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「もう人を殺したり拷問したりしたくないから」 兵士が国軍を去った理由 クーデター2年のミャンマー

舟越美夏ジャーナリスト、アジア政経社会フォーラム(APES)共同代表
避難先のタイ・メソートで、抵抗を示す3本指を掲げるミャンマーの少年(写真:ロイター/アフロ)

 ミャンマー国軍がクーデターを起こしてから2月1日で2年。国際社会の注目はロシアのウクライナ侵攻に集中し、ミャンマー市民の苦しみには関心が向かない。

 そんな中で米国が昨年末、ミャンマーの民主化を支援する「2022年ビルマ法」を成立させ、民主派や少数民族武装勢力、市民の抵抗勢力などを非軍事面で支援する方針を明らかにした。軍事政権に対抗する民主派「挙国一致政府」(NUG)は歓迎する声明を発表。今後、NUGと直接協議をする国や政府間機関が増える可能性がある。

 ビルマ法の成立の背景について米国人活動家は「若者と少数民族が連携した強力なロビー活動」と「キリスト教徒の少数民族が虐殺されている事実」が議員を動かしたと、ネットメディアで語っている。それに加えて、兵器や石油製品の売買でミャンマー軍事政権と急速に距離を縮めるロシア、経済関係を深める中国の存在があったことは間違いない。

 もっとも、欧米、日本なども国軍の武器に関しては無実とはいえないだろう。国連のミャンマー特別諮問評議会がこのほど発表した調査報告書は、国軍が武器工場で製造する多様な武器には、米国やフランス、日本など13カ国の企業が供給する原材料や部品、機械などが使われていると指摘している。

 国際社会の経済的利益追求と無関心が絡み合う一方で、軍事政権は北西部や南東部など抵抗勢力が活発な地域を中心に、空爆や放火を連日のように行っている。人権団体「政治犯支援協会(AAPP)」が確認しただけでも死者は2700人を超えた。

ミャンマー国軍と抵抗勢力の戦闘が激化し、国境沿いの川岸に逃れ、タイ側から運ばれる支援を受け取る避難民ー2022年1月7日
ミャンマー国軍と抵抗勢力の戦闘が激化し、国境沿いの川岸に逃れ、タイ側から運ばれる支援を受け取る避難民ー2022年1月7日写真:ロイター/アフロ

 市民弾圧の手を緩めない国軍や警察に反対して、組織を離脱した兵士や警察官は多い。正確な人数は分からないが、数万人とみられている。タイ西部とミャンマー東部の国境地帯には、離脱者たちが多数、滞在している。ミャンマー東部を支配する「カレン民族同盟」(KNU)など少数民族武装勢力に庇護を求めた人たちで、各地から集まった若者たちに軍事訓練をする者もいれば、越境してタイ側の町で仕事を見つけ新たな出発を試みる者もいる。

 話を聞いた元軍人や警察官の中から、前線で戦い続けた軍曹、チェット(36)、軍医として兵士を観察してきた大尉、TC(34)の二人の話を紹介する。

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 チェットは最大都市ヤンゴンの出身である。初めて会った時、彼の目が一瞬、鋭く光り警戒心が滲んだ。いくつかの国で会った、激戦を生き抜いてきた人たちと同じだった。

 チェットが国軍に入隊したのは2005年、18歳の時。家族に軍人はいなかったが、「国民を守るというスローガンに引かれた」のが理由だった。ミャンマーが各国からの経済制裁を受け、就職先の選択肢は多くない軍事政権時代だった。

ミャンマーの首都ネピドーで、軍記念日の式典で行われたパレード=2021年3月27日
ミャンマーの首都ネピドーで、軍記念日の式典で行われたパレード=2021年3月27日写真:ロイター/アフロ

 チェットは7カ月ほど、KNU支配地域のジャングルで他の離脱兵士らと暮らした。軍事訓練を求めて各地から若者たちが集まっていたが、チェットは訓練指導に加わらなかった。

 「2度と武器に触らないと決めたから」と言う。「なぜ?」と聞くと、少し間を置いて小さく答えた。「もう人を殺したり拷問したりしたくないからだ」

■「国を守る」とは

 「われわれは国民のためにある」。早朝のランニングから始まるトレーニングの後、国軍のスローガンを兵士全員が叫ぶ。国民を守る責任を感じるこの瞬間が、チェットは好きだった。

 基礎訓練の時から、「敵」は独立を求め「国を不安定にする少数民族武装勢力だ」と教えられた。訓練を終えて間もなく、チェットはKNU支配地域近くの国軍基地に配属された。

