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関東大震災から始まる苦難の四半世紀、災禍の歴史に学び防災対策を!

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
著者撮影・東京都慰霊堂

 まもなく、9月1日に関東大震災から100年を迎えます。関東大震災が起きた1923年から福井地震が起きた1948年までの四半世紀は、日本の歴史の中でも最も苦難な時代だったと思います。震災前の10年間は、1914年に始まった第一次世界大戦による特需で、重化学工業が興隆し、債務国から債権国へ変わり、民主化も進んで大正デモクラシーとも呼ばれた時代でした。それが、関東大震災後、短期間で軍国主義化し、中国や米国と戦争を始め、戦争に敗れました。

 この間、日本では様々な災禍が続発しました。ですが、この四半世紀の災禍を歴史の授業で学ぶことは余りありません。そこで、関東大震災が起きる前から戦後に至る社会変化と災禍との関わりについて考えてみたいと思います。

関東大震災前の5年間

 大震災の5年前の1918年に、米国で発したスペイン風邪が世界中でまん延しました。米軍の大戦への参戦と共に感染が広がり、世界で数千万人もの人々が死亡しました。当時の世界人口は18億人程度、現在は80億人超ですから、今でいえば1億人を超える死者です。このため大戦の早期終結に関係したとも言われます。日本でも18年から20年にまん延して約40万人が死亡しました。この時期、日本では大戦終結で深刻な不況に陥っていました。21年には原敬の暗殺事件もありました。戦争、感染症、総理大臣の暗殺と聞くと、最近の出来事と似ているようにも感じます。

 ちなみに、20年~23年に東京市長を務めていたのは震災後の帝都復興を担った後藤新平です。後藤は内務大臣、外務大臣を経て東京市長になり、21年に東京の大改造計画「東京市政要綱」を策定しました。また、19年に都市計画法と市街地建築物法が公布され、都市や建築に関する法制度も整備されていました。

関東大震災をきっかけに東京の都市基盤と耐震規定が整備される

 関東大震災(大正関東地震)は1923年9月1日に相模湾の北西部を震源として起きたM7.9のプレート境界地震です。東京や横浜を中心に10万5千人が犠牲になり、国家予算の4倍近くの経済被害を出しました。東京で7万人もの死者が出たため、東京の災害だと思っている人が多いようですが、震源に近い神奈川では強い揺れ、津波、土砂災害など甚大な被害になりました。震源から離れた東京では、揺れやすい軟弱地盤が広がる隅田川以東を中心に火災被害が甚大で、住家被害の9割弱が焼失によるものでした。一方で、震源に近い神奈川では強い揺れによる全損が6割弱を占めています。

 震災後、後藤新平が主導した帝都復興計画により、東京の都市基盤が整えられました。また、震災の翌年には市街地建築物法に耐震規定が追加され、大都市の建物の耐震設計が義務付けられるようになりました。

震災後の災禍の続発

 震災後にも大災害・大事件が続発しました。25年北但馬地震、26年十勝岳噴火、27年北丹後地震、30年北伊豆地震、31年西埼玉地震、33年昭和三陸地震、34年函館大火、室戸台風、38年阪神大水害、39年男鹿地震などです。

 この間に、23年虎の門事件、25年治安維持法、27年金融恐慌、28年三・一五事件、30年昭和恐慌、31年満州事変、32年五・一五事件(犬養毅暗殺)、33年国際連盟脱退、36年二・二六事件、37年日中戦争、38年国家総動員法と続き、ついに41年12月に太平洋戦争を開戦しました。ちなみに金融恐慌は、震災後に発行した震災手形が不良債権化したことが関係しています。

 民主的な時代が短期間に軍国主義化した背景に、度重なる災禍による社会の混乱が無関係のようには思えません。

太平洋戦争中の災害

 太平洋戦争のさ中には、43年鳥取地震、44年東南海地震、45年三河地震が発生しました。南海トラフ沿いの東側で起きた東南海地震では、名古屋周辺に立地していた軍需工場の多くが被災しました。とくに飛行機生産の要だった三菱重工名古屋航空機製作所道徳工場や中島飛行機半田製作所山方工場の被害は大きく、翌週には飛行機エンジンを生産する三菱発動機大幸工場(現在、名古屋ドームが立地)も大規模空襲を受けました。さらに、1か月後には誘発地震とも言える三河地震が発生し、損壊した家屋の多くが倒壊し、疎開児童の多くが命を落としました。

 敗戦の色が濃くなり始めたときの大地震の続発であり、軍部による情報統制がされましたが、今にして思えば、この時点で戦争終結の決断ができていれば良かったと思います。残念ながら、その後、3月の東京空襲で10万人、5月の沖縄陥落で24万人、広島と長崎の原爆投下で23万人などが犠牲になり、全てで310万人を超す戦争犠牲者を出して8月に終戦に至りました。

戦後の災害

 終戦1か月後の45年9月には枕崎台風が原爆被災地・広島を直撃し、さらに、46年南海地震、47年カスリーン台風、48年福井地震などと大災害が続きました。日本は戦災と震災によって、歴史上最も厳しい状況に陥ることになりました。

 最貧国になった日本は、50年に始まった朝鮮戦争による特需で息を吹き返しました。先週、朝鮮戦争休戦から70年を迎えましたが、隣国の不幸の上に日本の復興があったことを忘れないでおきたいと思います。その後、51年にサンフランシスコ講和条約を締結することで、日本は国際社会に復帰することになりました。

災禍と歴史

 日本の歴史教育は、文明史や人物史が中心になっていて、災禍の歴史を学ぶことは殆どないため、災禍と歴史との関わりを感じている人は多くありません。ですが、元禄の時代には、1703年元禄地震(関東地震)、07年宝永地震(南海トラフ地震)、宝永噴火(富士山)、08年京都大火が続発し、幕末の安政の時代には、1854年安政東海地震・南海地震、55年安政江戸地震、56年安政江戸台風、58年安政コレラなどがありました。何れも歴史の転換期と重なります。

 現代も、2011年東日本大震災、2020年新型コロナウイルス感染症と続き、南海トラフ地震、首都直下地震、富士山噴火などが心配されています。元禄や安政の時代を思い出せば、南海トラフ地震、首都直下地震、富士山噴火の大連動を荒唐無稽と一笑に付することはできなさそうです。関東大震災100年をきっかけに、歴史に学び、災害に負けない社会を皆で作っていく決意を新たにしたいと思います。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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