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『ドラゴン桜』2021年版はなぜ2005年版を凌駕する人気となったのか ポイントは君子豹変

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:アフロ)

16年たって作られた続編

『ドラゴン桜』第一シリーズは2005年に放送され、それから16年経った2021年に第二シリーズが放送された。

第一シリーズよりもはるかに第二シリーズのほうが話題になった。

続編が成功したドラマである。

なにが変わったのか。

(以下、ドラマ内容をネタバレしています)。

ドラマストーリーの芯は変わっていない。

「もと暴走族の弁護士(阿部寛)」が偏差値30台の高校へ乗り込んで「東大へ進学する特別クラス」を立ち上げ、そこで特訓した生徒を東大に送り込む。

それによって高校を変える。

入試の合格発表が最終話にあって、何人かが合格して、主人公は去っていく。

そういう物語であるのはどちらも同じである。

高校の描かれ方に変化

大きく変わったのは、学校を取り巻く状況である。

2005年版の高校は、生徒数が減り、倒産の危機にあった。その再建策として「東大合格者を出す」という方針が打ち出される。

2021年版の高校も、生徒数が減り経営難に陥っているのは同じである。ただ、あまりそのことが継続的に問題として取り上げられない。それはやがて「学園そのものを売却する」という計画があったため、とわかる。

その「学園売却問題」が2021年版の大きなポイントになる。

学園経営につながる理事長の態度もまったく違っていた。

2005年版の理事長を演じていたのは野際陽子で、彼女は学園経営の素人で(先代である夫の死によって継がされて、いつもそのことを嘆いていた)だから優柔不断で、確固たる教育理念もなく、誰かに強く言われと流されていた。

彼女は「東大進学の敵」ではなかった。その態度は一貫していた。

2021年版の理事長(江口のり子)は東大卒で「個性を尊重した自由な校風」を絶対と考えている。強い信念をもって学園経営をしており、東大進学コースを作ることには強く反対していた。

明確な「東大進学の敵」である。

そしてその「敵」は、東大クラスの生徒が良い方向に変わっていくさまを見て、態度を変えていく。

最後は、完全に主人公たち東大クラスの味方になっていた。

彼女は立場を逆転させた。それが2021年世界である。

豹変するのが2021年世界の特徴

2005年版と違っていたのはこである。

重大な人物がポジションが変える、という部分。

豹変する。

最初が敵だとおもっていた学園の人間が、途中から味方になる。

味方だとおもっていた人間が、敵側の人間だったのもわかる。

立場が逆転した。

ドラマは「東大受験」の物語とは別に、学園売却計画が進行している。主人公たちは知らずにそれに利用されていた。

学園存続派と、学園売却派に分かれ、どんでん返しにつぐどんでん返しで、そこもまたみどころになっていた。

なぜ『ドラゴン桜』が逆転劇として作り直されたのか

2005年の『ドラゴン桜』は金曜10時からの金曜ドラマ枠で放送されていた。

2021年は日曜9時の日曜劇場枠で放送された。

日曜劇場は、いまは「逆転ドラマ」が主流となっている。

主人公たちが、不当におとしめられた位置から、やがて本来のポジションに戻る物語が作られ、とても人気である。

日曜劇場枠になったから、『ドラゴン桜』も強く「逆転ドラマ」を打ち出した、ということはあるのだろう。

でもそれは、この枠で放送したから、本来の姿を変えられたということは意味しない。

もともと『ドラゴン桜』は逆転のドラマであり、それにより逆転要素を増やすために、学園売却を付したということだとおもわれる。

そしてまた、それはドラマ制作者の意図というより「いまはそういう内容が支持されるから」という理由だと考えられる。

つまり、見ている者がそういう「すかっとする逆転」を強く求めているからだ。

実際に、2005年版より「逆転要素」を増やした2021年版のほうが、人気が高い。

2005年と2016年の「人間関係」の大きな違い

16年のあいだを隔てた二作をみて、基本トーンの違いとして感じるのは「人間関係の濃さ」である。

2005年版は、人間関係が妙に近い。

たとえば東大クラスに入る理由が「友人が入ったから」「彼氏が入ったから」であったりする。もちろんそれはそれでリアルだとおもうが、何だか人間関係がいまと比べると濃い。

2005年版10話(最終話前)では水野(長澤まさみ)の母が倒れて、家業の飲み屋を開けなくなったとき、仲間全員が無休で仕事を手伝った。無理がかさなり、みんな途中でやめることになり、そのときのやりとりがけっこう刺さるものだったけれど、その「仲間が困っているからみんなで助けよう」という動きが自然で、そのあたりが、いまみると新鮮である。