 「KNUは悪だ。われわれは祖国を彼らから守るのだ」。上官が繰り返すスローガンを、チェットは心に刻んだ。初めての戦闘参加は2008年。ジャングルでの激しい戦闘に参加するたびに、若きチェットは「国を守るためなら死んでも構わない」と思った。

 少数民族武装勢力と睨み会う前線への配属は通常、兵士たちに敬遠される。上官に賄賂を払って逃れようとする者も少なくない。だがチェットは厭わず、北部シャン州の前線基地に配属されることにも誇りを感じた。

 2010年に軍事政権は民政移管を発表した。この頃から、上官たちが憎悪し敵視しているのは実は少数民族武装勢力ではなく、民主化運動を率いていたアウンサンスーチー氏と国民民主連盟(NLD)なのだと分かってきた。

 「あいつらが国を支配すれば、悪いことが起きる」

 口に出すことはなかったが、上官たちの罵りをチェットはそのまま受け入れられなかった。彼の両親や親戚はアウンサンスーチー氏を支持していたからである。

■嘘をつくのは誰か

 軍事政権は嘘をつく。チェットが実感したのは、2010年から2020年の間に行われた3度の選挙を通してだった。

投票用紙を見せる選挙管理者=2020年11月8日
投票用紙を見せる選挙管理者=2020年11月8日写真:ロイター/アフロ

 2010年と2015年の総選挙では、兵士たちの投票は国軍の統制下にあった。兵士は、軍基地内に設置された投票所でしか投票できず、国軍系の政党「連邦団結発展党」(USDP)に入れるよう命じられ、投票後にも命令に従ったかどうか確認された。上官は投票箱を開けて調べ、NLD票があれば犯人探しが始まった。前線にいる兵士の分は、上官がまとめてUSDPに投票した。

 NLDが15年の投票で勝利し政権を握ると、20年の総選挙では「軍人も一般市民と同じく基地外で投票する」という方針に変えた。このことが、国軍に危機意識をもたらしたようだ。兵士の中には処罰を覚悟で、NLD支持を堂々と表明する者もおり、民主主義の微風が国軍の中にも吹き始めていた頃だ。

 「NLDは不正を働いている」。選挙キャンペーン中に上官たちはそう繰り返していた。これは逆に、チェットの中にくすぶっていた不信感に火をつけた。

 ■クーデターは知らされなかった

 そもそも、チェットは常に前線基地にいたために、投票の機会を得たことはなかった。それに、少数民族武装勢力との戦いが、本当に「国を守る」ためのものだったのかどうか、疑問に感じ始めていた。戦闘状態を作り出すために、「KNUの支配地域へ入れ」と上官から圧力を掛けられたことも度々あった。

 命をかけて戦っていたのに、給与は日々の暮らしもままならないほど低いままだった。国軍トップら幹部はビジネスなどで儲けて大金持ちだったのに、チェットの月給は22万チャットと、日本円では1万円にも満たない額なのだ。保険料などが天引きされるため、手取りはその半分しかなかった。兵士の妻は、上官の家族のために掃除などの雑用を無料でやらなければならず、その上に軍事訓練にも参加させられる。「現代の奴隷だ」。兵士たちはそう自嘲していた。

全権を掌握したミンアウンフライン国軍総司令官
全権を掌握したミンアウンフライン国軍総司令官写真:代表撮影/ロイター/アフロ

 2021年2月1日。国軍のミンアウンフライン総司令官が全権を掌握したこの日、チェットは南部カイン州の国軍基地にいた。朝から何も変わったことはなかったが、正午頃に、アウンサンスーチー国家顧問とウィンミン大統領らが拘束されたと知った。

 「NLDは国を統治する能力がない」。上官が翌日、兵士たちを集めて説明した。アウンサンスーチーは、ヘリコプターを私的に購入している。6百万人のイスラム教徒を違法に国内に入れる計画をしており、すでに百万人が入国している。このままでは国が破壊されてしまう。だからこそ、国軍が事態をコントロールする必要があるー。そんな内容だった。

 「あり得ない」。どれも信用できない話だ、とチェットは思った。市民が抗議デモを始めた時、国軍はやがて武力弾圧を始めると予想できた。それはNLDを支持する自分の母を苦しめることと同じではないかと感じた。実はクーデター前に、チェットは不公平な扱いに我慢がならなくなり、除隊を5回も試みたが、いずれも上官に受け入れられず実現しなかった。市民が弾圧に抵抗するのであれば、自分も抵抗する側にいよう。密かに心に決めた。

 2月22日。全国で行われた抗議デモは、参加者が数百万人に上った。国軍と警察はそれ以降、武力弾圧を始める。チェットの部隊は、抗議デモを取り締まるために南東部モン州タンビュザヤに配置された。チェットは大胆な行動に出る。部下が拘束したデモ参加者を混乱に紛れて逃しただけでなく、街中の市場でギターを弾いてNLDの歌を歌った。

