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朝ドラ『エール』に描かれた「文通で始まる大恋愛」の時代 もう一つの事実

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:アフロ)

熱烈なるファンレターから始まる恋愛があった

朝ドラ『エール』は主人公の古山裕一(窪田正孝)とお相手の関内音(二階堂ふみ)の仲が進展しているところである。

二人の付き合いは、昔の日本らしく、文通から始まった。

女性のほうから一方的に熱烈な手紙を出した。

裕一が新聞に載ったからである。

海外のコンクールに入賞し「福島の無名の青年 権威ある国際コンクール入賞」と大々的に新聞に掲載された。

彼女はそれを遠く離れた地で知り、手紙を出した。

いわゆるファンレターである。それに裕一が返事を書いて付き合いが始まる。

昭和5年あたりのことだ。1930年。いまから90年前になる。

そういう時代だったのだ。

裕一が住んでいるのは福島。

音が住んでいるのは豊橋。

吉田城址が映っていたから、愛知県の豊橋のはずだが、ほとんど愛知県とは言わず、ひたすら豊橋と言っている。愛知の人が愛知県人と呼ばれるのをきらうのは知っているが(尾張と三河を一緒にされるのが嫌らしい)なんか不思議な徹底ぶりで、ちょっと微笑ましい。

21話では裕一は音の家を突然、訪問していた。

昭和5年に福島から豊橋に行くのは、かなり大変だったはずだが、あまり描かれていない。東京から大阪へ行くのに急いで9時間ほどかかった時代だから、たぶん二日がかりだろう。でもそこには触れられず「来ました」と言うばかりだった。恋の力である。

「まだ、文通だけですよね」と森山直太朗の演ずる先生(藤堂先生)は言っていたが、いやしかし、当時、手紙のやりとりだけで付き合う相手を決めることはそこそこふつうにあったはずである。

みんながそうしていたとは言わないが、そのころにはまだ当たり前の風景だっただろう。

文通でも愛は深まるのだ。ほかにもそういう事例がある。

若き天才作家のファンレターからの大恋愛

この時代のことを調べていると、似たような話が見つかる。

ただ『エール』が夢見る乙女向けのやさしい恋愛譚だとすると、私の知っている話は当時の文通恋愛の「陰の部分」になる。

『エール』の古山裕一が世界コンクールに入賞するより少し前、天才と称された若い小説家がいた。

島田清次郎である。

いまはもうあまり知られていない。文学や本好きたちのあいだではそこそこ有名だろうが、ふつうには知られていない。彼の本はもう売られていないからだ。

代表作である『地上〜地に潜むもの〜』さえ手に入りにくい。私が持っているのも1973年復刻の古書で、爾来50年近く、出版されていないはずである。インターネットの青空文庫(著作権の切れた作品を無料で読めるサイト)では見られるが、ほぼ、いま誰も読み返すことのない作家だろう。

1899年(明治32年)に生まれた彼は、1919年(大正8年)二十歳のときに書いたこの小説で有名になった。大ベストセラーとなって、一躍、有名作家の仲間入りをしたのである。続編を次々と発表し、それも売れ続け、文学界の寵児となった。出す本、出す本が売れていったのである。二十代前半で文壇のスターとなっていた。

じつは私は、川端康成の事績を調べていて、彼と、この島田清次郎が同年であることにたまたま気づいたのだ。

ともに1899年生まれ。島田は2月、川端は6月生まれなので学齢は一つ違う。ちなみにアーネスト・ヘミングウエイも同年7月生まれである。それぞれ1954年と1968年にノーベル文学賞を受賞する世界的作家は、島田清次郎が栄光の日々にあった1919年ころ、同じ二十歳で、まだきちんとした小説を発表していない。

