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【武器を取ったミャンマーの若者たち④】国軍少年兵から僧侶になった男性は、なぜ再び武器を取ったか

舟越美夏ジャーナリスト、アジア政経社会フォーラム(APES)共同代表
軍事政権に拘束されているアウンサンスーチー氏の父、アウンサン将軍の肖像(写真:ロイター/アフロ)

 タイと国境を接するミャンマー東部のジャングルには、元国軍兵士や元警察官ら数千人が滞在している。2021年2月のミャンマー国軍によるクーデター後に組織を離脱し、国軍と対峙する少数民族武装勢力、カレン民族同盟(KNU)らの支配地域に入り保護を求めた人々だ。KNUが提供する避難民キャンプなどで暮らしながら、各地から集まった若者たちに軍事訓練を施す人もいれば、タイ側へ移動して人生の再建を模索する人もいる。

 彼らがかつて、兵士や警察官を職業として選んだ理由はさまざまだ。就職の選択肢がなかったから。国民を守りたいと思ったから。一般の大学に進む学費がなかったからー。

 39歳のアウントゥが15歳で兵士になったのは「1国軍のリクルート係に拉致されたから」であった。国軍での過酷な年月の後、賄賂を払って除隊。その後、仏道に心の平安を見出して僧侶となったが、クーデターに抗議する市民が国軍に虐殺されるのを目の当たりにして、再び武器を取ることを決意した。民主派「挙国一致政府」(NUG)傘下の国民防衛隊(PDF)の若者たちと、KNUとで編成する部隊で、11回の激しい戦闘に参加した。

 「他者のために命を掛けることが正しい道だと今も信じている」とアウントゥは静かな、だが熱い口調で語る。

 今回から2回にわたり、アウントゥのほか、前線で戦い続けた軍曹や軍医らの経験を紹介し、ミャンマー国軍の姿を見る。

アウントゥは静かな口調で、過去を話した(2022年7月、筆者撮影)
アウントゥは静かな口調で、過去を話した(2022年7月、筆者撮影)

■公園で拉致された

 高校に進学した15歳のある日、アウントゥはヤンゴンの公園を1人でぶらぶら歩いていた。自宅は居心地のいい場所ではなかった。両親は離婚し、母が再婚した男性とは気が合わなかった。

 気がつくと、兵士が近くにいた。「一緒に来い」。軍事政権時代の1998年のことである。軍服姿の者の命令に、少年の彼でなくても逆らうことはできなかった。

 車に乗せられ、着いた軍施設には、すでに30人ほどの少年がいた。半数は彼のように連れてこられた者、残りは窃盗などで捕まった者のようだった。「家に帰りたい」とアウントゥは訴えたが、「訓練の後に連れて帰ってやる。今は外出はさせられない」と言い渡された。

 当時、ヤンゴンなど大きな都市では、国軍のリクルート係が、公園などで少年を捕まえていた。国際人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」は2002年に発表した報告書で「ミャンマーは世界で最も少年兵が多い」と指摘し、次のように述べている。

 「国軍のリクルート係は、列車やバス、市場などで少年たちを捕まえ、国軍に入らなければ刑務所に入れると脅して連れ去るということが頻繁に起きていた。少年たちは、家族と連絡を取ることを許されず、軍事基地で訓練を受けさせられ、逃げれば厳しい処罰をされた。中には撲殺された者もいた」。まさにこれが、アウントゥに起きたことだった。

■家族との絆を切れ

 アウントゥら少年たちは南部モン州のモーラミャインの軍事基地に移動させられた。希望して入隊した10人の若者が加わり、軍事訓練が始まった。

「お前たちは、国軍の一員だ。家族とも、市民とも違う。家族との絆は切れ」。

 少年たちは初日に、そう言い渡された。「母」という言葉を使う卑猥な罵倒語を口にするよう命じられた。

 訓練は厳しかった。午前4時に起床してランニングなど2時間の持久トレーニング。6時に朝食、7時から12時まで銃の扱い方や戦闘時の動き方を訓練する。昼食の後、1時から3時までは軍事学を学び、6時まではグループでの訓練。夕食の後、7時半から9時まで再び軍事学の講義があった。「困難に耐えるため」として、食事に砂が混ぜられることもあった。休日はなかった。

