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長澤まさみのドラマ『エルピス』の慄然とする恐ろしさ 「複数の実在の事件」の意味するところ

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:アフロ)

実在の複数の事件から着想を得たフィクション『エルピス』

長澤まさみのドラマ『エルピス』では冒頭、こういう断り書きが出る。

「このドラマは実在の複数の事件から着想を得たフィクションです」

あくまでフィクションだが、扱っている事件は「実在の複数の事件」を参考にしている、ということだ。

なかなか珍しい断り書きである。

以下、本稿はドラマ『エルピス』のネタバレがあります。

長澤まさみの放つ圧倒的な説得力

このドラマが扱うのは「冤罪死刑囚」、舞台は「テレビ局の報道部」である。

長澤まさみはテレビ局のアナウンサー。

かつては期待された若手女子アナであったが、スキャンダルを起こして飛ばされ、視聴率の低いおちゃらけたバラエティ番組のニュースコーナーを担当している。

少々やさぐれており、ただ、向上心を失っていない姿も見せる。

等身大の30代アナウンサーを演じて、説得力に富んでいる。

このバラエティ番組の若いディレクター(眞栄田郷敦)が、「ある死刑囚の犯罪」について取材することになる。

女子アナ浅川恵那(長澤まさみ)も調査に加わる。

やがて、この死刑囚は本当は犯罪を犯していないのではないか、無罪なのに絞首刑にされようとしていないか、と二人は疑い、やがてそれは確信となる。

さらに調査を進める。

かなりヘビーなテーマである。

「私はやっていない」と主張している死刑囚

「このドラマは実在の複数の事件から着想を得た」というのははおそらくこの「冤罪死刑囚」に関する部分であろう。

現実にもある話だ。

最高裁での死刑判決が確定してからもなお、「私はやっていない」と主張している死刑囚はいた。そして今もいる。

眞栄田郷敦が演じるディレクターは途中からほぼ彼一人で取材を続け、粘り強い調査でいくつかの新事実を明らかにする。

おちゃらけたバラエティ番組でも一部は放送され、反響を呼ぶ。

この死刑囚はほぼ冤罪ではないのか、という声も世間から上がり始める。

ただ、あきらかにこの調査を妨害する勢力が出てくる。

一人きりの調査では限界があり、司法の壁が立ち塞がり、ついに彼は会社(テレビ局)を馘首される。

立場によって正義は変わるという姿

いっぽうの長澤まさみ演じるアナウンサーは、この冤罪事件の詳細をニュース番組で語り、取材の手柄を一手に引き受ける立場となった。

やがて、局のメイン番組のキャスターに抜擢され、会社を代表する顔になっている。

8話で、明暗が分かれた。

二人の局内での立場の浮き沈みが描かれる。

真実をとことんあきらかにしようとしてディレクターは社会から排除され、抜擢され会社の顔となったアナウンサーは真実追究からははずれていく。

立場によって正義は変わる、という風景が描かれる。

ただ、それはおそらくサブテーマである。

メインテーマは「死刑囚の冤罪は晴らせるのか」というところにある。はずだ。

少なくとも、素直にドラマを見ている視聴者は、そっちへと誘導されている。

よく見かける「時の権力者がらみ」という展開

死刑囚は犯人ではないということを証明するため、眞栄田郷敦のディレクターは「真犯人を見つけ出す」という動きを見せる。

これはミステリー解明という部分でもある。

どうやら冤罪をそのままにし、真実を隠蔽しているのは「時の権力者がらみ」ということのようだ。

正直に言って、これはよく見かける展開だ。

警察の隠蔽のバックには絶大な権力者、というパターンはもうほぼ「時代劇化」しているような、お馴染みの展開である。

人生一回きりの瞬間が一斉に集められている物語

ただこのドラマ『エルピス』は手垢にまみれたパターンを踏襲しながらも、芯のおもしろさがくずれない。

人の「おもいの強さ」を正面からとらえているからだろう。

人が描かれているということだが、それも「人が秘めていた強いおもいをついに表明する突き刺すような瞬間」が次々と現れてくる。

人生一回きりの瞬間が、一斉に集められているような物語だ。

だから見ていると奥のほうが熱くなっていく。

沁みいるドラマだ。

ひょっとしてそちらにテーマを据えているのなら、と考えたときに、ちょっと妙な予感がかすめる。

冤罪ドラマは必ず無実が証明されるという法則

「このドラマは実在の複数の事件から着想を得たフィクションです」という言葉に、奇妙にひっかかりを感じるのだ。

ひょっとして、とんでもない展開を秘めているのではないか、と不思議な気配を見てとってしまう。

冤罪がテーマになった犯罪ドラマはそこそこ見かける。

そのときにはひとつの鉄則がある。

「冤罪だとわかっている受刑囚がドラマに出てくる場合、必ず彼らの無実は証明されなければいけない」というものだ。

フィクションであるかぎりはそう作られている。

まあ、証明されなくても、脱獄ないしはいろんな人の協力によって囚われの身から抜け出すというのでもいいのだが、「無実の罪のまま死刑になる」という「フィクション」ドラマはふつう作られない。

物語の要素としての「冤罪」はそういうふうに使われる。

それが刑事ドラマ、法廷ドラマの鉄則である。

物語の中に拳銃が出てきたら発射されなくてはいけない

村上春樹経由のチェーホフの言葉でいえば、「物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはいけない」というのと同じだ。

意味ありげなものを物語に登場させたからには、それはきちんと役割を果たさないといけない。

チェーホフにおける拳銃、日本犯罪ドラマにおける冤罪、同じところにある。

このドラマが、ふつうどおりに「この物語はフィクションであり、実在の人物、団体、事件とは一切関係ありません」と書かれているのなら、「冤罪受刑者」はその無実を証明されるはずである。

ただ「実在の複数の事件から着想を得た」というところが、気になる。

平成の時代にもあったこと

現実世界には、死刑執行当日もまた「私はやっていない」と主張していたのに、死刑が執行された例がある。

それも昔の話ではない。

平成の時代に事件が起こり、無実を主張するも、最高裁で死刑が確定し、平成の世に執行された例もあるのだ。

それが冤罪であったのかどうかはわからない。

司法の側は、間違っていないといまも主張しており、よほどのことがないかぎりはそれは覆らないだろう。そちらが真実である可能性ももちろんある。

双方の主張が食い違い、なぜ食い違っているのか、それに関して真実はわからない。

「実在の複数の事件」なのか「フィクション」なのか

『エルピス』が、着想を得た実在の事件のひとつにそれが入っているのなら(間違いなく入っているはずだが)、このドラマでは、冤罪だと疑わしいままに死刑が執行される可能性もあるのだ。

まさかとはおもうが、そんなドラマを見たら、衝撃が止まらないうえに、あきらかに現在の司法を糾弾する心情に加担することになる。

ふつう、そういうドラマは作られないはずだ。

でも「実在の複数の事件から着想を得た」という文言は、そうやって見直すと、とても不気味である。

「フィクション」というほうに比重があれば、冤罪は晴らされる。

しかし、「実在の複数の事件」に重きをおいたら、違った展開になる。

現実を奇妙にトレースしているのではないかと想像したとき、慄然としてしまう。

「テレビ局員のドラマ」になって終わるのか、「冤罪死刑囚の恐怖」と対峙したドラマになって終わるのか、最後まで目が離せない。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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