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『TOKYO MER』が示した閉塞社会を打破する方法 いま英雄的医療集団ドラマが描かれたその真の意味

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

日曜劇場『TOKYO MER〜走る救命救急室〜』は、見ていてとても励まされるドラマだった。

さすがのTBS日曜9時、貫禄の王道ドラマである。

最後は、見守っている者が願った方向へ進み、安心させ、励まされ、彼ら自身も走り出してドラマは終わった。

(以下ネタバレします)。

まっすぐなドラマ『TOKYO MER〜走る救命救急室〜』

『TOKYO MER〜走る救命救急室〜』はとてもストレートなドラマであったとおもう。

「どんな人でも助ける」という青臭い理想を語る医者がいて、熱く語り、まわりを巻き込み、最後は、彼の理想にむけて、仲間も、周囲の人も、そして敵対する大臣も協力するようになった。

理想を語り、理想に向けて歩み出す。まっすぐなドラマである。

“TOKYO MER”とは大きな事故や事件現場に駆けつけ、その場で次々と人を救う医療チームのことである。

彼らの目標は「死者ゼロ」だった。

毎回これでもかという大型事故が起こる。

でもTOKYO MERが出向いた現場では死者を出さない。

それがモットーであり、奇跡的な事態がつづいて、その使命は守られる。

「死者、ゼロです」がもたらした安心感

第一話や、第二話では、はたしてこの「死者ゼロです」がいつまで続くのかとおもっていたが、毎回、「死者は、ゼロです!」で締めくくられると、ああ、そういう「型」を守ったドラマなのだと見ているほうも認識する。

