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氷河が消えゆくインドの村で、環境に応じたしなやかな地域づくりを考えた

橋本淳司水ジャーナリスト。アクアスフィア・水教育研究所代表
デリーの街並み/著者撮影(以下同)

過去最悪の水資源危機に直面するインド

 今年8月、インド政府の政策立案機関「インド変革国家機関委員会(NITIアーヨグ)」が次のような報告をしている。

 現在、約6億人が深刻な水不足に直面し、安全な水を利用できず死亡する人は年間20万人いる。国内の水の7割がすでに汚染され、水質に関する指標は世界122カ国・地域中120位。

 今後、2020年までに、首都ニューデリー、ベンガルール、ハイデラバードなど、21都市で地下水が枯渇し、1億人が影響を受ける。2030年までに、インド国内の水需要が供給量の2倍になり、人口の40%が安全な水を飲めなくなる。

 その一方で、洪水被害も多発している。

 8月12日、インド内務省は「7月上旬からのモンスーンによって、豪雨関連の死者は774人に上る」と発表した。特に被害が大きかったのは南部のケララ州だ。想定外の雨量のために州内の24ダムで水を放流し、それによって人為的な洪水被害が発生した。

 追い討ちをかけるようにマラリア、デング熱、水ぼうそうなどの感染症も発生した。なかでも「レプトスピラ症(ネズミなどの動物の尿を含んだ水、土、食物を通して伝染する病気)」によって、8月末までに少なくとも12人が死亡した。

 インドは安全な水を確保するために、また水から安全を守るために、国をあげて水問題に取り組むことになるだろう。

 しかし、そのやり方は経済政策によって変わる。

 前述の「NITIアーヨグ」は市場化、グローバル化を推進し、経済成長を第一に掲げている。彼らにとっては気候変動もビジネスチャンスだ。水問題を通じて投資を呼び込み、水ビジネスや災害対応ビジネスを成長させようと考える。

 その一方で、インド国内には、地域社会の持続可能性を第一に考える人たちもいる。気候変動には地域社会でそれぞれの環境に応じたしなやかな対策をとるほうが合理的という考え方だ。

峠を越えたところにある土地

 旅の目的地はラダック。インド北部ジャンムー・カシミール州に位置する、標高の平均が3500メートルという山岳地帯。富士山と同じくらいの高さ、日本の面積の5分の1程度の場所に、29万人が暮らす。

 ラダックまでは、まる1日かかった。成田からデリーまで10時間。デリーで1泊し、翌朝、国内線でラダックの中心地であるレーまで1時間半。そこから車で移動だ。

 強烈な日差しを感じる。これも標高の高さゆえだ。日焼け止めのクリームを塗り、サングラスをかける。遠くに標高5000〜6000メートル級の山々が見える。

 ラダックの夏は短い。10月~4月上旬は氷点下まで気温が下がり、時々マイナス20度以下の極寒の世界となる。それが4月中旬になると気温も上がり晴れの日が続く。陸路でラダックに入れるのは4月中旬から9月末の間だ。雪のために峠を越える道路が封鎖される冬の数ヶ月間は、飛行機だけが外界との唯一の交通手段。ラダックという地名は「峠を越えて」という意味なのだ。

チベット文化の残る街

 渇いた風に五色の旗がパタパタとはためいている。これはタルチョというもので、チベット仏教の経典が印刷されている。

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 タルチョには願いが込められる。

「みんながしあわせでいられますように」

「大きな災害がありませんように」

「たくさんの実りをいただけますように」

「病気を患うことなく元気でいられますように」

 そして、チベット文化圏の人たちにとって大切な「元気の知恵・心の支え」である仏様の教えが、「遠くまで届きますように」。風が仏法を世界に運ぶと考えられ、街のあちこちに張られている。旗の真ん中に描かれた馬(ルンタ)は、その願いを背中に乗せ、風にのって遠くまで駆けていくとされる。それゆえ風の通り道にタルチョがかけられる。

 この地が外国人に開放されたのは1974年のこと。最近未確定の国境付近で中国軍が大幅に増強され、インド側を窺う動きが活発化しているため、インド政府はラダックに駐留する軍を増やしている。