この「濃いめの人間関係」のもとには井野先生(長谷川京子)がいた。

彼女は「進学化には反対」しており、生徒を大切にした教育を目標にしているが、いろいろあって東大クラスをずっと手伝わされる。

彼女はいつも感情で動いてしまう。ある意味、2005年世界を代表する存在である。

井野先生がウエットであり、それぞれの生徒の関係もかなりウエットである。

他人の悩みを一緒に抱えて悩む、というスタイルがまだ続いていた時代なのだ。

2005年に比べてドライな2021年

2021年世界はそれに比べるとドライである。

実際にそれが2005年と2021年の違いなのだろう。

われわれは気づかないうちに、ずいぶんと乾いて切り離された世界にやってきているようなのだ。

2005年世界ではまだスマホは存在していない。

携帯電話はみんな持っているが、SNSはない。

だからあらゆる個人が発信したいことを全方向に発信する時代ではないし、発信する持ち合わせがないのに「発信しなけりゃいけない」という強迫観念から無理やり発信を続けて世界を軽く混乱させそのうえ自分を追い込む、ということも起こっていない。

そのエリアにおいては世界は平和だった。(まあ、2005年は2005年で違う分野で大変だったのではあるが)

スマホでつながっていればリアルにつながっていなくても大丈夫

2021年世界は、スマホが人の心を制している。

ときに東大進学のための勉強も、スマホを使う。

スマホ上でさえつながっていれば、日常ではリアルにあまりつながらなくても大丈夫である。みんなそう信じて生きている。

いまの若者は、日ごろ付き合っている友だちの「個人情報」を驚くほど把握していない。友人から個人情報に関すること聞くことは、大変失礼なことだとおもっているからだ。

隣家とかでもないかぎり、どこに住んでるかあまり把握していない。

子供たちが自分で望んでそうしているわけではない。

「社会のルール」がそうなっているから(子供たちから見て社会がそういう要請を出していると感じるから)、それに従っているまである。

子供の気分は社会の気分の反映でしかない。

2005年は『電車男』の時代であった

2005年『ドラゴン桜』は夏のドラマだったが、このクールでもっとも人気が高かったドラマは『電車男』である。(主演は伊藤淳史と伊東美咲)。

とても懐かしい。

『電車男』は、インターネットが広がることによって世界は良くなるんではないか、と信じるていたころの牧歌的な気分によって受けた作品である(「2ちゃんねる」上で「電車男」の実際のやりとりがあったのは前年の2004年)。

そのときの期待とはうらはらに、インターネットが広がることによって世界が全面的に良くなったわけではない。

格段に良くなった面もあるが、弊害もある。

便利にはなったが、煩雑にもなった。

2005年版は、その決定的に変わる以前の世界の作品だった。

だからウエットに感じるのは当然である。

2005年は『ごくせん』の年でもあった

ちなみに2005年でもっともよく見られたドラマは『ごくせん(第二シリーズ)』である。(亀梨和也、小池徹平らが生徒のシリーズ)。

この年のドラマのトップであり、学園ドラマでもある『ごくせん』が1月開始、『ドラゴン桜』は7月開始ドラマである。

2005年『ドラゴン桜』の「その他の教師」の行動がかなり子供じみていて喜劇的なのはおそらく『ごくせん』(など)に流れる昔からの類型的な教師像がもとになっているとおもわれる。

歓迎会を企画して誘っておきながら、全教師が突然、都合がわるくなってそこへ出向かないというような子供じみた行動をするのは、ドラマの必要性からではなく、「みなさんにおなじみのおっちょこちょいで軽い教師たち」を見せて、安心させるためだったとおもわれる。

2005年ドラマには、まだちょっとまだ昭和の匂いが残っている。冗談ひとつにしてもなんか関係が濃い。

2005年と2021年で変わらないこと

ただ『ドラゴン桜』では16年間変わっていないことも描かれている。

英作文は簡単な文章で書いたほうがいい。数学は詰め込みで「暗黙知」を獲得することが大事である。国語は基本問題が多い古文漢文から解いたほうがいい。最初の東大模試で「E判定」をくらっても、あわてることはない。

そういう「知」に関わる風景は変わっておらず、それはそれで安心する。

「友情・努力・勝利」の物語である『ドラゴン桜』

『ドラゴン桜』のテーマにあるのは「友情・努力・勝利」である。

少年漫画の三大原則として有名なこの三つのテーマをきちんと描いている。

本来「受験」は、努力と勝利だけだと考えられがちである。

べつだん「友情」は必要ない。

そうおもわれがちである。

ところが『ドラゴン桜』のテーマには大きく「友情」が入り込んでくる。

実際に桜木(阿部寛)もそれを強調する。

実用的な面で言えば、東大の試験会場に仲間と一緒にいるだけで精神面で有利だと説く。

そして、人のことを考えないやつは東大に受からない、と言い切る。

大人から見ると、つまりかなり遠回りな考えかただけど、それは真理であるとわかる。はたして子供に届くのかどうかはむずかしいけれど、生き方は日常の態度につながり、やがて勉強法に反映される。受験の先から社会に出る部分まで考えると、ほんとうに受験のときからその態度で生きることが大事だというのは、大人ならわかる。