つまり、このドラマでは、どれだけ瀕死の傷病者が出ようとも、彼らは全員助かるはずだと、安心して見られるのだ。

いつか裏切られるかもしれないとおもいつつ、でも、毎週「たぶん、今日も死者ゼロだろう」と期待して見守ることになる。

そして視聴者のその期待に応え、毎回「死者、ゼロです」で締めくくられた。9話まではそうだった。

型を守って安心させる物語である。

その部分でもずいぶん真っ直ぐなドラマだったと言える。

なぜ毎週同じような心肺停止シーンが流れたのか

ただ「安心させる」だけでは視聴者は惹きつけられない。

いつも緊張感と、疾走感があり、その先に「安心」があった。

そこがすごい。

緊張感は、今回はひょっとしたらダメなのかもしれない、とおもわせるシーンによってもたらされる。

毎回、患者の誰かが心肺停止状態になった。

ほぼ死にかける。

TOKYO MERの懸命の治療によって戻ってくる。蘇生する。

心肺停止から蘇生させる方法はこれはいつも同じである。

同じだからこそ、緊張感が生まれる。

つまり人間の命はすべて同じなのだ。

子供だろうと偉い大使だろうと懸命な医者だろうと同じだ。

心肺が停止すれば、同じことをして蘇生させるしかない。

そこに緊張感が生まれる。

そして彼らは蘇生する。

言ってしまえばそこは「お約束」である。

でも良いドラマというのはどれぐらい「お約束」を上手く使うかということにかかている。

『TOKYO MER〜走る救命救急室〜』はそこが見事だった。

疾走感を醸し出して無二の鈴木亮平

疾走感は、まず主人公の喜多見医師(鈴木亮平)の身体から発せられていた。

彼は動きながら、次々と医師と看護師に指示を出す。

落ち着いた声で、およそ30秒で10ほどの指示を的確に出していく。

このときの疾走感が尋常ではない。

とても信頼できる。

また、この指示を出すときの声が、高く、明瞭で、それでいてどこかに明るさが含まれている。圧倒的な説得力と安心感がある。

それは役者・鈴木亮平の力によるものだ。

鈴木亮平は疾走感を感じさせ、それは何ものにも代えがたい。

見ている者はどんどん高揚していく。

そして必ず患者は助かる。

見守っていると、高揚し、安心する。

「ひょっとしたらあり得る世界」を見せるドラマの役目

毎回死人が出ない緊急医療現場が描かれる。

そんなわかりきったドラマを見ておもしろいのか、と聞かれるなら、おもしろいんである。

そこを批判的に見るか見ないかで人は分けられるのだろう。

ドラマを見る限りは、乗せてくれるドラマには乗っていったほうがいいと私はおもっている。

わかりきっていても、緊張させられてやがて安心するお話がみたい。それが正直な心持ちである。

ドラマは、リアルな現実を見せるために存在しているわけではない。

もちろんその手のノンフィクションなドラマもあっていいのだが、リアルでなくともドラマには意味がある。

「ひょっとしたらあり得るかもしれない理想的な現実」を見せてくれるのもドラマの醍醐味なのだ。

「勧善懲悪の型」を守ったドラマのすごみ

TBS日曜劇場はそういう世界を描き、ずっと人気を保っている。

おそらくドラマ制作に対する意識がそういう方向に向けられているのだろう。

大昔から知っている物語の型を、いろんなバリエーションで見せてくれる。

だからおもしろい。

かつては「時代劇」が伝えていたような「勧善懲悪の型」を、『TOKYO MER〜走る救命救急室〜』は見事に再現してくれた。

こんなことは有り得ないと、半笑いで批判するのは容易である。

でも荒唐無稽な部分があろうとも、心動かされるシーンのあるドラマはやはり優れたドラマだと私はおもう。

よくわからないけど心動かされて泣いてしまうドラマは、そのままその感動を黙って受け止めるのがいい。それが生きる力になっていく。

芝居の「悪」と「悲劇」の型を見せる

『TOKYO MER』は、また、悪の描き方が見事だった。

最後まで悪だったのは与党の幹事長である。

与党幹事長(桂文珍)は、時代劇の悪代官そのものだった。

こういう型どおりの憎まれ役を、臆せずに登場させたところが、このドラマを痛快にした。型どおりの悪を登場させるのは、なかなか勇気のある判断だとおもう。

また「死者ゼロ」は一回だけ破られる。

犠牲になったのは「主人公の過去の犯罪歴を暴露した身内のもの」という苛烈な展開であった。

彼女の暴露の罪は、その死によって償われたことになる。

彼女は悪ではなかったが、物語の目指す方向に水を差したのは確かである。

だからこそ死んでしまうという非情な展開は、この部分だけでいえば「悲劇の型」を踏んだことになる。

正直、べつに死ぬことはなかったのにとはおもったのだが、でも「死者ゼロ」はどこかで止まらないと前へ進めなかったのだろう。彼女が犠牲に選ばれた。

そのあたりもまた、昔ながらの「英雄物語」らしかった。

縦割り行政を打破する痛快ドラマでもあった

このドラマは「人を救う現場」にさえも入り込んでくる「行政の縦割り区分」を、喜多見医師(鈴木亮平)の熱意で破っていく、という物語でもあった。

レスキュー隊が活動している現場に医師は入るなと何度も警告されるが、喜多見医師らは制止を聞かずに危険な場所で人を救助しつづける。

ときに警察官が入るなと制止し、また上からの命令なので救助に手を貸すことはできません、と関係者が立ちはだかることがある。また大使館敷地内なので、相手国の大使の許可なく入るなと政府筋から命令されることもあった。

でも、MERのメンバーが「目の前にある命を助けたいんです。それに協力してください!」と叫ぶことによって、現場を見ている人間を動かしていく。

鈴木亮平や賀来賢人の演じる医師の言葉は、熱く強く、現場の人間の心を溶かし、そして見ているものを高ぶらせた。

現場で立ちつくす人たちは私たちそのものである

上からの指令によって、足止めされている集団がいるとき、彼らは立ち尽くして前を見ていた。強いおもいを胸に、でも組織の人間であるから何も言葉にせず、黙って前を見ていた。