 「今度やったら殺すぞ」と上官が警告した。「要注意人物」として監視されていることをチェットは知っていたが、過酷な前線に派遣できる数少ない人員として必要とされていることも認識していた。

■500キロを歩く

 9月15日、チェットは部隊を率いて北部シャン州の前線への赴任を命じられた。逃亡を疑い、上官は兵士たちの身分証明書を取り上げた。それでもチェットには離脱を実行するチャンスだった。ソーシャルメディアを通して、離脱した兵士らと密かに連絡を取り、その方法を聞いた。

 10月1日の真夜中。私服に着替えたチェットは、さりげなく基地の外へ出た。通りで警備をする部下に声を掛け、そのまま歩き続けた。部下たちは、チェットが就寝前に見回りにきたと思ったらしい。幹線道路へと進むチェットが携えていたのは、ひと組のシャツとロンジー(民族服)だけ。携帯電話は破壊していた。

 幹線道路からジャングルへと紛れ込んだチェットは、それから北西部マンダレーを目指して約500キロの道のりを歩き始めた。履いていたのはミャンマーのサンダルである。ジャングルから遠目に幹線道路を確認し、方角を見失わないようにした。もとより、長年の勤務で知り尽くしていた地域である。

 バナナを採って食べ、小川の水を飲み、雨の中を木の下で眠った。時には食べるものがなかったが、前線の兵士として、素足でジャングルを走り回っていた彼には、耐えられないことではなかった。注意しなければならないのは、軍営と、町の出入り口に設けられた軍検問である。

 ある時、食べ物を分けてもらえないかと、ジャングルを出て村に行ったが、村人は怖がって逃げてしまった。国軍は、村人に「不審者を助ければ報復する」と言い渡していたからだった。

 中部の古都マンダレーから50キロほど手前の村に着いたのは、3週間が過ぎてからだった。通りがかりの二人連れにチェットは携帯電話を借り、マンダレーに住むガールフレンドに電話をした。

 「軍を離脱した。もうすぐマンダレーに着く。君に会えるか?」

 マンダレーの入口で、彼女はチェットを待っていた。

■旅を続けたい

 「なんて気の毒なの」。20歳になったばかりの彼女はチェットを抱きしめ、泣いた。それから食堂に連れて行って彼に食事をさせた。

 「これからどうしたいの?」

 「旅を続けたい。離脱兵士たちがいるKNU支配地域に行って、それからタイ側に行こうと思う」

 彼女は同意し、自分のイヤリングを売った10万チャットと、蓄えていたお金を彼に渡した。ゲストハウスに滞在させ、一週間後、チェットを南東部モン州に向かうバスに乗せた。

 「必ず目的地に着いてね。会える日を待っている」。別れ際の彼女の言葉にチェットは「民主政権が戻る日まで、君を絶対に諦めない」と約束した。新たに買ったチェットの携帯電話に、この時の写真が保存されている。悲しみではなく、希望に満ちた表情の二人だった。

 モン州に着いたチェットはさらにそこからカイン州パヤトンズまで歩き、KNU支配地域に入った。「敵」であったKNUとの戦いを通して、チェットは「助けを求める者は誰であっても庇護する」という彼らの性格を知っていた。出会った村人が、KNU旅団に案内してくれた。

 そこには離脱兵士が15人ほど、すでに滞在していた。チェットは知り合った軍医TCと共に7ヶ月後、タイ側に渡ったのである。

KNU支配地域に設置された避難民キャンプ(提供写真)
KNU支配地域に設置された避難民キャンプ(提供写真)

■心理的問題を抱える兵士たち

 軍医のTCは、チェットよりも2歳下である。国軍内でのランクは上だが、前線での過酷な戦争を生き抜いたチェットの強靭さに敬意を抱いていることが、こちらにも伝わった。

 TCが高校卒業後に入隊したのは、医師になりたかったからだった。国軍の大学で軍医を目指せば、学費を払わなくても良く、学びながら少額の給料がもらえたのだ。

 TCは医師として、多くの兵士を診てきた。2010年以降には、入隊希望者が激減したために「兵士のモラルや士気は落ちる一方でした」。国軍は薬物常用者や受刑者、あるいは180万チャットを支払って若者を入隊させていたからだ。

 「病院に来る兵士たちは、普通の人間とは全く違う」とTCは言う。上官の命令に完全な「服従」を強いられることに慣れていた。命令を拒否すれば罰せられるか、ジャングルの前線に送られてしまうのだ。

