

怪虫に殺されたり、不気味な未来生物に殺されるのもあるが、仲間や教師にも何人も殺される。

そういう集団心理の恐怖がリアルなのだ。

無法状態での暴力を執念で描きこんであって、読者の少年少女を震え上がらせた。

もちろん大人が読んでも叫びそうなほど怖い。

楳図かずおの絵が暗くて怖くて、全コマが緊張に満ちている。

一コマずつ、明確に怖がらせようという意志が感じられ、それが当時の楳図かずお漫画のスタイルであったが、それがただの恐怖漫画を越えて、もっと深みを湛えた作品とへとつながっていた。

『漂流教室』の持つ圧倒的な恐怖感

この漫画を初めて通して読んだときの恐怖感は、忘れられない。

物語の基層にあるのは「いつ殺されるかわからない」という感覚である。

自然死も含めて、いつでも簡単に人が死んでしまう。

それを基本に据えてあるから、常に怖ろしさが横たわっている。

映像化したとき「常に死ぬかもしれない恐怖」は、取り払われてしまう。そこを中心に置くと、ただのスリラーサスペンスになってしまう。それはもったいない。

なのでだいたいの演出家はそこをスルーする。

だから、別の作品になってしまう。しかたがない。

映像製作者も、最初からあきらめている。

アニメ化なら、その怖さは再現できるだろうけれど、いまどき、小学生が次々と殺される作品が原作通りに映像化できるとはおもえない。

だから、この作品の心髄に触れるには、ただ楳図かずおの漫画を読むしかない。

その終わりかたのハードさ

また漫画『漂流教室』は終わりかたもとてもハードだった。

これもちょっと忘れられない。

最後のコマも鮮明に覚えている。

少年たちは未来に生きる。

読み終わっとき、めっちゃハードだ、と強くおもったことも覚えている。

ハードで、泣くこともできず、ただ、胸が締め付けられるばかりであった。

読者がぼんやりと期待した「ほっとする終わりかた」にはなってくれない。

作者の気持ちが強いし、読者に対して求めているものもハードだなとおもった。

ラストシーンが強く心に刺さって刺さって、40年経ってもまだ刺さったままだ。

そういう漫画作品は、やはり映像化が難しい。

行ったら帰ってこないと、許されない

ドラマ『ペンディングトレインー8時23分、明日 君と』を見て、『漂流教室』と似ていると感じた人も多いだろう。

初期設定が似ている。第一話の最後のほうは、すこし『猿の惑星』ぽくもあった。

でも、たぶん始まりが似ているだけで、あんなハードな展開にはならないはずだ。

受け取る人にも強さを要求するドラマは、ふつう、いまは作られない。

行ったなら、帰ってこないと、たぶんみんな許さない。

「行きて帰りし物語」は、もちろん物語の基本でもあるし、いまはもうそれでないといけないだろう。

戦争の当事者であった記憶があった時代

「行ったまま戻ってこないものもたくさんいる。それはそれで受け入れるしかない」という物語が作られていたのは、もうずいぶん前のことである。

おそらく自分たちが戦争の当事者であった記憶があった時代までだ。

いまはそんな話にはみんな耐えられない。

だから、殺し合いとか、人数が減ることは、起こらないんだろうとおもっている。

タイトルに「明日、君と」とあるなら大丈夫

2002年のドラマ『ロング・ラブレター〜漂流教室〜』もきちんと助かったというわけではないが、でも最後は原作漫画とまったく違っていた。

ハードな終わりかたをしていなかった。

未来への可能性を残していた。

大半の人は死んで、生き残ったのはほんの一部だけ、というドラマは、21世紀にはあまり作られないだろう。

『ペンディングトレインー8時23分、明日 君と』もたぶん、最後は何とかなるだろう。そうどこかでおもっている。

安心して見ていられるはずだと、勝手に決めている。

タイトルに「明日、君と」と入ってるから、たぶん、大丈夫だとおもう。

緊張して、見続けるのみである。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

堀井憲一郎の最近の記事