2021年ドラマは、だからドライな世界だからこそ、「人と積極的に関わっていくこと」を大きくテーマに掲げている。

2005年と比べて2021年世界にそういう度合いが薄くなったからではないか。

「人のことを考えない自分勝手な受験生」がどちらも登場するが、でも2021年版のほうがそれを悪として、より徹底的に叩いていく。

それはおそらく「自分勝手な受験生」がここ16年でリアルに増えてたからではないだろうか。

だからこそドラマでは、絵空事と感じられても、「人を大事にする受験生」の姿を描いたのだろう。

そこに感動を付与することによって人により強く届け、という願いがあるようにおもう。

仲間が集まるまでに手間をかけた2021年版

『ドラゴン桜』の東大クラスは少数で、仲間意識が強くなるのがわかる。このクラスでは話したことのないクラスメイトは存在しないだろう。だから友情が強い力になる。

とくに2021年版の最終話、「友だちを守るために戦う姿」を見せる「もともと自分のことしか考えてなかった受験生」の姿には、心動かされる。

彼は7人目の(実質最後の)東大進学クラスに入った藤井くん(鈴鹿央士)である。

彼がクラスに入ったのは6話の最後だった。全10話ドラマの半分を超えて、それから仲間になった。

2005年版、最後の生徒(中尾明慶が演じる奥野くん)が入ったのは5話である。

2005年は全11話なので、2020年のほうとは「仲間が全員そろうまで」にけっこう差がある。

それが2021年と2005年の違いである。

2021年は、「仲間がそろうまで」が大きな見どころになっており、それはまた2021年世界がむかしより「個が分断された世界」であることを示しているのだろう。

合格発表シーンの時間の差にみる「分断」

「分断」は、合格発表のシーンでも見られる。

どちらも最終話でみんな合格発表を見に行く。

(ちなみに2021年はインターネットでも確認できるようになっていた。2005年にインターネットでの発表はない)

2005年の最終話は9月16日の放送で、15分拡大放送だった。

当時録画したVHSビデオを引っ張り出して確認したところ、合格発表会場シーンが始まるのが10時42分48秒、110秒のCMを挟んで(仲間由紀恵の映画『SINOBI』のコマーシャルが印象的である)、5人の合否がわかるのが10時50分12秒だった。(口に出して3勝2敗と言ったのは10時51分08秒)。

判明まで7分24秒である(CM時間を含む)。

2021年の放送は会場に着いたのが9時24分18秒。1人ずつたっぷり時間をとって、120秒のCMが2本入って、最後の合否がわかったのが9時37分06秒だった。

12分と48秒である。

かなりの時間を取っている。

そのぶん、一人ずつをしっかり映し出している。

不合格者もきちんと1人ずつ不合格を確認するシーンがあり、2005年のときのように「まとめて不合格」というあつかいではない。

そのへんが細やかである。1人ずつを大事にする世界になっている。

それはまた一人ひとりが分断されていることを暗示しているし、だからこそそれをつなぐドラマでもあったということだ。

2021年版のテーマは「君子は豹変する」でもあった

2021年版の大きな特徴は「変化」にあった。

2005年版では「東大を受ける弟」という存在は最後までイヤなやつのままだった。

でも2021年は最初はイヤなやつでも最後には味方に変わっていた。

そして最初は味方かもしれないという登場だったが、じつは敵だったとわかった「もと教え子」が最後の最後に逆転して、ふたたび味方となるという痛快な展開がある。

「人は変われるのだ」ということを強く訴えていた。

そのもともとの『ドラゴン桜』が持っていたテーマがたまたま、逆転ドラマに合致したまでである。

だからもっとも心に残ったのは、仲間のために自分を捨てて戦う受験生の姿だった。

「君子は豹変する」ということがテーマであった。

ないしは「過ちては改むるに憚ることなかれ」という教えでもある。

受験生だけではなく、まわりの大人もまた「過ちては改むるに憚ることなかれ」(間違っていたら改心しよう)という教えのとおりだったところが、深く感動につながっていた。

日曜劇場枠の「逆転の構造」をなぞったドラマではない。逆に、その構造を利用して、独自の主張を展開したドラマだった。べつだん「半沢直樹」と登場人物がかぶっていようと、主張はちがっていた。そこまで見届けたほうがいい。

いろんな部分で(ガッキーの登場までふくめて)見てる人を、どんどんアゲアゲにしてくれるドラマでもあった。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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