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ドラマ『24 JAPAN』に見る日本とアメリカの絶望的な差異 日本版に決定的に存在しなかったもの

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:Splash/AFLO)

日本版の『24』と本家アメリカ版『24』を同時に見較べる

唐沢寿明主演の『24 JAPAN』は半年にわたり24回放送された。

アメリカの2001年のドラマ『24 -TWENTY FOUR-』のリメイクである。

20年前の海外の作品を、舞台を現代日本に移し替えて、かなり原話に忠実に再現したドラマだった。

ただ日本版『24 JAPAN』が始まった当初、かなり拍子抜けした。

十数年前、このシリーズが日本でも放送されたとき、展開の早さに驚き、次がどうなるのかとても楽しみに見続けた記憶が強かったのに、日本版は当時とはかけ離れた緊張感しか抱けず、ずいぶん違う作品を見ている気がしてしまったのだ。

2話まで見たところであまりに緊張感が高まらないので、アメリカ版ドラマ原話のDVDをレンタルしてきて、二台のモニターで同時に再生しながら見ることにした。

3話以降、金曜夜になるとアメリカ版を少し先に流しながら、同時に放送される日本版も見ていた。同じ話だから、そうやっても何とか見ていられる。

アメリカ版での異様な緊張と、日本版でのそこまで緊張がないバージョンとを同時に見続けて、24週すべて見終わった。

そうやって見ると、日本とアメリカの違いがよくわかる。

忠実な再現だった日本版『24』はなぜ緊張に欠けたのか

最初、アメリカ版を日本ふうにアレンジして直したので、緊張が薄れたのかとおもっていたが、そうではなかった。

日本版はもとの話をかなり忠実に再現している。

いろんなアメリカふうの設定は翻案してあるが、事件の展開やその追跡、登場してくる人物は、ほぼ、同じである。セリフも(アメリカ版『24』の吹き替えと)かなり同じである。

かえって、ここまでもとの作品を忠実に再現していると窮屈だろうなと(たとえば役者はその役を自分なりに深めることは制限されるだろうから窮屈だろうなと)おもうくらいだった。

でも、緊張感がおそろしく違う。

アメリカ版だと、いつ誰が殺されてもおかしくない緊張に包まれている。日本版も同じ緊張に包まれているはずで、実際に簡単に人がどんどん殺されていくのだが、なんだか画面と役者からその緊張感が伝わってこない。

アメリカと日本における「暴力と緊張」の決定的な差

途中から気がついた。

これはドラマの作り方の差ではなく、国のシステムの根本的な差異なのではないか。

あっさりいえばアメリカは緊張した国だし、日本はそれに比べると緊張した国ではない、ということになる。だから如実に差がでたのではないだろうか。

もっと突き詰めて言うなら「暴力性」の差である。

アメリカ社会は常に暴力を内包していて、それとの日常的な折り合いで社会が運営されている。

日本社会では、暴力は、目に見えるところには存在しない。日本の暴力は、かなり深く、わかりにくく埋め込まれている。

その差がドラマに表れたのではないか。

日本社会に出現する「銃」の違和感

暴力の違いが如実に出るのはまず「銃」である。

唐沢寿明の演じる主人公は「テロ対策ユニット・CTU」という特殊な部署に所属している。銃撃戦に慣れている特殊任務の人物である。ところかまわず国内でも発砲するし、敵をどんどん殺していく。そのあたりは「特殊な捜査官」が活躍する「荒唐無稽なフィクション」として、何となく見ていられる。

ただ、日本らしい風景のなかに銃が出てくると、違和感がある。

たとえば4話では、警邏中の警官二人がCTUの捜査に巻き込まれて銃撃戦に加わり、一人の女性警官が射殺されるというシーンがあった。

いつも街中で見かけるあのお馴染みの制服の警官が、パトロール中に銃撃戦に加わって死んでしまうのは、かなり強烈に違和感を感じる。

日本のふつうのおまわりさんはあまり銃撃戦に参加しないと、私たちはおもっているのだ。そこはアメリカと決定的に違う。そう気づかされる。

銃のトリガーに指をかけてためらう「日本ふうの描写」

また、銃の扱いについて印象的なシーンがあった。

日本版では、銃を持ったとき、引き金に指をかけ、その指を微妙に動かすが撃たないという「ためらい」が見られた。

これは日本独特の描写だ。

アメリカにはそういうためらいのシーンはない。トリガーに指をかけ、「少しだけ指を動かすが」撃たないという行為じたいが、アメリカ国には存在しないのではないか。銃を手にしたアメリカ人はそんなことをしないのではないか。

撃つのか撃たないのか、もっとはっきりしているように見える。

「引き金を引こうとして徐々に指を動かすが撃たない」というのは、時代劇からの流れにある奇妙な日本ふう描写なのかもしれない。

アメリカ西部の「乾いた風景」と日本の湿潤な森の差異

また主人公の妻子(日本版では木村多江と桜田ひより)が敵に拉致され、森の中で銃殺されてしまうかもというシーンでは、アメリカ版ではその映像が安っぽいフィルムで撮ったように見えて、その荒っぽさがさらに恐怖心を煽っていた。このまま野外で簡単に頭を撃たれて死ぬんではないかと、映像から想像してしまう。