 少数民族武装勢力の支配地域では、住民への見せしめとして、超法規的殺人が許されていた。「奪い、焼き、殺す。何でもやっていい、と言われるのです」。

 命令に疑問を挟まず、実行する。しかし、残虐な行為の後に「自分は間違っていたかもしれない」と考える。その思いや罪悪感を誰かに打ち明けることは出来ないから、酒で苦しみを紛らわす。後悔や罪悪感、疑問は「弱さ」とされるので、他の兵士に見せることはできない。そうして兵士たちは心を蝕まれていくのだという。

 「ミャンマー国軍にはアルコール中毒者と精神に障害を持つ者はいない」と、国軍は主張している。「だから医師は、兵士の病が過度な飲酒に起因していても、診断書にはそうは書けないのです」。

 軍への疑問や奴隷のような扱いに不満が募り、TCが退役を考えるようになった矢先、クーデターが起きた。「これで軍を辞めることは不可能になったのではないか」。眠れない日が続いた。

 「怖がらせ、抵抗への意志をくじく」のは国軍の常套手段である。TCが恐れていた通り、クーデターからひと月も経たないころ、TCは兵士が市民を射殺するのを目撃することになった。

 「それ以前は、軍服を誇りに思う気持ちもあったのです」。三つ星のグリーンの制服。だが今、同じ色の制服を着た者たちが、市民を殺害している。軍人で医師である自分には、国民を守るという「信条とプライド」がある。絶対に軍を去ろう、と思った。

 妻と幼い子供2人を妻の故郷に送り、TCは静かに、KNU支配地域へと出発した。離脱者が相次いでいた頃で、TCのようなごく普通の軍医がいなくなっても、国軍は敢えて行方を追跡することもなかった。

 ■大型の武器は必要ないが

 チェットとTCに尋ねてみた。兵士から見て、NUG傘下の国民防衛隊(PDF)と少数民族武装勢力に勝算はあるのだろうか。PDFの主体は、数カ月の訓練を受けただけの普通の若者たちだ。

前線の木陰で休む国民防衛隊(PDF)の隊員たち=2021年12月
前線の木陰で休む国民防衛隊(PDF)の隊員たち=2021年12月写真:ロイター/アフロ

 「ある」と二人は声を揃える。

  約40万人を抱える国軍は「プロ集団」のはずだが、意外なことに戦闘訓練はそれほどやっていないのだという。前線にいる時以外は、組織を運営するために農業や家畜の世話などに多くの時間を費やさねばならないからだ。離脱者が多く入隊希望者も激減し、士気もモラルも低い。

 一方、PDFに参加した若者たちは士気が高く、極めて強固な意志を備えている。「民主主義と自由を取り戻すために」と、死も覚悟している。少数民族武装勢力から、政治の駆け引きや戦法、少数民族が弾圧されてきた歴史も学んでいる。弱点は、武器が足りず、指揮系統がいまだに束ねられていないことだ。

 「国軍に勝つためには大型の武器は必要ないが、銃などの武器支援があれば、国軍との戦いは時間がかからずに終わらせることができるはず」。二人の見方は、他の元兵士とも共通していた。

 米ワシントン・ポスト紙などが昨年11月、アムネスティ・インターナショナルやヒューマン・ライツ・ウォッチなどの国際人権団体の調査を引用し、国軍は空爆にロシアから購入した戦闘機を使い、さらに激しい空爆を実施していると報じた。

米国が成立させた「2022年ビルマ法」は抵抗勢力や少数民族武装勢力に非軍事の支援をするというものだ。ミャンマーの厳しい事態に、どんな変化をもたらすのかはまだ、分からない。

 チェットとTCは、人生の立て直しを模索している。チェットは、タイ側に避難している元警察官らの助けで、建設現場の仕事を見つけた。ガールフレンドとは連絡を欠かしていない。TCは、外国へ働きに行くことを考えている。

(了)

ジャーナリスト、アジア政経社会フォーラム(APES)共同代表

元共同通信社記者。2000年代にプノンペン、ハノイ、マニラの各支局長を歴任し、その期間に西はアフガニスタン、東は米領グアムまでの各地で戦争、災害、枯葉剤問題、性的マイノリティーなどを取材。東京本社帰任後、ロシア、アフリカ、欧米に取材範囲を広げ、チェルノブイリ、エボラ出血熱、女性問題なども取材。著書「人はなぜ人を殺したのか ポル・ポト派語る」(毎日新聞社)、「愛を知ったのは処刑に駆り立てられる日々の後だった」(河出書房新社)、トルコ南東部クルド人虐殺「その虐殺は皆で見なかったことにした」(同)。朝日新聞withPlanetに参加中https://www.asahi.com/withplanet/

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