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「人志松本のすべらない話」 オチのない話をした三谷幸喜がMVSを受けた深い理由

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:アフロ)

「人志松本のすべらない話」のもつ人類の娯楽の原始な姿

「人志松本のすべらない話」が1月23日、一年ぶりに放送された。

2019年は2回放送があったが、2020年は1回だけだったので、一年ぶりとなった。

13人の話者が「笑える」話を聞かせてくれた。

これは「笑い」の根源に近い番組だと、個人的にはおもっている。

仲間が集まって、自分の見聞きしたおもしろい話を聞かせる。

みんなで順番に語り合うこともあれば、話のうまいやつが一手に引き受けて、みんなが聞き役にまわることがある。

おそらく人類の「娯楽」のもっとも原初的な形だとおもう。

穴居人だった昔から、つまり何万年か前から、この手のお楽しみはおこなわれていただろう。何の道具も準備も必要ない。話す人がいて、聞く人がいれば、成り立つ娯楽である。

この手の話でもっとも大事なのは「何度聞いても楽しい」というところだろう。

聞いてくれる人がいれば、何度でも同じ話をする。

繰り返し話され、話者によって内容も変わる。語り伝えられていく。

その流れから神話が生まれ、物語が始まり、小説が生まれ、映画が起こり、テレビドラマがあり、「落語」が続き、「人志松本のすべらない話」がある。

「落語」や「すべらない話」は、かなりその根源に近い形を維持しているとおもう。

話者が一人いて、聞き手がいれば、それで成り立つからだ。

いま急に人類がみんな穴居での生活に戻ることになっても、そのままで展開できる「お楽しみ」である。電気も紙もいらない。

だから「人志松本のすべらない話」は、人類の原初の娯楽につながっている、と一人おもって、楽しみに見ている。

「オチのある話」にも種類がある

「すべらない話」ではサイコロを振って、ランダムに話をする。

内容はすべらない話であればよく、つまりおもしろければ何だってかまわない。いちおう実話となっているが、自分が見聞した話、という意味である。

創作したものではないということだ。

おもしろい話には、いくつかのパターンがある。

おもしろい話は、だいたい「オチ」がある。

ただ、「オチ」には「そのオチがないとその話そのものが成り立たない」というものと「そのオチがなくても実は成り立つ話」がある。

「人志松本のすべらない話」2021でもそのふたつがうまく組み合わされて話されていた。これはべつだん事前に打ち合わせしたものではなく、「話術のプロ」が集まって話しているから、自然とその形になっていったばかりだとおもわれる。

(「人志松本のすべらない話」2021、というのは1月時点のいまの仮称である。今年また放送があるなら2021第一回となるが、とりあえずここではその仮称を使用する)。

具体的に振り返ってみる。

以下、「人志松本のすべらない話」2021で話された内容について触れる。ある種のネタバレなので「未見で初見を楽しみにしている人」は気をつけてください。

ただ、この番組のひとつのコンセプトは、何度聞いても笑える話を紹介する、というところにあるので、ここで紹介したくらいでそのあと見ておもしろさが減じるものではないとおもう。これを読んでから見てもぜったいに笑えるとはおもうが、いちおう「ネタバレしている」と断っておきます。

切れ味のいいオチの利いた話に見る松本人志のホストとしての力

「人志松本のすべらない話」2021で、わかりやすいオチのある話を担当していたのはホストの松本人志である。

冒頭、自分から始めると言い出して「ソニーお笑いコンテスト」について語っていた。

知らない若手ばかり出ている漫才コンテストで、賞をあげることになったが、おもっていたのと違うコンビにあげてしまった、という話である。

途中から結末が予想できるタイプの話だけれど、聞くと最後は手を叩いて笑ってしまった。それこそ「お話の力」であり、話者の力だろう。きれいなオチのある短い話である。

松本人志がもう1本喋ったのは「おぼん・こぼん師匠」の話で、仲の悪いこのコンビの衣装の話で、これも何となく展開が予想できて、その予想できることがおもしろく、そのとおりの結末にいたって笑える、とても楽しいネタである。

千原ジュニアもまた「ホストとして腕前」を見せる話を披露

この番組では千原ジュニアもホスト役にある。最初に進行の説明などをしていて、松本の補佐という立場だろう。

彼の1本目は「マネージャーのマリオ」の話、2本目は「上方漫才コンテストでの西川きよし」の話だった。

「マネージャーのマリオ」は、彼担当のマネージャーの奇妙な行動に関する話で、入れ子構造になっていた。現場で、消毒用に「アルコールを持ってこい」と言われたADが氷結を持ってきたという話があって、それをマネージャーのマリオに話したら、理解できず予想を超える反応をしてきたという二重の笑い話になっている。