 アウントゥは、仲間たちと3度、脱走を試みた。いずれも数日のうちに軍のチェックポイントで捕まって連れ戻され、激しく殴られた。

 「もう逃げられないんだ」。そう思い知らされたのは、3度目の脱走の後である。刑務所に1カ月、入れられた。寝る時も足枷をされたままで、シャワーは一週間に一度がいい方だった。解放された時は、足が硬直してうまく歩くことが出来なかった。

 その後、タイ国境近くのカイン州コーカレイにある駐屯地に送られた。

■敵とは「歯向かう者」

 「国軍には強制と支配しかない」とアウントゥは言う。上官には絶対に服従しなければならず、自分の頭で考え行動することはできなかった。 

 敵は、国軍に「歯向かう者」「協力しない者」であるとされた。それは、少数民族武装勢力だけではなく、一般市民であっても「敵」となるということを意味していた。

 軍事作戦で重要なのは「先に撃つ」「敵は捕虜(POW)にはせず、殺す」こと。村人ら非戦闘員も抵抗すれば武装勢力と同じ「敵」とみなすが、抵抗しない者は「物品の運搬など使役にしろ」と命じられた。

 国軍は、全土を大まかに白、茶、黒に色分けしている。少数民族武装勢力の支配地域は「黒」で、そこでは兵士たちは略奪や虐殺など「やりたいこと何でも」が許されていた。「あの村は、我々を攻撃する可能性がある」と兵士たちが感じると、証拠はなくても「先制攻撃」を実行することが良しとされた。

 軍基地内での生活は、市民とは隔絶されている。テレビは兵舎に一台しかなく、自分でチャンネルを選べない。本や雑誌は軍に与えられたもの以外は許されなかった。「ミャンマー軍兵士のための60のルール」という本の携行が義務付けられていたが、それを実際に読んでいる者はほとんどいなかった。電話はもちろんなく、「外の世界」からの情報は遮断されていた。こうした環境の中で、部隊の仲間たちが家族になり、世界の全てになっていく。家族を忘れることがなかったアウントゥにも、それは同じだった。

 建国の父といわれるアウンサン将軍は敬意の対象ではあったが、国軍基地に掲げられていた肖像写真はいつの間にか撤去されていた。将軍の娘で民主化運動指導者、アウンサンスーチー氏の名前は国軍内では語られず、アウントゥがそれが誰かを知ったのは、2005年の除隊後だったという。

 しかし、アウントゥより3歳年下の元兵士は、国軍上層部が敵視していたのは、少数民族よりもアウンサンスーチー氏率いる民主派政党、国民民主連盟(NLD)だったと証言している。

■恐怖心しかなかった

 アウントゥにとっての初めての大きな戦闘は、カイン州ドーナ山脈にあるKNUの基地を攻撃する作戦だった。兵士にされてから2年後のことである。

 戦闘は13日間も続き、彼が所属する部隊の半数以上が死んだ。大半が18歳前後である。アウントゥは地雷の破片で左大腿など3カ所を負傷した。命は助かったが「恐怖の記憶しかない」。生き残ったからか、2等軍曹に昇進したが、戦闘への恐怖心はさらに高まった。

 なんとか前線に行かなくていい方法はないか。考えあぐね、軍事訓練の合間に上官の小間使いのようなことをやった。気に入られて、上官と共に町に出かけるチャンスができた。市民生活を垣間見て、また逃げる方法を考えるようになった。家が恋しく、母を忘れることはなかった。

 離脱を真剣に考えるようになったのは、情報部門の訓練に送られてからだ。3カ月の訓練が終わると「兵士たちを見張り、情報を上げろ」と言われた。「部隊の仲間は家族同然だ」と思っていたが、実は自分のことも誰かが見張り情報を上げているに違いない。気持ちが休まることはなかった。

 2005年、アウントゥは所属する大隊の司令官に賄賂を支払い、「病気により戦闘に不適格」と認定された。年金なども全て放棄したが、除隊する夢がようやく叶った。拉致されてから8年近くが経っていた。

