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『舞いあがれ!』と『ちむどんどん』の決定的な違いは 黒島結菜と福原遥の「足と耳」の差

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:2019 TIFF/アフロ)

とてもまっすぐな朝ドラ『舞いあがれ!』

『舞いあがれ!』はまっすぐな朝ドラである。

ヒロイン舞(福原遥)は子供のころから飛行機が好きで、いまはパイロットになるため航空学校で訓練を受けている。

いま(43話)は着陸が苦手のようだ。

子供のころから空を飛ぶものが好きで、そのまま、あまり紆余曲折がない。

夢にまっすぐ進んでいる。

わかりやすいドラマである。

見ている者に浮遊感を与えてくれる

いちおう、最初は「飛行機を作りたい」という夢を持っていたが、それが「飛行機を飛ばしたい」と変わっている。

大学の「人力飛行機サークル」に入ってそこで操縦士を経験してから、気持ちが変わったのだ。

それはドラマを見ているとすごくわかる。

このドラマは、空を飛ぶ瞬間のどきどきに視聴者もしっかり巻き込んで、とてもすぐれている。

ふわっと浮くアトラクションに乗っているような感覚が共有できるドラマである。

すばらしい。

見ていると、舞、上がれ! と心の中で強く応援してしまう。

あっさりと大学中退から航空学校へ入学

作るより飛ばしたいというヒロインの変化は見ている人みなに伝わっている。

彼女は何も無理を言っていない。

その見せ方が見事である。

そのためヒロインの舞は、大学は中退し、航空学校を受験した。

必死に勉強して合格したのだが、そのあたりの苦労はあっさり描かれていた。

ドラマの主眼は、主人公の葛藤や苦労に置かれていないようだ。

だから、わかりやすく、見やすい。

道筋が一本通っていて、ぼんやり見ていても、引っ張っていってもらえる。

いま何をどう応援しながら見ればいいのか、いつもわかりやすい。

『ちむどんどん』は共感どころがわかりにくかった

おもいだしてみれば、朝ドラの前作『ちむどんどん』はヒロインをストレートに応援できないところがたびたび話題になっていた。

共感できない、というポイントで、みんなすこし苛立っていたのだ。

だったら共感しようとしなければいいじゃないか、という理性的な批判も出ていたが、それができたら苦労しないっての、というのが朝ドラ視聴者の本音である。

単なる愚痴なんだから黙って聞いてくれよ、というのが多かったのだとおもうが、それを全国的にSNSで展開していたから竜巻のような風が巻き起こっていたばかりだろう。

『ちむどんどん』は物語展開がいろんな方向に伸びようとしていたとおもう。

ヒロインだけではなく、近しい人たちの心情も丁寧に描き、だからぼんやり見ていると、いま、誰の何を応援したらいいのか、すぐにはわからない展開になっていた。

そこが共感しにくかった。

何も考えずに突進して跳ね返されることの連続

また、ストーリーに起伏を持たせるための「ヒロインたちに立ちはだかる障壁」がいつも少し変わった設定になっていた。

でもそれを乗り越える方法がいつも一緒で、まず考えなしに突進して跳ねられて、あいやーと言いつつ、立ち位置だけを変えてまたさほど考えずに突進して、そうしているうちに何とかなる、というものだった。

突進するヒロインというのは、はために見ているぶんにはおもしろいのだが、いつも失敗して、反省しないのをずっと見ていると、ちょっとくらくらしてくる。

まあ、『男はつらいよ』と同じなのだが、でも羞じらいがあまり見られず、だからやさぐれることもなく、そのへんが共感しづらいところであった。

『舞いあがれ!』のヒロインはまっすぐで慎重

『舞いあがれ!』の主人公はそれに比べてずっとまっすぐだ。

一本気だし、慎重で、内向的でもある。

いまも教官や仲間に「慎重すぎる」と指摘されている。

ノーアイデアで突進する『ちむどんどん』のヒロインはバカっぽいが元気だった。

『舞いあがれ!』のヒロインは内向きで、慎重である。

単に黒島結菜と福原遥のキャラの違いだともいえる。

本人そのもののキャラということではなく、ドラマなどで演じた役のキャラの差である。

黒島結菜の役どころはいつも同じ

黒島結菜の役はいつも元気だった。

2017年に主演したNHKドラマ『アシガール』が印象が強い。

足が速い女子高生の役で、戦国時代と現代を行ったり来たりして、足の速い足軽としても活躍する。

2019年大河ドラマ『いだてん』でもスポーツの得意な女学生の役だった。裸足で陸上競技に出場してすごい速さで走り、またテニスでダブルスを組んで全国を巡業していた。

2020年朝ドラ『スカーレット』では1960年代らしい若く元気な陶芸家の卵。

ヒロインの夫(松下洸平)に恋するが、ドロドロさせずに去っていく役だった。

からっとしていて、ずっと元気である。

そういえば朝ドラは2015年『マッサン』にも少しだけ出演していた。北海道の貧しいがまっすぐ元気な子で、先生になりたいんだ、と明るく話していた。

内面に深みがないところが魅力だった

こうやって並べると、黒島結菜は、ほぼ同じ役どころである。

NHKではみな同じだ。

民放でもさほどかわらず、2020年のテレ東のドラマ『行列の女神〜らーめん才遊記〜』も物怖じしない食通のお嬢様で、明るい役である。

2019年テレ東『死役所』にも出ていたが、一気飲みで死んだ女子大生役で、これもまた元気だった。(あの世とこの世のあいだが舞台で死んだ人ばかりが出ているドラマだったので死人なのに明るかったのだ)