このへんの話法は見事である。

もう1本は、漫才の審査をしているとき「席を離れてください」と演者が連呼したので審査員の西川きよし師匠が本当に席を離れようとしたという話である。

どちらも短くてきちんとオチがある。

切れ味よくて、でも短い。すとんと落ちて笑える。そういう話である。

これはまた、ホスト役として、切れ味はいいけれどあとを引く話はしない、という千原ジュニアの心構えを垣間見るようであった。

宮川大輔の話に二百年続くお笑いの伝統を見る

宮川大輔も軽い話を2つ披露していた。

どちらも家で家族と食事しているときの父の話で、すき焼きで糸コンニャクを落としてしまった話と、七味が眼に入って一味が残ったという話。

わりと小ぶりな話だったが、「短くてオチがある」という型を守っている。本人もちょっと笑いが弱いというのは意識していたみたいだが、彼もまた短くてオチのあるものを意識していたように見えた。

「きれいなオチがあって、切れ味のよい終わり方をする話」というのは、小ぶりのものが多いのだ。むかしからそうである。

だから「すべらない話」でもホスト側は、場を軽く進めるため、切れ味はいいけれど短い話を紹介していたようにおもう。

この三人がそうである。

それはまた、二百年以上つづく「落語」の世界に通じるものである。

落語でもオチできれいに話全体がひっくり返る話は、ほぼ小話であり、軽いものが多い。

人気の高い大ネタは、話の展開そのものとオチが連携しているわけではない。「とってつけたようなオチ」が、伝統的な落語の主流にある。

それは2021年の「すべらない話」でも同じように扱われていて、「続けさまに笑い話を聞く会」の構成はおそらく何百年も変わっていないのだろうと、あらためておもった。

ただひたすらラッパー世界の裏話がおもしろい「R-指定」

対照的に、長くておもしろい話をしたのは、ラッパーのR-指定や、ピアニストの清塚信也である。

松本人志の「おぼん・こぼん師匠」や千原ジュニアの「西川きよし師匠」の話が1分そこそこの短さだったのにくらべ、R-指定の「ラッパーたちの“韻”対決」は9分、清塚信也の「紅白歌合戦で1秒縮める話」は10分の長尺だった。

どちらの話にもオチはついているが、おもしろかったのはそのオチそのものではなく、それまでに披露してくれたそれぞれの裏話のほうである。

R-指定はラッパーの先輩であるZeebra(ジブラ)、ERONE(エローン)と集まったとき“韻”をどんどん放り込む会話になったという話を紹介して、この業界裏話がとてもおもしろい。すごい世界だなとみんなが感心するのが前振りになり、オチは「酔っ払ったときのZeebraさんの韻はかなり雑」というものだった。

オチを聞いて大きく笑って話は終わる。

ただ、あとあとまで強く印象に残るのは、前振りだった「プロのラッパーたちの韻を踏む対決的な会話」の話で、すごい世界だな、とあらためて反芻するおもしろさがある。

紅白歌合戦で「ダメ・ぜったい」と言われた清塚信也の見事な話法

それはピアニスト清塚信也の「紅白歌合戦」の話も同じであった。

おととし2019年大晦日の紅白歌合戦で、彼が島津亜矢が歌う「糸」の伴奏を担当したときの話である。

島津亜矢がどうしてもサビの部分をもうすこしゆっくり歌いたいと懇願するので、1秒だけ伸ばせないかとNHK側と交渉するが、やはり「1秒伸ばすという変更はダメ、ぜったい」と却下された、という話が衝撃である。

NHKが進行に関して厳しいという話は漏れ聞くが「1秒伸ばしはダメ、ぜったい」とまで言われるというのは驚きだし、しかし島津亜矢&清塚信也コンビは工夫に工夫をかさねてその1秒をなんとか自分たちで生み出して歌いきったという話が展開して、これがとても楽しい。

この話のオチは、演奏後に友人からのラインで「ずっとカメラ目線で変なピアニストに見えた」というものだが、これはこれで緊張から解放されるオチとして、とても秀逸であった。聞き終わって声を出して笑ってしまった。

この話のおもしろさも、オチではなくその手前にあった。

「一秒伸ばしはダメ、ぜったい」というのがこの話の核にあって、もし知らない他人にこの話をするときは(伝聞として伝えるときは)、やはりここを強調するとおもう。(雑な伝聞をやる人だったらそこしか伝えないかもしれない)。

