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『半沢直樹』の人気は「悪」にある。 様式美を高視聴率につなげるその巧みな仕組み

堀井憲一郎コラムニスト
(提供:KIMASA/イメージマート)

ドラマ『半沢直樹』の悪が必ずやる「悪のダメ押し」

ドラマ『半沢直樹』のすばらしさは悪役の造形にある。

わかりやすく、憎たらしい悪役が登場し、それを主人公とその仲間が倒していく。

そこが見ていて気持ちいい。

悪役は何層かに分かれており、小物の悪役がおり、中心的なわかりやすい悪役がいて、最後に背後に隠れた大きな悪がいる。

それを順に倒していく。

悪の憎らしさをきちんと描くところが、このドラマのキモになっている。

隠れて悪事を働いているような悪だけでは、物足りない。それでは『半沢直樹』的な、多くの視聴者に悪だと認識される、いわば「国民的な悪」とはならない。

もともと隠れて悪事を働いていて、半沢チームがそのシッポをつかんで、問い詰めたところで、悪は認めない。

何かの間違いだろう、何てことを言うのだ、と反撃してくる。

人間は、隠しておきたい「真実」を暴かれたとき、絶対に認めようとせずに、ただ怒りだす、という性質がある。そこを底において、憎たらしい悪を描いている。

悪いやつらは、必ず半沢の前で反論し、自分は悪ではないと主張する。

ときに、悪はおまえだと、半沢を糾弾する。半沢直樹は、何度も罠に嵌められそうになる。

悪と対面して、いちど、悪いやつのほうから、「悪いのは、半沢、おまえのほうだ」と言わせるのが決まりである。それがドラマ『半沢直樹』である。

おそらくそれが大事なのだ。

『半沢直樹』が見せる様式美的な「悪」

見てるほうとしては、自分は半沢側にいるとおもっているので(たぶん、現実の与党幹部だって、見てるなら、そういう気分のはずである)悪いやつらが悪態をつくのは、見てる人みんなに向かって罵っていることになる。

ドラマを見てる多くの人(同時に見てる人だけで、日本人の2割以上)が、「悪の開き直ったダメ押し」を見せられ、ここで憤るわけである。ここで憤らないなら、いや、人間じゃないでしょ、という作りになっている。悪のダメ押しである。悪のダメ押しが大事なのだ。

小悪から中悪、大悪まで、みんなこの型を踏む。

この「型を踏む」ところが、いい。

ドラマ『半沢直樹』は、独自の様式を作り、それをきちんと守り、繰り返すことで、圧倒的な人気を得ている。

ある面では古くからの「芝居」の伝統を継いでいるともいえる。

歌舞伎芝居と同じく見ただけでわかる『半沢直樹』の悪

日本の古い芝居の形式である「歌舞伎芝居」の型と似ているのだ。

歌舞伎芝居は、メインの役者が出て来た瞬間に、この人が悪い人か善い人なのか、だいたいわかるようになっている。

白い顔の人が出てくると善で、茶色っぽい顔の人が出てくると悪である。出てきただけでわかる。赤っぽいのも悪の手下だったりする。

色でわかるようにしてある。これで子供だってわかる。だからむかしは、子供でも歌舞伎好きがたくさんいたのだ(落語でお馴染み)。

『半沢直樹』は、歌舞伎芝居を見るくらいに、何も考えずに気楽に見ていられる(歌舞伎を意味とか背景とか気にして見ちゃだめですよ、ただキラキラを見ましょう)。

出てきた瞬間に、悪い人はすぐに「あ、これは悪い人だ」とわかる。そういうふうに作られている。

そして、そんなふうに作られている「現代劇ドラマ」というのは、ほかにはほとんど存在しない。最初いい人だとおもったのに実は悪い人だった、というほうが、いまのドラマではふつうである。

だから「半沢直樹」はかなり反現代的なドラマなのだ。二百年前の人が見てもわかりそうな善と悪を登場させた歌舞伎的なドラマであり、それがいますごく受けているのである。

黒い南野陽子は「悪」で、白い尾上松也は「善」

今回の『半沢直樹』の前半は、IT企業の買収の物語だった。

買収の話を持ってきた電脳雑伎集団という会社の社長と副社長は、土田英生と南野陽子が演じる夫婦だったが、服は黒だった。

いっぽう買収される側のスパイラルという企業の経営者・瀬名(演じるのは歌舞伎役者の尾上松也)はずっと白いTシャツを着ていた。

わかりやすい。

徹頭徹尾、黒い服だった電脳雑伎集団は銀行と組んで半沢たちを窮地に陥れようとしていた「悪いやつ」だったし、白い服の若いIT社長は最後まで半沢の味方の「とてもいい人」である。