調べると1899年生まれの小説家はほかにもたくさん存在している。

徳永直、石川淳、壺井栄、川口松太郎、尾崎一雄、ナボコフ、ボルヘス。

並べるとちょっと壮観である。文学者を生む時代だったのだ。

二十歳で有名人となった島田清次郎のもとにはいろんな手紙が舞い込んでくる。

100年前にはもうマスコミは発達しており、彼は写真入りでいろんな雑誌や新聞に取り上げられていた。小説を読み、またそういう記事を眺めて、若い世代は彼に熱狂したのだ。

大正時代の後半は、ちょっと浮かれたところがあった時代である。

 

数あるファンレターのうち、山形から来た女学生の手紙に、島田清次郎は反応する。

文通相手に「写真を送って欲しい」と頼む伝統

鶴岡の高等女学校を出たばかりの十九の娘さんからの手紙に返事をかき、それは何度かに及び、そこで愛を語りあう。島田はぜひ結婚したいと手紙のなかで言いつのった。

写真を送って欲しいと頼み、その写真を見て、彼女がいい、と心を決めたようである。(杉森久英の著作より)

ドラマ『エール』の展開とよく似ている。

成功した若き男性がいて、その盛名をしたって女性が手紙を書き、それに返事を出すことで、恋愛へと発展していく。そういうことがあった時代なのだ。

また、文通相手に「写真を送って欲しい」というのは、ごく自然なやりとりである。それは1960年代や1970年代にまで残っていた文化だった。

私が少年だったそのころは、文通がまだ盛んであり、いろんな雑誌に文通コーナーがあり、文通希望者の住所と氏名がふつうに列挙されていた。そういう時代である。(フォークソングの雑誌ではフォークソング好き同士が文通するために住所氏名を載せており、それは切手収集の雑誌や、鉄道マニアの雑誌や、漫画好きの読む雑誌などでも同じだった)。

文通相手に写真を送ってくれといわれたのでどういう写真を送るか、というのは、1970年ころの少年少女には大変な問題だったのでリアルに覚えている。(それ以前に、写真を送ってくれと言っていいのかどうか、というところで死ぬほど悩むのであるが)

いまと違って「写真を盛る」という技術がない。だからわざとピンボケの写真を送ったり(“逆盛り”ともいうべきもので、ボケてるからよくわからなくて、ひょっとして美女/美男じゃないのか、とおもわせる手口である)、きれいな(かっこいい)友人と一緒に写った写真を送ってどっちともいわず、できればいいほうに誤解してほしいというような手口を展開していたりした。

『エール』でも主人公の古山裕一は、せめて写真を一枚送ってくだされば、と書き綴っていたが、そういう純情さと直結した「手紙の恋愛文化」というのは、それから40年は継続し、1970年代までは存続していたのである。

ドラマだけの特殊な展開ではない。

文通から結婚に至った大正11年の事例

大正時代の若き流行作家・島田清次郎は、手紙のやりとりのすえ、すぐさま山形にいる彼女と結婚することに決め、間に人も立てず、向こうの親に事前の挨拶もせず、いきなり山形に乗り込んでいった。

そして強引に結婚の約束をとりつけ、あっという間に祝言を挙げてしまった。

島田清次郎の伝記は、1962年に杉森久英が書いた『天才と狂人の間』という基幹的な一冊があり(当書で直木賞を受賞している)、もうひとつ2013年に風野春樹という精神科医が書いた『誰にも愛されなかった男 島田清次郎』という本がある。この2冊でほぼ網羅されている(杉森本の根本的な間違いを風野本は指摘したりしているので、できれば2冊とも目を通したほうがいい。島田は蘆原将軍とのつながりはないらしい)。

島田清次郎は大正11年(1922年)、この「文通で知り合った」山形の少女と結婚するが、すぐに単身で外遊し、半年後にもどってきたおりには彼女は実家に帰っており、それきりになった。(入籍してなかったので内縁関係だった)。