オチは、緊張していた話が終わったというサインとしてとても有効に利いていた。

話法として、きれいである。

もっともすべらない話に選ばれた三谷幸喜の話にはオチがなかった

そして「人志松本のすべらない話」2021で、MVS(モスト・バリアブル・すべらない話)を受賞したのは、脚本家の三谷幸喜であった。

R-指定と清塚信也と、彼がこの日のゲストである。

やはり他業種の人は、お笑い芸人とは違う話し方をする。それをまたお笑い芸人は全員が察知していて、盛り上げる流れを作りだしていた。

R-指定と清塚信也が10分ほどの長い話を披露したのに対し、三谷幸喜は4分ほどのふつうの長さの話を2つ披露した。

「すべらない話」の平均的な時間はだいたい1話3分から4分である。

3分より早いと短い感じがするし、5分以上は長いしっかりした話という印象を受ける。

その平均的な時間で三谷幸喜は「海水浴での精通」の話と「伊藤俊人の臨終」の話をした。

どっちもいわば「オチのない話」であった。

いちおう最後にはオチらしい部分がついているが、話の展開じたいが最後の言葉でひっくり返るわけではない。簡単にいえばオチのない話である。

オチのない話をして、MVSを取るところが喜劇作家の面目躍如たるところだとおもう。

べつだんクサしているわけではない。皮肉でもない。きちんと評価している。そこは誤解しないでもらいたい。

三谷幸喜が示した喜劇作家らしい「状況」

彼は「すべらない話」でも、喜劇作家らしく「喜劇的な状況」を描写したのだ。

「出来事」ではなく「状況」。

これはこれですごいな、と何回か見直して感心した。

ひとつめは、海水浴のときに精通してしまったが、ひょっとして魚の卵が受精したら奇妙な魚人間ができるのではないかと妄想した、という話である。

おもしろい部分は、事実ではなく、脳内の妄想である。

二本目の「伊藤俊人の臨終」の話も同じだ。

劇団仲間だった伊藤俊人が死んで、枕元に駆けつけた仲間のうち、熱い男・甲本雅裕が死んだ伊藤に向かって「順番が逆じゃろが」と言い続けるので、それは変だろうとまわりのみんながおもっていたという話である。

人が死んだ直後の異様な状況と、立ち会った各人の心理描写が秀逸であって、これはお笑い芸人のトークとはまったく異質である。

まさに作家らしい視点で話が成り立っている。

三谷幸喜が話していたのは「おもしろい出来事」というよりは、「おもしろくなる可能性を秘めた状況」だった。

それを彼が淡々と話すので、その話しぶりとともに、奇妙におもしろく感じてくる。

彼は繰り返し、こういう状況を考えだし、そこに役者を配置することを想像して、いろんな喜劇を書き出すのだろうと、しばし感心していた。

笑いで終えるのが「オチ」の役割ではない

三谷幸喜の話は、おそらくその「異質なおもしろさ」を評価されたのだろう。

「物を書く人の描写力」によってもたらされた笑いであり、それに加えて本人の変な味わいがあり、それらを合わせた奇妙な技術に対して「モスト・バリアブル・すべらない話」が贈られたのだとおもう。

「これはお笑い芸人では、生み出すことができない笑いである」

MVSの授与理由を松本人志が述べるとしたら、そう言ったのではないだろうか。(どこまでも想像です)。

それ以外にもいろいろ笑える話もあった。

かまいたち山内の「お巡りさんのいない安全な島で80のおばあが無謀な運転をしている話」、小籔千豊の「渡部さんと言ってもアンジャッシュの渡部ではない話」、麒麟の川島の「松本さんの髪のカラーが何色にも見えてきれいだった事情」と「博多華丸が高橋克実を怒ってしまった話」などがおもしろかった。

でも、みんなそこそこ軽く話している。

異業種のゲストが出るということもあり、お笑い芸人たちは、彼らの話も受けるように、うまく配慮して話を廻している。

べつだん取り決めとか打ち合わせではなく、お笑い番組はチーム戦であるという意識が作り上げていることである。

番組全体を楽しい番組にすることが最終目標だから、自分ももちろん大きく笑いを取りにいくが、全体のポジションからして自分はどれぐらいの時間と熱をかければいいのかを判断して、役割通りに話す。その目論見が必ずうまくいくわけではないが、そういう見極めのうまい人が番組で繰り返し使われる。

全体で笑いを取りにいくという姿勢がとても大事である。

そしてこれは文化文政のころから、寄席でおこなわれているシステムと同じである。

オチのある話がえらいわけではない

みんなが髷を結っていた時代から「オチがきれいに決まる短い話」と「長くておもしろいがきれいなオチでは終わらない話」があって、両者がうまく組み合われて「お笑いの場」が作られていたのだ。

「最後に話がひっくり返る見事なオチ」がある話がえらいわけではない。落語の現場ではその話はどっちかというと軽い噺である。

簡単にいえば「オチ」とは「最後に笑わせる大きなポイント」のことではないのだ。

そういうときもあるが、本来の役目は「ここで終わったことがわかるサイン」のことである。

「きみの話はオチがない」というのは、笑いのことではなく、話の締め方を注意されていると考えたほうがいいのだとおもう。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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