Yahoo!ニュース

道路族問題は現代的騒音トラブルの象徴的存在、どこが現代的か

橋本典久騒音問題総合研究所代表、八戸工業大学名誉教授
(提供:ayakono/イメージマート)

 新型コロナ禍での在宅ワークの増加とともに、道路族の是非に対する議論が高まっている。道路族と言えば、昔は、田中角栄に代表されるような道路建設利権に群がる政治家を指していた。今はそれが、袋小路の道や交通量の少ない道路で遊ぶ子ども達に変わっている。後者の命名は暴走族からの発想と思うが、政治家から子ども達へ、いろんな意味で人間の両極端に位置する存在へと名称が移り変わったことは実に面白いが、現実は面白がっている状況ではない。

 横浜市や京都市では、分譲住宅地に入居した家族同士で、事件や損害賠償訴訟にまで発展した道路族トラブルが発生した。自宅前で大声で遊ぶ子ども達に悩まされていた女性が、子どもらの家族に注意をしたところ、逆襲されていやがらせを受けるようになったというものだ。子どもらの親の一人の男性が、苦情者に威嚇行為を繰り返したとして迷惑防止条例違反で略式起訴され罰金30万円を科せられた事例や、住民からの嫌がらせに耐えかねて引越しを余儀なくされ、重度のストレス障害になったとして損害賠償や慰謝料を請求する訴訟も起こっている。

 この訴訟となったこの事例は当時のテレビのワイドショーでも大きく取り上げられた。40代の夫婦が、新しく造成された新興住宅街に新居を購入して暮らし始めたが、前面道路は袋小路となっており、その道路を囲むように10軒ほどの住宅が建ち並んでいた。夫婦の住宅はその中ほどにあったため、周りを他の住居に取り囲まれた状態となっていたが、このような立地の上に更に不都合な条件があった。取り囲んだ住宅は殆どが小学生の子どものいる家庭だったが、夫婦の家は長男が中学生で高校受験を控えていたからだ。

 入居が始まって暫くすると、車の来ない袋小路の前面道路で子ども達が遊び始めたが、親たちは目の届く場所で遊んでくれることを歓迎していたので、多くの子どもが走り回ったりバスケットボールをしたりと、まるで公園の様相を呈することとなった。共働きだった夫婦は休日に遊び声をうるさく感じるだけだったが、中学生の長男にとっては毎日の勉強にも支障が出る状態となり、頻繁に苦情をいう日が続いた。夫婦は子どもの親たちに道路で遊ぶのを止めさせるように頼んだが、神経質だと相手にしてもらえず、自治会の班長や小学校にも相談したが、互いの主張は平行線を辿るばかりで問題の解決には繋がらなかった。夫婦の主張によれば、その後、子ども達の親からの嫌がらせが始まり、車にボールをぶつけられたり、庭にゴミを投げ入れられたり、長男を犯罪者のように扱うようになったとのことで、入居から1年半が経過した頃、耐えきれずに引越しを決めた。その後、近隣住民を相手取り、損害賠償として1100万円を請求する民事訴訟を起こしたが、結局、夫婦の主張は認められなかった。

 判決の主旨は次の通りである。我が国では昔から道路が子どもの遊び場や住民の交流の場として利用されてきた経緯があり、袋小路の道路からの騒音が、道路本来の正常な利用の仕方によるものでないとしても、直ちに違法と言えるものではない、というものだ。この裁判のように、子ども達の道路遊びが違法かどうか、あるいは道路遊びの騒音が受忍限度を超えているかどうかを争えば、このような判決になるのは目に見えている。裁判では、判決がもたらす後続波及効果への配慮が大きな要素となるためである。したがって、争点を嫌がらせ行為などに絞って戦っていれば、また違った結果になったのではないかと考えられる。このような事例は、本質的には騒音トラブルではなく、いわば大人のいじめ問題である。

 道路族は袋小路の新興戸建て住宅地での問題ばかりではない。マンションの中庭で遊ぶ子どもの声がうるさいとマンション住民から相談が寄せられたこともある。公園前の住宅からボール遊びの騒音に関する相談もあった。これらは、いわば公園族問題であるが、これら子どもの声の騒音問題が、泥沼の近隣トラブルへと発展する経緯は、前回記事のSTICK((不適切な)初期対応、敵対型対応、(被害者)意識、クレーマー扱い、孤立化の策動)がそのまま当てはまる典型的な事例である。トラブルで得られるものなど何もないことを肝に銘じて対応に当たる必要がある。

