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虐殺から2年、今も緊張漂うミャンマーの古都バゴー 監視下で悲しみ語れない遺族たち

舟越美夏ジャーナリスト、アジア政経社会フォーラム(APES)共同代表
兵士が駐屯する僧院の一つ=ミャンマー・バゴー(4月8日、現地からの提供写真)

 ミャンマーの古都、バゴーの昼下がりは静かだった。通りを車が行き交うが、歩く市民の姿はほとんどない。暑さのせいだけではない。町には拭いきれない緊張が漂っている。国軍兵士が、市内の僧院や学校の建物に配置され、市民を監視しているからだ。

 2年前の4月9日早朝、国軍と警察が、民主化を求めて抗議運動をする若者たちをロケット弾など重火器で襲撃し、家屋にいた一般住民を含めて多数を虐殺した。以来、国軍は民間の施設に兵士を配置して存在を誇示してきた。

 虐殺2周年となる4月9日が近づくにつれて、国軍は神経を尖らせている。攻撃を生き延びた若者たちが、少数民族武装勢力から軍事訓練を受け、民主派「国民防衛隊」(PDF)隊員として市内に戻り潜んでいるー。そんな情報がめぐっているのだ。

クーデター後、抗議の声をあげる人々=バゴー(現地からの提供写真)
クーデター後、抗議の声をあげる人々=バゴー(現地からの提供写真)

虐殺の全容、今も分からず

 いったいどれほどの人が4月9日に殺害されたのかは、今も明らかではない。事件の翌日、人権団体「政治犯支援協会(AAPP)」は、82人以上が殺害されたと発表し、国連や日本大使館なども抗議声明を出した。だが、国軍の監視は厳しく、独立した機関が調査を行う機会はなかった。

 地元警察官やバゴーの行政官らが漏らしたところでは、国軍は複数のトラックに遺体や負傷者を積んで運び去った。行き先や埋葬地は明らかではない。犠牲者の中には、他の町からデモに参加していた人もいたはずだった。

 一握りの遺族が、賄賂を払って遺体を取り戻し、葬儀を行った。しかし軍事政権は、一周忌の法要を禁じた。「抗議デモとみなして、僧侶と共に逮捕する」というのだ。遺族はこの2年の日々に、悲しみを誰かに打ち明けることもできず、心に秘めるだけで過ごしてきた。

 目の前で息子を兵士らに撲殺された父親は、深い悲しみに沈んでいる時に逮捕された。タイ側に逃げた娘からの送金を受け取ったことが理由だった。釈放された今も、監視を恐れ胸の内を打ち明けない。

 ヤミンウーは、あの日に殺害された息子について打ち明けてくれた数少ない人である。55歳の彼女は7人の子を生み育てたとは信じられないほど小柄で痩身だが、息子について語る時の目の光は強く、愛する者の死を闇に葬らせないという決意が感じられた。

殺害された息子について語るヤミンウー(バゴー、筆者撮影)
殺害された息子について語るヤミンウー(バゴー、筆者撮影)

 ■心配しないで 

 息子、ティハが出かける前に向けた眼差しは、今もヤミンウーの脳裏から消えない。「行かないで」。思わず口にした。息子は「行かなくちゃならないんだ」と微笑みバイクにまたがったのだ。

 長男で31歳のティハはとても優しい子だった、とヤミンウーは言う。ドライバーの仕事で得た収入は全て家族のために使った。慈善事業も欠かさず、自分たちよりも貧しい人や病気の人を助けていた。

 国軍がクーデターを起こした後、親戚で25歳の大学院生、ミョーコが通りで民主化を求める抗議デモを始めた。多くの若者や市民が呼応し、ティハもリーダーとして活動するミョーコの支援をしながら連日、デモに参加した。

