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徹底して浜辺美波のためドラマであった『ドクターホワイト』 その美貌が際立っていたわけ

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:アフロ)

浜辺美波のためのドラマであった『ドクターホワイト』

ドラマ『ドクターホワイト』は浜辺美波のドラマであった。

医療ドラマであり、謎に包まれたミステリアスな展開もあった。ただ、全話を見ると「美しい浜辺美波」を見せるためのドラマだったという気がしてならない。

『ドクターホワイト』での浜辺美波が透き通るようだった。

キャラ設定と相俟って、透明感いっぱいの存在であった。

決めゼリフは「それ、誤診です!」

彼女は、どこから来たのかがわからない「謎の女性」であった。

ただ膨大な医療知識だけは持っている。

最初、彼女は病院に運び込まれ、目覚めたあと医師たちの会話を聞いて、「それ、誤診です!」と言い放つ。

「それ、誤診です!」がこのドラマの決めゼリフになっていた。

医療現場の女性主人公は、何か決めゼリフを持っていたほうがさまになる、という不思議な流れに乗っかった感じである。

医師が言ってはいけない決めゼリフ

決めゼリフ「それ、誤診です!」にはコミカルな気配があった。

そもそも医師が患者の前で絶対言ってはいけないセリフである。

その点、ドクターホワイトの浜辺美波は人がましい感情を持ち合わせておらず、他人の感情を考慮しないため、「それ、誤診です!」という禁断のセリフが言える。

彼女のような異様なキャラでないと言えないセリフである。

「私、失敗しないので」とは違う。

「私、失敗しないので」は現場の医師が冗談で言うことは可能だけれど、「それ、誤診です!」は言ってはいけない言葉である。

これを決めゼリフにしたのは、浜辺美波が演じる役が、ふつうの人ではないということを示していたばかりだ。

喋り始めた幼児のような存在

彼女は医療知識以外のことはほとんど知らない。

記憶喪失のようにも見えたが、ふつうの言語や日常生活に最低限必要な知識も持っておらず、単なる記憶喪失ではないようだった。

謎の女性である。

このミステリアスさが、浜辺美波の魅力を引き立てていた。

周囲の人間が感情を露わにするなか、(とくに瀧本美織が演じる内科医はけっこう起伏が激しかった)浜辺美波の演じる白夜は常に冷静で無表情であった。

感情を抑えているわけではなく、もともとふつうの感情を持っていない。

「笑い方」をも習っていたくらいだ。

人間としての生活の知識もない。

いろんなことを「それは何ですか」と聞いていた。

喋り始めた幼児のような存在であった。

「無垢」そのものの存在

つまり浜辺美波が演じていたのは「無垢そのもの」なのだ。

大人なのに「無垢さ」をまとい、それゆえに美貌が際立つ。

その点でも『ホワイトドクター』は浜辺美波を見せるためのドラマにおもえた。

シリアスなシーンでは透き通った存在であったが、人としての知識がないため、日常での言動はかなり不思議なものがあった。

言い方を換えると、「とぼけた存在」である。

この部分ではとても幼く見える。

頭からこたつに入っていた浜辺美波

たとえば第一話では、「こたつに入っていて」と言われて、頭からこたつに入っていた。そんなことするのは子供かネコである。

また、同居人たちと恋愛ドラマを見ていて、「お前しか見えないんだ」というセリフを聞いて、「視野狭窄が起きているのだとすると緑内障を進展する可能性があります」と説明していて呆れられていた。

あるときは、メールに入れる絵文字について「この絵文字は両目から涙が出てるでしょ」と説明されたときは「角膜炎ですか」と聞き返していた。「ちっがう。悲しいってこと」と友人に説明される。

歌を歌っているのを見て「すごい、すごいです、声帯を震わせて声を楽器のように放出してるのですね」と驚いていた。

あまりに無知で、そして純粋無垢だ。

「お兄ちゃんはね、じつはいちど告白してフラれてるの、あれはもう脈なしだから」と言われたときも、「脈なし…心停止ですか」と真剣に聞き返していた。

すべて、あの顔で、真面目な顔つきで話すのだ。

とんでもなくとぼけていた。かなりのコメディエンヌであった。

純粋な人物の「責任の取り方」

診断を間違ったのを怒られ、責任を取って自宅待機だ、と言われたときは「なぜ、家にいることが責任を取ることになるのですか、わたしは責任を感じているので患者さんの命を全力で救います」と患者のところへ走り出していた。

どこまでもピュアである。

見ていてただ惹きつけられる。

落差の大きな人物

「膨大な医療知識」を持ちながら、「その言動がおそろしく幼い」という落差を持つ人物を演じていた。

感情を抑えた真剣な表情が多く、その美貌が目立っていた。

ただ、浜辺美波を注視するドラマになってしまっていた。

それが狙いだったのかどうか、わからない。

ミステリアスな展開もあった。

でもその謎は「なぜこのような不思議な女性が存在しているのか(どうやってこうなったのか)」とつながっていたため、どうしても浜辺美波に注目するしかなかったのである。

犠牲を強いられ透徹した存在に

最終話で明らかになった彼女の正体は、意外なものであった。

自己犠牲を強いられる存在であった。

自己犠牲も、それを強いられれば、ただの「犠牲」である。

ほぼ、生け贄に近い。

そういう存在であることを自覚し、それを受け入れていた。

この終盤に判明した事実を、彼女は冒頭から徹頭徹尾、演じていたことになる。

透き通ったように見えるように、演じていたのだ。

最終話を見て、感心してしまった。

自分では哀しみを感じない存在

彼女はこの世に存在しているものの、同時に存在してないも同じ「身代わり」という存在だったのだ。

哀しさをまとった存在である。

でも、彼女自身は自分に哀しみを感じていない。

強い感情を持っておらず、風が通り抜けていくような立場にあり、だからこそ他者にとっては悲しい存在であった。

それゆえに、美しさはより際立っていたといえる。

21歳の浜辺美波の『無垢さ』を見事に残した作品であった。

浜辺美波は、感情を露わにしない「無垢」な状態がとても美しい。

まだまだ見続けたい存在である。

特別編も楽しみである。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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