アメリカ西部の乾いた風景が、荒んだ心情を反映していたとおもう。

日本版の場合、森の緑が深い。

アメリカ版の砂漠を感じさせる乾燥したエリアと違い、日本の森林はかなり湿気に満ちていて、無情さを感じにくい。潤湿さを感じるだけで、醸し出す雰囲気がちがう。

森林の風景そのものが日米ではまったく違うのだ。

妻子はこのときは無事助け出されてヘリコプターで運ばれるのだが、アメリカ版を見ているとベトナム戦争での敵地からの回収のように見えて、移動もまた緊張に包まれていた。日本版では「被災民の救助」のように見えてしまう。毛布にくるまれ運ばれる母娘はヘリにさえ乗り込めばもう安心という気配に満ちていて、それはそれでいいのだが、でもアメリカ版とはずいぶん違う。

日本版は、いろんな部分で映像がやさしいのである。

尖っていない。

大統領候補と総理大臣候補の決定的な違い

もうひとつ日米の大きな違いは「国のトップを選ぶ選挙」風景である。

アメリカ版では「アメリカ史上初の黒人大統領候補・デイビッド・パーマー上院議員」がカリフォルニア州の予備選挙を勝ち抜き、有力な大統領候補として登場してくる。

そして彼の暗殺計画が明らかになってくる。

アメリカ版が作られたのは2001年なので、バラク・オバマが大統領に当選する7年前である。まだアフリカ系アメリカ人が大統領になったことのない時点でのドラマだった。

日本版でそれに対応するのが「日本史上初の女性首相候補・朝倉麗(うらら)」である。

事件当日は「総選挙の投票日」で、彼女が党首である野党・民生党が総選挙で勝ちそうになっている。選挙で第一党になって、国会で総理大臣に指名されるはずだ、という設定である。2009年夏の総選挙のようなものだ。

アメリカ大統領にまとわりつく圧倒的な暴力性

アメリカの大統領と、日本の総理大臣は、かなり立場が違う。

個人に任される裁量が違う。政治システムそのものが違うから、そのトップに立つもののもつ権力の大きさが違ってくる。

ドラマ『24』を見ていてあらためて、アメリカ大統領個人に集中される「権力」がすさまじく大きいものだと実感させられる。個人に集中する大きな権力は、また同時に強大な暴力を引き寄せてくる。

加えて白人ではない人物がアメリカ大統領になろうとするという状況は、強く暴力を呼び起こすのではないか、そういう示唆も見えてくる。

大統領予備選で勝ち有力な大統領候補となるということは、同時に、暗殺対象にもなるということを意味しているのだ。おそらく一人の人間に権力が集まりつつあるときこそ、とても危険な瞬間なのだろう。

アメリカでは「大統領」という存在そのものが暴力的なのである。

アメリカという国は常にいろんな場面で「暴力性」を帯びており、それを隠さず、広く開示している国なのだな、とわかる。

日本の総理大臣に感じられない暴力性

日本の総理大臣にはそういう「暴力性」は薄い。

総理が、個人的に独裁的権力を発揮しようとしても、いくつかのシステムに阻害されて、うまくいかないだろう。天皇によってその地位を任命されるというシステムを取っている限り、その「権力の持つ暴力性」は分散される。それは征夷大将軍に任命された者が政治の実権を握っていたむかしから何も変わっていない「日本システム」である。

アメリカの大統領と、日本の総理大臣は、集中している権力の強さが違い、巻き込んでくる暴力の度合いが違う。

暗殺対象としてはアメリカ大統領というのはかなりリアルだけれど、日本の総理大臣というのは現実味が薄い。

つまり、アメリカでは大統領(候補)を暗殺すれば大きく世界は変わると予想されるが、日本では総理(候補)を暗殺しても、似たような人物が据え替えられるだけで、さほど事態は変わらないのではないかと捉えられている。そういう差がある。

暗殺者の本気度が違い、緊張度が違う。

権力周辺の暴力性を描くことがドラマ『24』のテーマのひとつなので、舞台がアメリカから日本に移ってしまうと、映像から暴力的緊張が薄れてしまうのは、しかたないことなのだ。

日本の役者たちに迫力が欠ける理由

俳優たちの迫力も、日本版は、やさしくなってしまっていた。

唐沢寿明は、あまねく暴力的な正義をきちんと演じていたのでよかったが、日本版の多くの役者は、アメリカ版に比べて迫力が弱くなっていた。唯一の例外はチーフ役の栗山千明で、最終話の彼女のモニター越しの表情は、般若のごとく見えて、原作を超えた迫力があった。

「権力を奪取しようとするチーム」の個々人が抱いている「邪悪な暴力性」と、「テロ対策本部」で働く人たちが保持する「他者へのリアルな暴力」が、やはり日本版ではひとまわり弱くなってくる。

日本版はいろんな部分が柔らかくなっていた。

そして、見てるぶんには、この日本版は日本版で、別のおもしろさを感じさせてくれたのである。

日本版『24』の続編をとても見てみたい

物語の最後は、アメリカ版と同じく、後味が悪いうえに、どう見てもここで物語は終わっていない、というものだった。

日本版のラストはオリジナルと紹介している記事も見かけたが、細かい部分では少し違っていたけれど、でも基本テイストとしては、ほぼ原話どおりである。

だからどう見ても、ここで終わっていない。

テレビ朝日にシーズン2を作る体力があるのかどうかわからないが、もし可能なら、とても見てみたい。

このドラマでは、アメリカ版をかなり忠実に再現しているのに、どうしても埋められない「日米の差」が感じられ、これはこれで見ていてとても楽しいからだ。アメリカでの暴力性は、日本に移されるとこうなってしまうのか、という部分でいくつも意外な発見があった。

日本版は熱が上がるのに時間がかかったが、後半はきっちりとスリリングな展開になっていた。時間がかかるがおもしろくなる、というポイントも日本らしくてなかなか興味深い。

アメリカなんかじゃなくて、日本で暮らしていてよかったと、感じることもできるドラマでもあった。

続編もぜひ、見てみたい。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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