■初めて心の平安を得る

 記憶を頼りに、ヤンゴン郊外の自宅があった場所に行ってみると、かつてアウントゥの面倒をみてくれた養母のような女性がいた。

 「どこにいたの。死んでしまったと思って、葬儀もしてしまったのよ」。養母は涙と共に再会を喜んだ。

 アウントゥは平服を着ていたが、国軍のバッグを持っていた。「軍にいた」と明かした。逃げてきたのか、と尋ねる養母に「正式に除隊した」と説明した。その後、養母が引き合わせてくれた父は涙を流し、「一緒に暮らそう」と言ってくれた。

 だが、国軍で暮らしてきたアウントゥには、普通の暮らしは容易ではなかった。軍では命令に服従することが全てだったから、食事の時間を自分で決めることにさえ奇妙に感じた。父が営む靴修理の店を手伝ったが、人と喧嘩ばかりした。

僧侶の頃のアウントゥ(撮影時期不詳、本人提供)
僧侶の頃のアウントゥ(撮影時期不詳、本人提供)

 「僧院に入ってみたらどうか」

 1年ほど経ったころ、父の勧めでネピドー近くの僧院に行ってみた。約1キロ四方の敷地にジャングルが広がり、行き交う人も少ない。その環境で瞑想の修行をして、初めて安らぎを得た。子どもの頃は義父と折り合えず、国軍に拉致されてからは、強制と服従の辛い日々だった。心配も不安もない日々を、アウントゥは味わったことがなかった。

 仏陀は強いることをしない。仏教と共に生きることが、自分の人生の在り方ではないか。そんな思いに至り、2カ月後には仏典が学べる僧院に移った。

 「人は社会と世界に善をなさなければならない。真の仏の道に生きるべきだ。私が好きな言葉です」。

 2009年には、ネピドー近くの小さな僧院の院長となり、子どもたちに仏教を教える学校を開いた。長年会っていなかった母が僧院を尋ねてきた時は、穏やかに対話をすることができた。「瞑想のお陰で、心を平静に保つことができるようになりました」とアウントゥは言う。

 2015年、大洪水がミャンマー中部と北部で起きた。アウントゥは救助活動に明け暮れたが、小舟に乗り移る時に大怪我をしてしまった。僧院を去り父の元で療養せざるを得なくなった。人生が、ここでまた、転換した。

被災者のために物資を運ぶアウントゥ(本人提供)
被災者のために物資を運ぶアウントゥ(本人提供)

■武器を取ることが市民のためになる

 2021年2月1日。クーデターが起きた。アウントゥは怪我から回復し、ヤンゴン近郊の町、ラインタヤーで靴作りの仕事をしていた。

 「不正義だと感じたが、この頃は怒りはなかった」と言う。市民が抗議デモをする様子をカメラで記録した。

 3月14日。ラインタヤーで、国軍が抗議運動をしていた市民に発砲した。約100人が射殺され、数百人が負傷するという惨劇に発展した。

 抗議デモでは、不正義を正すことはできないのではないか。事件はアウントゥに疑問を突きつけた。人々のためにできることは何か?自分の命を捧げられることは何だろうか?

 「国軍と戦うべきだ」。考えあぐねた末に決意した。国軍にいた自分は、戦術を知っている。武装闘争を決めた若者たちを訓練することもできるのではないか。

 背中を押される出来事もあった。デモのリーダーの1人であった僧侶を拘束しようと、国軍兵士がアウントゥの自宅に踏み込んだのだ。僧侶は彼の親しい友人だった。それからの3カ月、アウントゥはヤンゴンのあちこちに身を潜めて過ごし、7月13日、1人でバスに乗ってKNU支配地域にある村、レイケイコーを目指した。

■「あなたは元兵士ですね」

 アウントゥは国軍にいた過去は明かさずにKNUに協力を申し出た。だが当時38歳という年齢は「戦闘に参加するには歳を取りすぎている」と、相手にされなかった。そこでレイケイコーにあるKNUの管理事務所での食事担当を引き受けた。