バゴー大学学生連盟のFacebookより
バゴー大学学生連盟のFacebookより

 デモへの国軍の弾圧は、日に日に激しくなった。放水砲に実弾が加わった。

  「今日、洗濯をしに橋を渡っていた妊婦が射殺された」。帰宅して国軍の弾圧について話すティハは、怒りに満ちていた。

 3月、事態は悪化の一途を辿った。街中を軍車両がパトロールし、夜中にも銃声が響くようになった。兵士や警察官が簡易宿泊所を捜索し、「よそ者」は逮捕された。

 若者たちは、市内数カ所に土のうを積み上げバリケードをつくった。実弾で攻撃する国軍に対し、手製のスリングショットやエアガンで対抗した。ある日、警官の一人が若者の反撃で死亡した。

 「最悪の事態が来るかもしれない」。ティハはそんな予感を抱いたようだった。抗議運動の本部に近い、ミョーコの自宅で寝泊まりすると言い出した。

 4月7日午前10時ごろ。家を出るティハは「母さんに」と買ったばかりの眼鏡を手渡した。コメ一袋と25000チャット(約1500円)も母に渡して、妹たちに言った。

 「戻れるかどうか分からない。母さんの面倒を見てくれ」

 その口調と眼差しに、ヤミンウーは不安を抱いた。行かないで、と言っても、ティハは首を縦に振らず、バイクにまたがった。

 「必ず家に戻るのよ」。ヤミンウーが息子にかけた最後の言葉になった。

■バイクで引き回される 

 2日後の9日午前4時ごろ、激しい銃声や爆音が響き渡った。ヤミンウーは息子の携帯電話にすぐに連絡した。

 「母さん、僕は大丈夫だ」

 ティハの声に、一旦は電話を切ったが、銃声や爆音は続いている。8時を過ぎてからもう一度、電話すると、ミョーコの母親が出た。

 「危ないから逃げなさい、と言ったから、大丈夫のはずよ」

 だが、ヤミンウーは居ても立っても居られなかった。30分後。今度はティハもミョーコの母親も電話に出なかった。午後4時ごろ、ようやくミョーコの母親が電話に出た。ティハは逮捕されたが「釈放するように掛け合っている」と言う。

 眠れない夜が明け、朝6時ごろ、ヤミンウーは危険を覚悟で、ミョーコの家へ向かった。家の近くに甥の一人がいた。

 「息子はどこにいるの?」

 「ティハ兄さんは、すぐに戻ってくるよ」

 甥はそう言うばかりだったが、数人の若者たちがティハのことを話しているのが聞こえた。息子は死んだのだ。この時に直感した。

 「本当のことを教えて」

 ヤミンウーは若者たちに叫んでいた。

 ヤミンウーが教えられたのは、次のことだった。

 国軍の襲撃で、デモの拠点やバリケード付近にいた若者らは、川に向かって走った。ティハは彼らを小舟に乗せ対岸まで運び、逃走を助けた。しかし、川を6往復ほどして舟を降りたところで銃撃され、大腿に被弾した。兵士が、流血しているティハを縛り上げ、縄をくくりつけたバイクを走らせ引き摺り回したー。

 頭の中が真っ白になった。「息子の体を家に戻したい。この時、母親としての願いはこのことだけでした」。

 間もなく、当局から「遺体安置所に取りに来い」と連絡があった。ヤミンウーはティハの弟を送って遺体を確認させた。ティハの体は傷だらけで、肩が脱臼し肋骨が折れていたという。

 火葬場がある墓地に遺体を運び、そこで葬儀を執り行った。ティハの体は白い布でしっかりと巻かれてたが、血で染まっていた。

 「当局は葬儀をやらせて、学生リーダーのミョーコをおびき出し、逮捕しようとしていた」とヤミンウーは今、思う。子らの遺体を引き取った遺族は、たいてい賄賂を支払わなければならなかったが、ヤミンウーたちは要求されなかったからだ。

 遺族たちを今も苦しめているのは、最愛の家族をなくした悲しさや苦しさを、人に打ち明けられず、満足な法要ができないことだ。ヤミンウーの親戚には、民主派も国軍派もいた。「みんなが、私たちを観察しているようでした」。