 しかし、長い間閉ざされたがゆえ、ラダックには仏教文化が残されている。チベットでは文化大革命の時に僧院の大半が破壊されてしまったが、インドに属していたラダックには、古くからの建造物や仏教美術、伝統文化がそのまま残された。

 それでも近代文化の流入、観光業の発展によって、ラダックの人々の暮らしは急速に変わった。

 ヘレナ・ノーバーグ著『ラダック 懐かしい未来』という書籍で、この地を知っている人も多いだろうか。本には、貨幣経済に頼らず、ほとんどすべてを自給自足でまかなってきたラダックが、グローバリゼーションに巻き込まれる様子が描写されている。「私たちの中に貧困はありません」と胸を張っていた青年が、わずか数年後に「貧しいラダックにはあなたたちの助けが必要です」と援助を求めるようになったというエピソードは印象的だ。

 2009年に公開された映画「3Idiots」(邦題「きっと、うまくいく」)」は、ラダックにより多くの人々を集めるようになった。

 レーにはインド国内中から観光客が押し寄せている。それまでインド人の中には、異なる文化的背景を持つラダックの存在を知らない人もいた。1978年に観光目的でラダックに入ることが許された時、レーを訪れた観光客527人のうち、インド人はわずか27人だった。それが2016年には国内旅行者は19万7000人、外国人旅行者は3万8000人と逆転、観光客の全体数も年40%増で推移している。

 レーは過密化し、ハイシーズンである6月から9月にかけて20万人の訪問者がある。これは経済的な潤いと、それにともなう弊害をもたらした。

 たとえばゴミ問題。2013年よりラダック内でのペットボトル飲料水の使用や販売に規制をかけているが、プラスティックゴミは手がつけられない。ゴミ箱に捨てられ収集されても、処理やリサイクルを行う施設はなく、ゴミの山が増えていくだけだ。

 水の問題も起きている。NGOの調査では2011年時点でラダック市民の約3倍もの水を観光客が消費しており、地下水は減り始めている。同時に汚染も懸念されている。ラダックでは古くから、水をほとんど必要としない乾燥処理のトイレを使っていたが、観光客の急増に伴い、水洗トイレが急ピッチで設置された。しかし浄化槽ではなく浸漬法のため、地下水への影響が心配されている。

気候変動と遊牧生活

 8月25日、「第3回世界森会議」(主催・NPO法人ウォールアートプロジェクト。代表、おおくにあきこさん、現地コーディネター・浜尾和徳さん)がインド北部のジャンムー・カシミール州、ラダック地区のマトー村で行われた。

 NPO法人ウォールアートプロジェクトは、2010年から毎年、インドや日本の学校を舞台とした芸術祭「ウォールアートフェスティバル」を開催してきた。2015年にはインドの先住民「ワルリ族」の村人たちと、伝統的な家を建てることから始めるコミュニティづくり「ノコプロジェクト」もスタートさせている。

 今年は日本から26人がラダックに入り、「第3回世界森会議」やその前後に、ラダックの人々と対話し、暮らしを体験しながら、持続可能な暮らしについて考えた。

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 最初に話を聞いたのはパドマさんだ。彼女は遊牧民の出身だが、現在はラダック地区シェイ村のゲストハウスで働いている。パドマさんの実家は「天国にいちばん近い湖」といわれるパンゴン湖(標高4250メートルの世界で最も高い場所にある塩湖)の近くにあり、遊牧民は、夏にはテントを張りながらヤクや羊などの家畜とともに生活し、冬は土煉瓦で作られた家に住む。

「私は7歳から遊牧に出かけていました。ヤギやヤクを10頭くらいずつ連れて山で草を食べさせます。馬で移動し夜は家畜とともに寝ます。狼が現れることもありました。ヤギが散り散りになってしまうので声を出して狼を追い、再びヤギを集めました」

