氾濫を防ぐための「ダムの事前放流」は、なぜ行われなかったのか
農業や発電用の利水ダムを治水に使用する
国のダム運用は今年6月から変わっていた。昨年の台風19号の経験から、利水用(水道、農工業、発電)のダムで「事前放流」を行い、一時的に治水目的に使用し、雨を貯める量を増やせるようになった。ダムという水甕には決まった容量がある。それ以上は貯められない。より多くの雨に備えるなら事前に空き容量を増やしておく必要がある。
理由は豪雨の増加である。国土交通省が6月26日に公表した「2020年版国土交通白書」によると豪雨災害の増加が顕著になっている。
土砂災害の年平均発生件数を、2010~2019年と、2000~2009年の10年間で比較すると約1.5倍に増加。
1日200ミリ以上を記録した日数を、1901~30年と、1990~2019年の30年間で比較すると約1.7倍に増加。
いずれも「地球温暖化の影響があるとみられる」としている。
治水機能を持つダムは、多目的ダムも含め、国内に約560か所。
しかし、これだけでは対処できないとして、約900か所ある利水ダムで事前放流し、貯水能力を上げる方針を打ち出した。5月末までに国指定の1級水系のうち、ダムがある99水系で自治体や水の利用者と治水協定を結び、多目的ダム335か所、利水ダム620か所で事前放流が可能になった。
これによってダム全体の洪水調節容量は91億立方メートルに倍増したとされた。
では、その新政策は機能したか。
氾濫が相次いだ熊本県の球磨川流域には6か所のダムがある。
しかし、事前放流は行われなかった。
球磨川流域の地形的な特徴
その理由はいくつかあるが、1つ目は、この流域の地形的な特徴だろう。
たとえば、降った雨が人吉盆地に集中する構造になっている。流域内には複数の河川があるが、その多くが人吉盆地で本流に合流する。とりわけ川辺川は支流とはいえ、本流と上流域の規模がほぼ同じだ。
また、人吉盆地を流れる球磨川の河床勾配は小さい。さらに、人吉盆地を抜けると狭窄部といって川幅が極端に細くなる。狭窄部では川の流れが滞りやすく、水害が起きやすい。
水が大量に集まり、流れにくい人吉盆地がある以上、事前放流はよほど計画的かつ時間をかけて行わなければならなかっただろう。
大潮の時間と豪雨の時間
2つ目が大潮との関係だろう。
球磨川が注ぐ八代海の7月4日の満潮は以下の図のとおりだ。この時間帯を中心に河口から海へ水が流れにくくなる。
熊本県は水上村にある市房ダム(球磨川流域)で水位が上昇したため、緊急放流を行う可能性があるとしていた。
緊急放流は事前放流とは異なる。「異常洪水時防災操作」と呼ばれ、ダムが満杯になり、これ以上ダムに水を貯められなくなった時に、ダムに流れこんでくる水をそのまま下流に流すことだ。そのためダムより下流域の河川水量は増加する。
当初は午前8時半からダムの緊急放流を行うとされていたが、いったん見送られた。次に放流時刻は9時30分と予定されたが、それも寸前に回避された。
事前放流の最大の敵は線状降水帯
3つ目は、想定外の雨量が短時間で降ったことだ。
国土交通省が4月に定めた事前放流のガイドラインでは、気象庁の予測データから、ダムごとに定める基準以上の雨が予想されると、その3日前から放流に向けた態勢に入るとした。
だが、今回の豪雨の恐れが高まったのは、大雨特別警報が出る数時間前だ。
時系列で見ると以下のようになる。
7月3日 午後9時39分 人吉市、球磨村に大雨洪水警報
※未明に線状降水帯が発生。人吉市で1時間100ミリを超える雨
7月4日 午前4時32分 16市町村に大雨特別警報
午前4時50分 熊本県に大雨特別警報
午前5時15分 人吉市が「避難指示」
午前5時55分 国土交通省「球磨川氾濫」を発表
これでは事前放流する時間がない。
また、もし事前に豪雨を予測して、雨が降らなかったら、利水用の水が不足してしまうという懸念がある。
線状降水帯の発生予測は困難
積乱雲1つ1つの大きさは10キロ四方程度で、寿命は約1時間。発達した積乱雲が発生しても、1つでは豪雨になることは少ない。
しかし、たくさんの積乱雲が同じ場所で連続して発生すると、線状降水帯として強靭で巨大な積乱雲の組織が結成され、同じ場所に居座り続けると豪雨が発生する。