 表題で現代的騒音トラブルと書いたのは、この問題が迷惑問題なのか、あるいは不寛容の問題なのかの議論となる代表的な存在だからだ。道路で遊ぶ子ども達の声を騒音だとして道路族の名称のもと非難中傷するのは迷惑問題でなく苦情者の不寛容によるものだという意見の一方、社会状況や社会意識が変化して騒音の捉え方も変わってきている現在、子どもの声と言えども無条件に許されるものではないという意見もある。更には、道路族問題がトラブル化するのは、苦情を申し立てている人間に対する近隣住民の不寛容の問題だと指摘する人もいる。筆者の認識は、上記にあるように、社会の変化とともに子どもの声といえども騒音としての配慮が必要な時代になっているというものであるが、注意が必要な点は、それは公害騒音などとは全く異なる質のものであるということだ。したがって、配慮は必要であるが規制が必要な騒音ではない。

 この迷惑問題か不寛容問題かの話は、現代的な騒音問題の殆どに当てはまる。除夜の鐘に対する苦情、音響信号機などの視覚障がい者のための案内音の問題、アパート・マンションでの隣室や上階からの音、自治体の放送塔からのアナウンスや時報、ペット関連の騒音問題など、挙げればきりがない。昔ながらの騒音問題である工場からの騒音や建設工事騒音などは音量をコントロールすることが問題解決の一番の手段であったが、現代的騒音問題では音量は問題ではない場合が殆どだ。

 現代的騒音トラブルを防止するためには、節度と寛容とコミュニケーションの3つが必要である。音を出す側の節度と、音を聞かされる側の寛容、そして相手の節度や寛容を相互に感じ取れるためのコミュニケーションである。この3つが揃わないと騒音トラブルが発生してくる。ところが現代の状況は、音を出す側が相手に寛容を求め、音を聞かされる側は相手に節度を求めるだけであり、おまけに近所付き合いに代表されるようにコミュニケーションも殆どなくなってきている。必要な3つの項目が何れもなくなってきているのが現況であり、これでは騒音トラブルは増えるばかりである。

 相手が節度ある対応をしていることが分かるからこそ寛容になれるし、相手の寛容さに対する感謝があるから節度ある行動もとれる。最後に、朝日新聞の「声」の欄(2012年5月27日、朝刊)に投稿された37歳の主婦の小文を参考までに紹介しておきたいと思う。これはもう桃花源の話なのだろうか。

『隣家のおじいさまが亡くなった。話したことはなかったが、1通の手紙が縁で、ずっと素敵な方だと思っていた。子どもが2歳と4歳だった8年前、周りには子どもがいない静かな環境。私は「大声を出さない」「少し静かにしようね」とかなり気を使って子育てをしていた。ある日、切手の無い手紙が1通届いた。それには「隣に住むおじいさんです。子どもさんの声が聞こえることがとてもうれしいです。私は耳が遠いのでぜひもっと気になさらずに大きな声で遊んでください」と書かれていた。私は涙が止まらなかった。心がすごく熱くなった。それからは怒るのも、笑うのも大きな声でのびのびと、私も子どもも生きてこられた。隣のおじいさまに出会えて、本当に我が家は幸せでした。ありがとう』

騒音問題総合研究所代表、八戸工業大学名誉教授

福井県生まれ。東京工業大学・建築学科を末席で卒業。東京大学より博士(工学)。建設会社技術研究所勤務の後、八戸工業大学大学院教授を経て、八戸工業大学名誉教授。現在は、騒音問題総合研究所代表。1級建築士、環境計量士の資格を有す。元民事調停委員。専門は音環境工学、特に騒音トラブル、建築音響、騒音振動、環境心理。著書に、「2階で子どもを走らせるな!」(光文社新書)、「苦情社会の騒音トラブル学」(新曜社)、「騒音トラブル防止のための近隣騒音訴訟および騒音事件の事例分析」(Amazon)他多数。日本建築学会・学会賞、著作賞、日本音響学会・技術開発賞、等受賞。近隣トラブル解決センターの設立を目指して活動中。

橋本典久の最近の記事