 遊牧民にとって家畜のエサである植物は大切だ。

「『冬白ければ夏緑』という言葉があります。冬場に多くの雪が降ると、夏に植物が生い茂るということです。私が子供のころに比べると、雪の量はずいぶん減り、植生も大きく変わりました。1970年代には1メートル50センチくらいの植物も生えていましたが、いまの植物は膝丈より下です」

 パドマさんによると、近年は遊牧を止める人が増えているのだという。

「植物の生え方が変わったことだけが理由ではありません。子供が学校に行き、動物の世話をする人がいなくなりました」

 こんな地元の人の声も聞いた。

「私たちは電気を使っていない。温暖化ガスも出していない。しかし、高地に住んでいるため温暖化の影響を受ける。このことをあなたたちはどう考えているのか」

 毎日、大量の電力を消費している私たちの生活を思い、言葉に詰まった。

井戸の水はどこから

 ゲストハウスには井戸が掘られている。ラダックでは井戸のある家庭は多くはない。近くのハンドポンプや水場まで入れ物を持って水を汲みに行く。もしくは政府のサービスである給水車を手配して定期的に水を持ってきてもらう。井戸があるのは商業目的の場所か比較的裕福な家庭だ。オーナーのデジュンさんは、

「この村の多くの井戸は3メートルほどの浅井戸だけど、この井戸は20メートル掘った。地下水の流れは複雑だからね。でもいまのところ1年を通して水量は豊富だよ」

 と言う。村人は井戸水を飲用に使っている。マトー村の公立小学校にも井戸があり、子供たちが水を飲んでいた。地下水ゆえに夏場でも水温13度と低い。水質は良好で硬度(水の中に含まれるマグネシウムとカルシウムの量)が高いのが特徴だ。

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 一方、農業用にはインダス川から水路を引いている。村のあちこちにコンクリートで囲われた水路がある。今後温暖化が進んで気温が上昇すると蒸発量は増えるだろう。せっかくの水が畑まで届かなくなる。

 インダス川の水も地下水も元々は山の氷河だ。

 8月24日、日本からの参加者は山に登った。遠くマトー山に氷河が見える。氷河は溶けてインダス川となる。川の流れは山肌の土を溶かし赤く濁っている。午後になると太陽の光の当たり方が変わり、水はいっそう赤みを帯びる。

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 年輩の女性、ノルボックさんがこんな話をしてくれた。

「50年前には私の家のまわりでも40、50センチの積雪がありました。だから家の入口を高い場所に設置していたのです。冬に雪が積もっても大大丈夫なように。当時は山に行けば6メートルほどの積雪がありました。それがいまでは村の積雪は2、3センチ、山で60センチほどです。毎年、冬に雪が降るようお祈りをしています」

 気温の上昇によっていままで雪が降っていた時期に雨として流れてしまう。積もった雪もすぐに溶けてしまう。人間目線で見れば雪や氷の塊は山におかれた貯水タンクだ。ゆっくり溶けることで種まきどきの水になり、夏場の生活用水になる。じわじわ地中に染み込み地下水量を増やす働きがある。それがなくなっている。

 ここで人工氷河の建設候補地を見た。ゆるやかな斜面に土と石で1メートルほどの高さの堤防をつくる。これまでは斜面をひたすら流れてしまった雪解け水が、堤防でせき止められて斜面に止まる。堤防はゆるやかな斜面にいくつか作られている。堤防と斜面の間にたまった水はいっぱいになると堤防を越えて再び流れ出し、斜面の下にある次の堤防で再びたまる。棚田に水が流れるようなイメージだろうか。そして、たまった水は冬になると凍る。氷は山の斜面に蓄積され、人工氷河と呼ばれる塊をつくる。

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 このしくみは冬場の風の通り道につくるのがポイントで、冷たい風が水上を通過することによって凍りやすくなる。春になると再び水は溶け出し、この水を利用するという。