 だがある日、離脱した若い国軍兵士が言った。「あなたは元兵士ですね。どの部隊に所属していたのですか」

 アウントゥについての情報は、静かに広がっていたらしい。過去を聞かれることはなかったが9月、「特殊部隊訓練の教官をやってくれないか」とKNU司令官に依頼された。

 アウントゥは14日間にわたる特殊部隊訓練を、3度担当した。訓練生は、全員が18歳から19歳。ヤンゴンなど都会育ちの彼らはスタミナがなかった。それでも最初のグループの14人は全員が合格した。2度目のグループは、7人の訓練生のうち3人しか合格しなかった。3度目の訓練をしていた2021年12月15日、国軍がレイケイコーを攻撃し、アウントゥは訓練を中断して戦闘に参加することになった。

前線に赴く前のアウントゥ(本人提供)
前線に赴く前のアウントゥ(本人提供)

■なぜか恐怖はなかった

 アウントゥが持っていたのは拳銃一丁だけだったが、国軍兵士時代と違って、恐怖は感じなかった。「なぜか分からないけれど」。翌日は、ロケット砲を持たされた。その3日後、今度は、政府軍から押収した中国製の機関銃を「他に使いこなせる人がいないから」と渡された。国軍兵士時代には、目隠しをして組み立てる訓練をさせられた武器である。機関銃を操作するアウントゥを補助するために、KNUとPDFの5人の若者が付いた。

 機関銃を使った最初の攻撃では、KNUの村を攻撃しようと移動する国軍を待ち伏せし、50メートル離れた距離から、中尉を含む18人の兵士を射殺した。

 2度目の戦闘では、国軍にはロシアで訓練を受けたスナイパーがいるとの情報があった。2本の電柱の間に機関銃を置き、構えていると誰かが撃ってきた。

 「スナイパーだ」

 仲間が椰子の木の上にいるスナイパーを見つけて銃撃した。女性だった。

機関銃を抱えるアウントゥ(本人提供)
機関銃を抱えるアウントゥ(本人提供)

■違いは、互いへの敬意と高い意志

 アウントゥは、11回の戦闘に参加し、7回負傷した。これまでの経験から見て、「国軍」と「KNUとPDFの編成部隊」との違いは何だろうか。

「KNUとPDFには、互いに尊敬の念がある」という。固い意志と質の良い人員という面も、国軍よりも勝っている。国軍の中にも意志強固な兵士はいるが、互いへの尊敬や思いやりはない。

 しかし、KNUとPDFにとっての最大の問題の一つは「武器や弾薬が足りないこと」だ。機関銃の場合、弾1発は15バーツ(約58円)。1時間の戦闘なら1000発は必要だ。民主派「挙国一致政府」(NUG)は世界中から資金を募っているが、十分ではない。

 アウントゥの陽に焼けた顔には疲れが見え、穏やかな空気と鋭い眼光が混在している。実は、最後の戦闘で左肩に負った傷は、手指の神経にも支障を残し、重い機関銃を操ることは難しく、仲間を危険に晒すことにもなりかねない。武装闘争はもう、できないかもしれない。

 「人々のために、残りの人生で何ができるか考えている」。アウントゥが着ているシャツには「SAMURAI」とプリントされていた。

(了)

ジャーナリスト、アジア政経社会フォーラム(APES)共同代表

元共同通信社記者。2000年代にプノンペン、ハノイ、マニラの各支局長を歴任し、その期間に西はアフガニスタン、東は米領グアムまでの各地で戦争、災害、枯葉剤問題、性的マイノリティーなどを取材。東京本社帰任後、ロシア、アフリカ、欧米に取材範囲を広げ、チェルノブイリ、エボラ出血熱、女性問題なども取材。著書「人はなぜ人を殺したのか ポル・ポト派語る」(毎日新聞社)、「愛を知ったのは処刑に駆り立てられる日々の後だった」(河出書房新社)、トルコ南東部クルド人虐殺「その虐殺は皆で見なかったことにした」(同)。朝日新聞withPlanetに参加中https://www.asahi.com/withplanet/

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