線状降水帯の維持される時間は、南風によって運び込まれる水蒸気の量で決まる。
だが、その形成過程は気象や地形の影響を受け、気象庁は「現時点では発生予測は難しい」としている。
台風のように発生から上陸までに時間がある場合、事前放流は有効だろう。台風の発生から熱帯低気圧または温帯低気圧に変わるまでの期間は平均5.3日あり、計画的な事前放流が可能だ。
しかし、線状降水帯の発生予測は困難であるため、この策を使うことが難しい。
台風19号時の事前放流はどのように行われたか
今回の運用見直しのきっかけになったのが、2019年の台風19号であると前述したが、このときダム放流はどのように行われたかを振り返っておこう。
まず、事前放流だ。
国土交通省「川の防災情報/ダム放流通知発表地域図」によれば、10月11日には荒川流域、利根川流域、鶴見川流域のダムで事前放流が行われた。
10月12日には東京都にある小河内ダムについて以下の発表があった。
「小河内ダムでは、台風19号に伴う降雨により貯水量の増加を踏まえ、10月11日14時より余水吐からの放流を行っております。10月12日の最大の余水吐放流量について、当初、毎秒579立方メートル程度と見込んでおりましたが、最新の降雨予測を踏まえると、10月12日18時以降、毎秒729立方メートル程度となる見込みです。この結果、合計放流量は発電放流と合わせて毎秒750立方メートルとなります。これに伴い、多摩川の河川水位が上昇する恐れがありますので、多摩川に近づかないようにしてください」
事前に放流することで、ダムの空き容量は増えて、治水能力は高まる。だが水の放流を行えば、河川の水位を上昇させてしまう。放流のタイミングは非常に難しい。それゆえ住民への注意喚起は大切になる。
台風19号時の緊急放流はどのように行われたか
次に緊急放流だ。
台風19号の接近に伴う大雨でダムの水位が上がっていることを受け、関東甲信越と東北地方の6つのダムで緊急放流が行われた。
緊急放流には大きな課題があった。2018年、西日本豪雨の際には、愛媛県肱川上流の野村ダムで緊急放流が行われ、8人が死亡、3000棟が浸水被害を受けた。
そこで2019年6月、操作規則が変更された。大雨に備えて事前の放水量を増やし、ダムの空き容量を増やすようにし、また、緊急放流を行う際には、流域住民へ避難を促すために原則3時間前に周知することになった。
ところが、今回、緊急放流を行ったダム(美和ダム(長野県伊那市)、竜神ダム(茨城県常陸太田市)、水沼ダム(同県北茨城市)、城山ダム、塩原ダム(栃木県那須塩原市)、高柴ダム(福島県いわき市))では、事前の放水を行っていなかった。
塩原ダムでは緊急放流との関係性は不明だが、下流の茨城県内3カ所で決壊が確認された。
大事なのは住民との情報共有は十分
情報発信には2つの課題を残した。1つには情報が二転三転したこと。もう1つは情報を受け取ってもどう行動していいかわからないこと。
城山ダムで緊急放流が行われるまでの経緯をまとめると以下になる。
・12日午後1時過ぎ 午後5時から緊急放流と周知
・雨量が予想を下回り、午後4時に緊急放流の延期を周知
・雨量が強まり、午後9時に午後10時から緊急放流と周知
・雨量が強まり、午後9時30分に緊急放流開始
上流域の雨量が予測できないためにこうなったが、流域の自治体は困惑した。最終的には周知した10時より30分早く放流され大変危険だ。
反対に、緊急放流をすると発表されたものの、実際にはされなかったダムがある。下久保ダム、川俣ダム、川治ダム、草木ダムなどだ。
この情報を市民はさまざまに受け取った。
「緊急放流しなくなったということは、川はもう氾濫しないんですよね」
という人もいたが、まったく別の話である。また、
「緊急放流が決まったら避難しよう」
と決めていた人もいた。この人は結局、避難しなかった。
緊急放流情報を市民がどう受け止めればいいかは、「川に近づかないように」以外は示されることはなかった。
今年も事前放流や緊急放流が行われる可能性がある。事前放流とはどういうものか、緊急放流とはどういうものか、そして、それぞれに対し市民はどう行動すべきなのかを重ねて情報発信する必要がある。