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関東大震災から100年、3度の関東地震をはじめ多くの被害地震が周年を迎える2023年

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(提供:イメージマート)

2023年に周年を迎える被害地震

 新年あけましておめでとうございます。今年は、多くの地震災害が周年を迎えます。中でも、相模トラフ沿いでの関東地震、日本海溝・千島海溝沿いでの地震、日本海東縁のひずみ集中帯での地震が数多く起きました。また、平安時代や、幕末、戦中に起きた時代を画す地震もあります。改めて過去の災禍を振り返ってみます。

相模トラフ沿いでの3つの関東地震

 相模トラフ沿いで起きた3つの関東地震が、いずれも周年を迎えます。北アメリカプレートの下にフィリピン海プレートが潜り込む場所でのプレート境界地震で、1293年5月27日に起きた永仁鎌倉地震、1703年12月31日に起きた元禄関東地震、1923年9月1日に起きた大正関東地震(関東大震災)の3つです。中でも大正関東地震は、今年100年を迎えます。

 永仁鎌倉地震では、建長寺をはじめとして鎌倉の寺社が多数倒壊し、2万人を超す死者が出たとの記録もあります。当時の日本の人口は1000万人を下回っていましたから、現代に換算すると数十万人の死者に相当します。この地震をきっかけに、正応から永仁に元号が変わりました。

 元禄関東地震は、大正関東地震よりも一回り大きな地震で、外房沖にまで震源域が広がったようです。このため、房総半島で6千人を超す死者が出ました。一方で、江戸府内の死者は340人にとどまりました。同じ日には九州でも豊後地震が起きており、誘発地震の可能性があります。この年の1月30日には赤穂浪士の討ち入り事件も起きており、1703年は激動の年でした。このためか、1704年には元号が元禄から宝永に改められました。関東地震の4年後の1707年には、南海トラフ沿いでの宝永地震と富士山の宝永噴火が起き、翌1708年には京都が宝永の大火で焼失しました。こういった中、1709年から新井白石による正徳の治が始まりました。

 今年、100周年を迎える大正関東地震(M7.9)では、東京府で約7万人、神奈川県で3万人強など、10万5千人を超す犠牲者が出ました。中でも東京市と横浜市の死者が多くを占めました。特に、東京では、軟弱地盤への都市拡大もあり、元禄地震の200倍もの犠牲者になりました。死者の約9割は焼死でしたが、家屋倒壊による犠牲者も1万人を超え、津波や土砂災害による死者も多く発生しました。経済被害は当時の国家予算の3倍にも及び、経済安定のためモラトリアムや震災手形なども出されました。震災後、後藤新平らによる帝都復興計画に基づき、首都の再建が進められ、東京の都市基盤が作られました。この地震の後、日本各地で地震や水害・大火が頻発し、暗い時代へと変わっていきました。

日本海溝・千島海溝沿いでの地震

 太平洋プレートが北アメリカプレートの下に潜り込む日本海溝・千島海溝沿いでも、多様な地震が沢山発生しています。1793年2月17日には寛政地震が発生しました。この地震は、1978年宮城県沖地震の震源域に加え日本海溝寄りの震源域も連動したM8.2の巨大地震と考えられています。

 1843年4月25日には天保十勝沖地震が起きました。この地震は十勝沖と根室沖に震源域が広がっていたようです。

 1933年3月3日には、M8.1の昭和三陸地震が起きました。2万人以上が犠牲になった1896年明治三陸地震に伴うアウターライズ地震だと考えられています。揺れの被害は少なく、津波によって3000人を超す死者・行方不明者が出ました。

 大正関東地震からこの地震までの10年間には、1925年北但馬地震、1927年北丹後地震、1930年北伊豆地震、1931年西埼玉地震が続発し、その間に、1927年金融恐慌、1931年満州事変、1932年5・15事件が起き、昭和三陸地震の翌週には国際連盟を脱退しています。その後、2・26事件や日中戦争を経て、太平洋戦争に突入しました。

 戦後にも周年を迎える地震が多数発生しています。1963年10月13日の択捉島沖地震(M8.1)、1973年6月17日の根室半島沖地震(M7.4)、1993年1月15日の釧路沖地震(M7.5)、2003年9月26日の十勝沖地震(M8.0)などです。十勝沖地震では長周期地震動によって苫小牧でタンク火災が発生しました。

 2003年には、東北地方内陸部でも、5月26日に三陸南地震(M7.1)、7月26日に宮城県北部連続地震(M6.4)が発生しています。

 昨年には、中央防災会議から日本海溝・千島海溝沿いの被害想定結果が示され、12月16日からは北海道・三陸沖後発地震注意情報の仕組みも始まりました。この地域は、高い地震発生確率が示されていますから、備えを進めたいと思います。

日本海東縁ひずみ集中帯での地震

 日本海の東縁で起きた地震の多くも周年を迎えます。江戸時代には1833年12月7日に庄内沖地震が起きました。最近では、1983年5月26日に日本海中部地震(M7.7)、1993年7月12日に北海道南西沖地震(M7.8)が発生しています。いずれも甚大な津波被害を受けました。中でも北海道南西沖地震では、震源域直上に位置した奥尻島では、避難猶予時間が不足し、202人の犠牲者を出すなど大きな被害になりました。

 この地域では、1964年に新潟地震(M7.5)も起きています。1995年に兵庫県南部地震(M7.3)が発生するまでは、東海地震をはじめとする太平洋岸の地震発生に多くの関心が集まっていたため、不意打ちのように感じた人も多かったようです。これらの地震を受け、ユーラシアプレートと北アメリカプレートが接する周辺での日本海東縁ひずみ集中帯の存在が指摘されるようになりました。

時代を画す先駆けとなった地震

 このほかにも、時代を画すような地震が周年を迎えます。六国史の一つ日本三代実録には、863年7月10日の越中・越後の地震の記述があります。この年には疫病が蔓延し、京都の神泉苑で御霊会が行われています。この年以降、様々な天変地異が続きました。864年の富士山の貞観噴火や阿蘇山噴火、868年の播磨国の地震、869年の東北地方太平洋沖での貞観地震などです。菅原道真が官吏登用試験の方略試に合格したのは870年で、2問のうち1問は「地震について弁ぜよ」でした。地震に対する関心の大きさが分かります。この間には摂関政治も始まり、これらの地震の後、878年相模・武蔵の地震、887年仁和地震(南海トラフ地震)などが起き、遣唐使の廃止、国風文化の芽生えと時代が続きました。

 江戸末期の1853年3月11日には嘉永小田原地震が起きました。この地震の4か月後に、ペリーが浦賀沖に黒船で来航します。翌1854年には、日米和親条約の締結に続いて、伊賀上野地震、安政東海地震・南海地震が起き、さらに1855年に安政江戸地震が発生しました。その後も、地震、台風、疫病などが続発する中、大政奉還を迎えます。

 太平洋戦争さなかの1943年9月10日には鳥取地震(M7.2)が発生しました。この地震の後、1944年東南海地震、1945年三河地震、1946年南海地震、1948年福井地震と大地震が続発します。たった5年の間に、2つの南海トラフ地震と3つの活断層による地震が起きました。この間には、1945年に枕崎台風が広島を、1947年にカスリーン台風が東京を直撃しています。日本は敗戦による戦災と震災の中、歴史上最も苦難な5年間になりました。その後、1950年の朝鮮戦争特需、1951年サンフランシスコ講和条約締結を経て復興への道のりを始めました。

 このように、2023年は、多くの地震災害が周年を迎えます。それぞれの教訓を思い出すことでしっかり備え、これからの震災を未然に防ぎたいと思います。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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