文通からの恋愛 大正12年の大スキャンダル

明けて大正12年(1923年)、またファンレターをくれていた女性に島田は年賀状をだし、彼女から返信がきたことによって、新たな交際が始まる。彼女は六本木(当時の麻布区材木町)に住む海軍少将のお嬢さんであった。

島田は、代々木富ヶ谷にあった自分の家を訪れてくださいと手紙を出し、ファンであった高名な作家の誘いなので彼女はやってくる。

何度かの往来があったあと、島田は強引に彼女を連れて逗子へ向かった。

その地にいた徳富蘇峰に仲人を頼むためである。

二日の逗留ののち、逗子駅近くでたまたま警察に尋問され、女性から「誘拐され監禁されている」との訴えがあったので、島田は拘留された。

それがマスコミの知れるところとなり、新聞で大々的に報道された。

当時の新聞は、セレブの醜聞を好んで取り上げる媒体でもあった。島田はもちろん、お嬢さんの写真まで大々的に掲載されており、時代の荒っぽさが尋常ではない。

このスキャンダルは、島田の言い分と、女性側の言い分が食い違っていて、真相は、つまり「誘拐なのか、ふつうの男女の旅行なのか」がつまびらかではない。

ただ、島田清次郎は、独特の性格から、この令嬢と結婚する、と勝手に決めて、自分勝手に進めていったというのは確かなようである。おそらく相手はどこかで拒否する意思を見せていたはずだが、怒らせると何をするかわからない男であるから、その言いようは柔らかく、島田はまったく聞いてなかったのだろう。

「僕の小説のファンなら、僕のことは好きに決まっている」と決めてかかり、そこの部分は最後まで疑ってなかったのだ。

状況から判断するかぎり、お嬢さんはただちょっとうかつなだけであって悪いところはなく、おそらく島田清次郎の行動が飛び抜けて異常だったと見ていいだろう。

相手の親の許しも得ず、強引に逗子まで連れていくところがすでに常人の行動ではないのだが、しかし逗子では実際に徳富蘇峰へ仲人を直接に頼んでいる。そのおり、二人は並んで座り、べつだん異様な状況には見えなかったと、蘇峰は証言している。つまり力尽くで同席させているようには見えなかったと言うのだ。

最初は島田を一方的に悪く書いていたマスコミも、じつは彼女はもともと島田のファンであり恋文にも似た熱烈な手紙を出していたとの情報が出ると(島田の弁護士による入れ知恵である)、トーンダウンしていく。ひょっとしたら派手な「痴話げんか」にすぎなかったのかもしれない、という判断である。

文通がときに人生を大きく変えていた時代であった

島田清次郎は、かなり変わった人物だったらしい。

もともと奇矯な人物だったうえに、二十歳でベストセラー作家となり、日本中から注目される人物となった。まっとうな人間でもおかしくなりそうな状況である。クセの強い彼は、その偏屈さと自己肥大と妄想がとめどなくなっていった。

彼のことを徹底的に調べた作家二人がつけた伝記本2冊のタイトル、それを並べればだいたい想像がつくだろう。

「天才と狂人の間」

「誰にも愛されなかった男」

このスキャンダルでその名は地に落ち、原稿を書くが、出版社が本を出してくれなくなる。

(かなり粗雑な小説であり、実際に売れなくなってきたからでもあるが)。

二十でデビューして大成功するが、二十五で社会から強く拒絶される人生というのは、なかなか苛烈である。

スキャンダル翌年の1924年にはおかしな行動を繰り返したうえ、警察につかまり、精神病院に入れられてしまう。1930年、その病院で死ぬことになる。死因は結核。享年三十一。

壮絶なる人生である。

恋文によって、ときに人の人生は大きく変わることがあるのだ。

人の手によって直接に書かれた文字は、それだけで人の心を動かすことがある。ときには人生も左右する。

朝ドラ『エール』はそれのもっとも幸せな事例のひとつだろう。それをいまわれわれは目撃している。そしてその陰には、うまくいかなかった恋愛もあったのだ。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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