『ちむどんどん』のあとに出ている『クロサギ』でも正しいことを正しいと主張するまっすぐな女子大生役である。

ずっと一貫している。

短いドラマや脇役には欠かせない存在である。場を明るくしてくれる。

ただ長丁場の半年ドラマとなると、あまり内面を掘り下げられる役どころではない。

内面には深みがないところが魅力なのだから、仕方がない。

ヒロインに据えると、まわりの人や状況をいろいろ複雑にするしかなくなってしまう。べつだんそれでいい。

ただ『ちむどんどん』ではそれが少し過剰になって、少しノイジーなドラマになってしまった、ということなのだろう。

黒島は「アシガール」で福原は「耳ガール」

いっぽう福原遥はEテレ(NHK教育)『クッキンアイドル  アイ!マイ!まいん!』のマインちゃんの時代から一貫してソフトな印象しかない。

まいんちゃんの時代はほぼ子供だけれど、その印象のまま10年以上続いている感じがする。

黒島結菜が『アシガール』だったのに対して、福原遥は『声ガール!』(2018年朝日放送のドラマ/主演)だった。わかりやすく対称的である。

黒島と福原の違いはつまり「足」対「声」ということである。

足は身体性の象徴である。足のガールはいつも元気で明るい。

声は、つまり耳で聞いてもらうものである

耳を通して内面に直結する。

福原はいわば耳に向けたガールであり、それは内省的で、慎重だ。

ここが両者の大きな特徴だろう。

そしてそれは『ちむどんどん』と『舞いあがれ!』の違いでもある。

いわゆるアニメ声である福原は、やさしげ、おっとりしている。

そういう役どころを一貫して受け持っている。

福原遥が演じてきたおっとりした役どころ

福原遥はドラマ『ゆるキャン△』(2020年より)では、ソロキャンプが趣味というかなり地味な女子高生で、一人でいることを好む内省的な役であった。

共演の大原優乃が盛り上げる役。

2021年『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』(菅野美穂・浜辺美波のドラマ)では編集者べったりの彼女役(のちに老人である中村雅俊の彼女となる役でもあった)。

2019年菅田将暉が教師だったドラマ『3年A組―今から皆さんは、人質ですー』でもやはり恋愛体質の女子高生役であった。

彼氏がいないと落ち着きがないという、ちょっと依存体質の女性、見た目はかよわいが、でも芯のところにはいろんなものを持っている女性を演じて、アニメ声の福原遥にはそういう役がとても合っている。

福原遥はあまり強い女性を演じていない。

足の速い女性もやっていない。

そのかわり「声がかわいい女性」役が多い。

アニメ『プリキュア』シリーズではプリキュアの声優もやっている。

やわらかく、ソフトで、ときに甘ったるさを隠さないタイプの役が多かった。

パイロットになりたがっているが、強さは感じられない

だから今度の「パイロットになりたい」という『舞いあがれ!』の役どころはちょっと珍しい。

ただ基本の気配は同じで、34話で母(永作博美)に「あんたが男社会で道を切り開いていくタイプにおもわれへんねん」と言われていた。

それはみんなが役者福原遥に抱いているイメージそのままである。

何か強く言われるとすっと引き下がって、目をまんまるにして驚いた表情で黙って見つめている、というのが彼女が演じる役に共通している風景だとおもう。

黒島結菜は驚くと、まずひと言、口に出すイメージだ。

「アイヤー」と意味ない言葉をとりあえず音にしてしまう人である。

そういう違いがある。

『舞いあがれ!』はだからとても見やすい

福原遥の『舞いあがれ!』には、あまり無茶な「壁」が立ちはだかることがない。考えなしに猪突猛進ただぶつかっていく、という展開もない。

壁はわかりやすく、それを乗り越えようとする努力は共感しやすく、まっとうに正面から向かっていく。

見やすい。ひっかかりがない。

でもひっかかりがないと、いやはや、何だか物足りないのだ。もうしわけない。

ないものねだりの典型ではあるのだが、ときどきそう感じてしまうのだからしかたがない。

ドラマはきちんとおもしろい。

でも、これ、どうなっちゃうんだよー知らねーぞー、という心掻き乱される無茶な展開もない。

『ちむどんどん』のようにひっかかりと齟齬が連続し続けるドラマを見ていたときは、のぞんでもいないのに、感情的に揺さぶられて、こっちから能動的に作品に接してしまっていたのだ。

穏やかな展開のドラマは、受け身で穏やかに見るばかりである。

それでべつだん何の問題もない。それでいい。

ただ、騒がしいドラマを見ていちいち反応していたころのほうが、なんだか元気だったような、そんな錯覚してしまうばかりである。

人間は勝手なものだと、つくづくおもう。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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