このドラマは「強いおもいを胸に、でも言葉にせず黙って前を見つめている人たち」を繰り返し描いていた。

それはたぶん、見ている私たちの姿そのものである。

でもドラマのなかでは、その「縦組織」に属する人間たちも「人の命を助けましょう」の声によって、一人の人間として動きだす。協力する。

横紙破りの一言によって、縦社会の閉塞が壊されていく。

ここが見ていて痛快だった。

閉塞感を打破する点において、きわめて優れたドラマであった。

彼らは、動き出すと早い。

すごい勢いで流れ出す。

ここの疾走感もすごかった。

疾走感を感じるだけで涙してしまうくらいである。

警官の敬礼シーンに心揺さぶられる

縦社会の閉塞感を破ってくれることが、2021年の夏の視聴者の気持ちを救ってくれたのだとおもう。

3話立て籠もり事件のとき、菜々緒の演じる蔵前看護師は身を挺して警察官の命を守る。

さいご、その行為に対して、警官一同は整列し、看護師に敬礼をする。

心動かされるシーンであった。

無言で職務に就く人間の懸命の姿を描き、彼らが縦の命令を超え「命を救う」ことに動き出す姿を見て、われわれは何か救われた気分になる。

「自分の命を優先させたら、レスキューじゃないんだよ!」

第9話では、危機管理対策室の駒場室長が、嫌みな官僚に向かって声を荒らげるシーンがあった。

命を守る酸素ボンベが1つしかなく、現場には三人の人間がいるのだから、もう死んでるんじゃないか、といわれて駒場は叫ぶ。

「要救助者より、自分の命を優先させたら、レスキューじゃないんだよっ!!」

音声を通じて、現場の人間もみな立ち尽くして聞いている。

「本物のレスキューは自分の命を犠牲にしてでも誰かを助ける覚悟を持っています。あの二人は似たもの同士なんです、絶対に最後の最後まで諦めず、要救助者のことを救おうとしているはずだ!」

みんな黙って聞いている。

同意し、心動かされ、でも黙っている。

黙ってきいているシーンが何度も描かれ、それはこのドラマの芯にあった。

英雄を描いたドラマが必要なわけ

自分の命を優先させたら、レスキューじゃないんだよ、というのは理想だろう。

本来の現場ではなかなかそうはいかないというのは、想像すればわかる。

アフガニスタンに向かった自衛隊は、空港でのテロがあったあと、救助の任務を果たせないまま別の国へ避難した。

おそらく現実はそういうものである。

だからこそ、こういう「英雄」を描いたドラマが必要なのだ。

自らの命を省みないレスキュー隊員と医師が固まって現場に飛び込んでいく、というのはおそらく実際にはなかなかできないことだとはおもう。

でも、その気になれば、われわれは可能なはずなのだ。

安全な場所から批判ばかりするあなたたちに 彼らを笑う資格なんかない

最終話で、賀来賢人の演じる音羽医師(医系の官僚)はこう叫ぶ。

「彼らはヒーローなんかじゃありません。単なる医療従事者です。

ただ、目の前の命を救いたいという気持ちだけで行動しています」

「いまの日本に必要なのは誰かのために全力でがんばることができる彼らのような存在です。

そして、それを支援する周囲の協力です。

ああだこうだと理屈をつけて、安全な場所から批判ばかりするあなたたちに、彼らを笑う資格なんかないっ!」

ここにこの「地味な英雄ドラマ」のすべてが込められているとおもう。

このドラマを半笑いで見るのは簡単である。

でもこのメッセージをストレートに受け取ることもできる。

閉塞した縦社会を打ち破るのは、行動を伴った熱いメッセージなのだ。

人間は、ときに英雄的行動を取る力を持っている。

それを見せることは、がんばって日々を過ごしている人たちにときに必要なのだろう。

見ていると、しっかりと前に向いて踏み出さないといけないとおもわされた。

人を励ます力強く、ストレートなドラマであった。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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