 だが、とても大きなプロジェクトで費用もかかる。村での合意形成には時間がかかりそうだ。

地域社会と5つのエレメント

 マトー村村長のティンレスさんにも話を聞いた。ティンレスさんは2014年頃から国連の定めたSDGs(持続可能な成長目標)を念頭に置いた村づくりを行なってきた。

「村の生活は数十年前と比べ大きく変わりました。かつては食べものや衣類の自給は当たりまえのことでした。小麦、野菜を育て、放牧している山羊や牛のミルク、チーズをタンパク源にしていました。家畜のフンをエネルギーに使い、ウールを加工して衣類を作っていました。しかし、外部から日用品が入ると何かにつけて買い物をするようになりました。外部から入ってきた食べものを食べるようになると寿命が短くなりました。また、必要以上の品物を購入するため廃棄物が増えました」

 気候変動により氷河が融解し、水が得にくくなったり、植生が変わったことが、マトー村の農業や牧畜に影響している。担い手不足も深刻だ。農業では現金収入が得にくいことから転職する人も増えた。教育熱は高いが、都市部の大学に進学した子供たちは村に戻ってこない。

 そうした中で、ティンレスさんは村の自立性を高めようとしている。

「いちばん大切なのは人の育成。学校でのアカデミックな学びのほかに、村の自活につながる学びや技能の習得、廃校を活用した大人のための学びの場が必要だと考えています。

 森会議は廃校で行います。そこには教室の壁にアートがたくさん描かれています。森会議をきっかけにここを村人の学びの場としていきたいです。また、この地にはチベット仏教が残るが、形骸化してしまっている部分もあるため、再度仏教の教えに立ち返り、村づくりに活かしていきたい」

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 ティンレスさんの農園にもタルチョがはためいていた。

 あなたは青、白、赤、緑、黄のうち、水を表現しているのは何色だと思うだろうか。

 日本からの参加者に聞くと「白」という意見が多かった。

 この土地の水にとって大切な雪や氷河のイメージだ。

 次に多かったのは「青」。たしかに「青」は水の色を表現するときに使われる。

 だが、タルチョにおける水は「白」でも「青」でもない。「緑」なのだ。デリーからレーへ向かう飛行機で眼下に山脈が見えた。山肌はむき出しで黄褐色。眼を凝らす険しい渓谷にわずかな緑がある。山を水が削り、渓谷に流れる水が緑をもたらす。だから水は緑なのかもしれない。

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 タルチョの青は「空」、白は「風」、赤は「火」、緑は「水」、黄色は「地」を意味し、この世界をつくる「五大元素」を表す。

 そしてこの5つのエレメントは互いに関連している。

 「青」が空で「白」が風であるなら、これらは気候と考えられる。さまざまな要因で「青」と「白」は大きく変わり、私たちの生活に影響を与える。水(緑)は不足し汚染され洪水として襲いかかる。「黄」の大地も汚染されたり崩れたりしている。「赤」は火を表すが、現代流にはエネルギーの1つと考えられるし、エネルギーには風(白)や水(緑)からも生み出すことができる。

 食料は水と土でできる。一方で農薬や肥料は水と土を汚す。植物が成長するには光と水と土が必要だ。森林の土壌は水をきれいにしたり、ためたりする。

 土、水、エネルギーはこのように関係しているから関係性を考えながら、地域のなかで最適化をはかるとよい。気候変動に適応するには地域の環境特性を知り、コミュニティを大切にする暮らしが必要だ。

 こうした考え方は、日本の地域づくりにおいても重要なのではないか。タルチョのはためくマトー村で多くを学んだ。

水ジャーナリスト。アクアスフィア・水教育研究所代表

水問題やその解決方法を調査し、情報発信を行う。また、学校、自治体、企業などと連携し、水をテーマにした探究的な学びを行う。社会課題の解決に貢献した書き手として「Yahoo!ニュース個人オーサーアワード2019」受賞。現在、武蔵野大学客員教授、東京財団政策研究所「未来の水ビジョン」プログラム研究主幹、NPO法人地域水道支援センター理事。著書に『水辺のワンダー〜世界を歩いて未来を考えた』(文研出版)、『水道民営化で水はどうなる』(岩波書店)、『67億人の水』(日本経済新聞出版社)、『日本の地下水が危ない』(幻冬舎新書)、『100年後の水を守る〜水ジャーナリストの20年』(文研出版)などがある。

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