 さらに軍事政権は、一周忌の法要を禁じた。「やれば、デモ行動とみなし僧侶もろとも逮捕する」という。ヤミンウーはそれでも、こっそり僧院に行き、供物を捧げ僧衣を寄進し、息子を弔った。

 ティハは時々、ヤミンウーの夢に現れる。

 「母さん、僕は死んでない。戻ってくるよ」。事件後は、そう言っていたが、2月に現れた時は「さよなら」と言った。

 「なぜ、さよならなんて言うの」。夢の中で問う母に、息子は言った。

 「僕たちは別の世界にいるんだよ、分かってくれ」

 「町中にいる兵士は、顔も見たくない」。ヤミンウーの静かな口調が、鋭くなった。バゴーで国軍は何をしたのか。語られず、誰も罰せられていない。「でも真実は最後にやってくる、と言うでしょう?」。虐殺の全容が明らかになる日が来ると、ヤミンウーは信じている。

KNU支配地域で、自衛のための軍事訓練を受けた女性たち(現地からの提供写真)
KNU支配地域で、自衛のための軍事訓練を受けた女性たち(現地からの提供写真)

■僕の人生を完全に変えた

 国軍の襲撃を生き延びた若者たちの多くが、バゴーから数百キロ西に広がる少数民族武装勢力、カレン民族同盟(KNU)の支配地域に向かい、軍事訓練を受けた。筆者は、学生リーダーだったミョーコと、昨年5月にタイ側で会った。彼は現在、KNU支配地域で民主派「国民防衛隊」(PDF)の一員として武装闘争を支援している。通話アプリを通して話を聞いた。ミョーコの決意の固さは、以前と全く変わっていなかった。

ーバゴー虐殺から2年になる。

 「人生が完全に変わる出来事だった。大学院で哲学を研究していた僕は、クーデター後に、通りで抗議運動を始めた3人のうちのひとりだった。国軍の襲撃をかろうじて逃げ切り、川を渡って郊外に身を潜めていた時、携帯電話で母からティハの死を知らされた。僕の両親がティハの葬儀に参列している間に、自宅が国軍に封鎖されてしまった。それ以来、両親は、あちこちに身を潜めながら生きている。」

ー武装闘争になぜ、参加したのか。

 「武装闘争を、僕たちは望んでいなかった。通りで非暴力の抗議運動を展開し、民主主義と自由を求めたが、軍事政権はまったく聞く耳を持たず、銃を向けた。バゴー虐殺が起きた時、僕たちは理解した。国軍は、権力を市民に渡すつもりはないのだと。このまま、軍事政権に支配されるのは絶対に嫌だ。武装闘争は、独裁政権に立ち向かう最後の手段だった。」

ー戦いの終結にはどれぐらい時間がかかると思うか 

 「1、2年では終わらない長い戦いになると、僕たちはすでに覚悟している。国軍が政治に関与しなくなり、戦争犯罪を犯した者が刑務所に送られ、国に民主主義が復活した時、僕たちの戦いは終わる」。

(敬称略)

(了)

この記事は、一般社団法人刑事司法未来からの一部助成で取材しています。

ジャーナリスト、アジア政経社会フォーラム(APES)共同代表

元共同通信社記者。2000年代にプノンペン、ハノイ、マニラの各支局長を歴任し、その期間に西はアフガニスタン、東は米領グアムまでの各地で戦争、災害、枯葉剤問題、性的マイノリティーなどを取材。東京本社帰任後、ロシア、アフリカ、欧米に取材範囲を広げ、チェルノブイリ、エボラ出血熱、女性問題なども取材。著書「人はなぜ人を殺したのか ポル・ポト派語る」(毎日新聞社)、「愛を知ったのは処刑に駆り立てられる日々の後だった」(河出書房新社)、トルコ南東部クルド人虐殺「その虐殺は皆で見なかったことにした」(同)。朝日新聞withPlanetに参加中https://www.asahi.com/withplanet/

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