黒い服を着た人たちは、昼でも顔半分に影が映るように撮られている。

とてもわかりやすい。

とても様式的である。

だからおもしろい。

暗黒卿のような柄本明のダーク幹事長の凄みと国交大臣の「白いスーツ」

後半にはいって、航空会社の再建物語になったとき、4話の最後に出てきた与党幹事長役の柄本明もすごかった。

薄暗い与党の幹事長席に座って半眼で笑っている顔は、もはや全宇宙を悪の帝国にしようと企んでるかのような凄みがあった。

ほぼシスの暗黒卿である。

つまりスターウォーズのわかりやすい「悪」に匹敵するような凄みを出していたのだ。

幹事長の部屋はいつも薄暗い。わかりやすくダークサイドの人である。

いっぽう彼が国交大臣に抜擢した、元ニュースキャスターだった党の広告塔である白井亜希子(演じるのは江口のりこ)は、この人は徹頭徹尾「白いスーツ」姿だった。悪の幹事長の手先なのだが、彼女はずっと「白」を身につけていた。まあ、白を着ていても、その表情で、「この人は悪の手先だ」とわかるように演じていて、そのへんは江口のりこの実力である。

ここでは「白」は善という意味を持たされていなかった。

ただ、彼女は悪の本質とはつながっていない、ということを暗示していただけである。

半沢の妻(上戸彩)はもともとニュースキャスーだった彼女のファンだというし、どうも心底の悪ではない、ただ利用されてるだけの存在だということを示唆していたようだ。

悪は、暗黒卿の柄本明、彼女が指名したタスクフォースのリーダー(筒井道隆)が、担っていた。

白いスーツは、この時点では彼女は「操り人形」だということを示しているのだろう。

ちょっと意地の悪い演出だともいえるし、日本のある実情を反映してるともいえる。

(この稿を書いたのは最終回より前である。結局、最終回で、彼女は「白いスーツ」どおりのキャラだったというが判明する。このドラマはそこまできちんと様式美に忠実である)。

半沢直樹や、彼の部下は、悪を暴くために夜を徹して資料を探したりするが、そのおり、よく上着を脱いでいる。

つまりシャツ姿になる。シャツ姿は当然、白い。この白いシャツ姿になってる連中は、みんな、半沢側の人間、つまり「善」なのだ。

悪側は、上着を脱ぐことはない。そのへんもたぶん決められたことだったとおもう。

黒でも白でもないトリックスターだった香川照之の大和田

銀行の幹部が集まる会議では、ほぼだいたいみんなダークスーツを着用しており、それは半沢直樹でさえも同じなのだが、ここで一人色違いのスーツを着ているのが、香川照之の演じる大和田である。

これもひとつ象徴的である。

彼は前作(2013年のシリーズ)でも、今回のシリーズでも、やや善悪定かならず、という役どころである。徹底した悪ともいえず、ときに半沢側にもつく。だからといって、半沢のような筋道のとおった正義ともいえない。

つまり、彼はこの物語の「トリックスター」である。

彼がいろんな部分を掻きまわすことによって、いろんな波が立って、物語が大きく動いていく。役職は銀行の重役だからわかりにくいが、トリックスターという「軽めの役どころ」をまかされているのだ。

だから、彼だけがスーツの色が濃くない。

そして、ほぼギャグに近いようなセリフまわし(おしまいデスとか、銀行チンボーツとか)を言ってしまえるのも、そういう役どころだったからだろう。

とても重厚で、重々しいピエロ、だったわけだ。(ピエロとトリックスターはちょっと違うのだけど)

様式美のわかりやすさが人気を押し上げる

舞台芝居で重宝される道化役を、うまく配置しているのも、『半沢直樹』が古来からの物語の様式をうまくとりいているところだといえる。

もちろん『半沢直樹』の人気の根幹は、半沢たちが立ち向かうタスクをどれぐらい精密に作り上げるかというところにあり、その展開がスリリングだというところにある。また、役者たちが異様に力を入れているのが感じられるところも大きいだろう。見ている人にその熱気が画面越しにひしひしと伝わってくる。それが人気のおおもとである。

ただ、そこからさらに国民的な大人気番組まで跳ね上げる部分では「様式美」というのがとても大きいように感じる。

現実に起こることとは違うが、現実を題材にして、みんなに見てもらう「物語」にするためにはそういう「非現実的様式美」がとても大事だということだろう。

そういうことも教えられるドラマである。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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