大阪ミナミの千日デパートでのビル火災

 50年前の1972年5月13日の22時27分に、大阪ミナミの難波に建つ千日デパートビルの3階から出火して、2階から4階までの8,763平米が延焼しました。この火災で、7階で営業中だった風俗店の従業員と客が大量の煙に襲われ、118人が死亡し、81人が負傷しました。この火災をきっかけに、消防法や建築基準法の関係法令が改正され、日本の火災対策が整えられることになりました。

改修を繰り返した古い雑居ビル

 千日デパートビルは、1932年に大阪歌舞伎座として建設された地上7階建、地下1階、塔屋3階の古い鉄骨鉄筋コンクリート造の建物でした。1958年に複合商業施設として改修され、延床面積は約27,500平米でした。屋上には1960年に観覧車が設置されていました。

 火災発生当時は、地下1階は食品館や飲食店など、1階と2階は126店舗の専門店街、3階と4階は大手衣料品スーパーのニチイ、5階はスーパー、6階は遊技場、7階にはアルバイトサロン「プレイタウン」が入店していました。6階以下の営業時間は10時から21時までで、7階の風俗店だけが年中無休で23時まで営業していました。

営業時間外に3階から出火し、煙が7階の風俗店に流入

 千日デパートが閉店して1時間半ほど経った22時27分ごろ、3階のニチイの布団売場付近から出火したとされています。3階で電気設備工事を行っていた工事関係者によるタバコの不始末が原因だと推察されています。防火シャッターが閉まっていなかったエスカレーター開口部や階段出入口から火が2階と4階に燃え広がりました。火災で燃焼した化繊商品や内装材などから発生した一酸化炭素を多量に含んだ煙がエレベーターシャフトや階段、空調ダクトなどの竪穴を通じて最上階の7階に流れ、営業中だった風俗店に充満しました。

短時間で風俗店に白煙が流入

 火災発生当時、3階では改装のための電気設備工事が行われていました。作業者の一人が火災に気がついたのは、22時32分ないし33分ごろです。作業者は消火器を探したり、火災報知機を押したりしました。22時34分に1階にあったデパート保安室でも火災報知機で3階の火災を検知しました。保安係員はすぐに3階に行きましたが、初期消火ができず、防火シャッターの閉鎖をすることなく避難しました。

 営業中だった7階の風俗店で最初に異常を感じたのは、22時36分から39分にかけてでした。エレベータードアの隙間やトイレの通風孔、換気ダクトなどから白煙が噴出しているのが目撃されましたが、緊迫感はなかったようです。火災発生後わずか10分、最初に火災に気づいてから5分で7階に煙が達していました。この時点で適切な対応ができていれば多くの犠牲者を出さずに済んだと思われます。

119番通報と共に黒煙が流入

 保安係長が119番通報を行ったのは、22時40分です。残念ながら風俗店には火災発生の連絡はありませんでした。この直後に、4階にも延焼し始め、ホールや通路に煙が充満し、煙の色が黒く変わり、臭気と熱気を含むようになりました。22時42分には、風俗店内の全ての人が火災であることに気づきますが、避難誘導はされず、地上への逃げ道が分からない中、7階で孤立し、パニック状態になったようです。わずか数分のできごとです。22時42分に、消防隊の第一陣が出動し、43分には、現場に到着し、すぐに放水準備が行われました。通報後3分での到着です。このころに火災は2階へも延焼し始めました。

消防隊の到着と救出活動まで

 22時44分ごろ、孤立状態になった風俗店では、パニック状態の中、窓ガラスを割り、救助を求め始めます。22時46分には、救助袋が地上に投下されましたが、救助袋の先端におもりが括られておらず、また、救助袋の入り口を開くことに失敗します。22時48分ごろから、はしご車の救出を待ちきれずに、地上へ飛び降りる人が出始めます。22時49分には、風俗店が停電して、室内の人は暗闇の中、一酸化炭素中毒で動けなくなります。22時50分ごろからは、猛煙と熱気に耐えかねて窓から地上へ飛び降りる人が続出します。伸長中のはしご車に乗り移ろうとしたり、救助袋に馬乗りになったりして地上へ落下する人もいました。

はしご車による救助

 22時44分には最初のはしご車が現場に到着し、45分からはしごを伸長し始め、47分から救出を開始しました。22時46分には大阪市消防局内の全てのはしご車の出動要請をし、51分、52分、54分、55分とはしご車が続々と到着します。119番通報からわずか15分で5台ものはしご車が到着しています。ちなみに、大阪市消防局は8台のはしご車を保有し、うち7台が出動しました。22時55分ごろから、はしご車での救出活動が本格化し、30分ほどで、50人を救出しました。

風俗店に居た人の2/3が犠牲になる

 風俗店には、客57人、ホステス78人、従業員35人、バンドマン10人、ダンサー1人の合計181人が滞在していたそうです。彼らは、火災の通報を受けることなく、逃げ遅れ、煙に巻かれて、118人の死者を出すことになりました。死因は、一酸化炭素中毒や窓からの飛び降り、救助袋での脱出途中の落下などでした。一方、風俗店から生還できたのは63人で、50人がはしご車、3人が救助幕で救助され、8人が階段やエレベーター、救助袋で自力脱出し、2人が飛び降りて助かりました。

甚大な被害になった要因

 死因は、「火」ではなく「煙」でした。速やかな情報伝達、初期消火、延焼防止、煙の遮断、早期避難、避難経路確保など、何れかができていれば犠牲者を最少にできたはずです。

 ですが、古い建物は法が不遡及な既存不適格建物だったため、スプリンクラーや非常階段、防火扉や非常口などの整備が十分でなくても合法でした。また、多くの店舗が入居する雑居ビルだったため、管理体制が不十分で、共同での防火訓練や防災意識、保安管理に問題がありました。上下につながる複数の竪穴が各階で閉鎖されなかった問題もあります。とくに7階の風俗店に関しては、火災発生情報が届かなかったこと、防火管理者の避難誘導が不十分だったこと、救助袋が破損していて誤った使用をしたことなどが状況を悪化させました。

火災後の様々な対応

 甚大な被害を受けて、被害原因の究明のため、様々な検証実験や火災実験が行われ、複数の調査研究も行われました。これらを受けて、1972年12月に消防法施行令が、1973年8月に建築基準法施行令が改正されました。消防法施行令については、防火対象物や防火管理、消防用設備に関わる事項が強化されました。建築基準法施行令では、煙対策や避難施設が強化され、防火区画、2方向避難、地下街区画、内装制限などの事項が改正されました。

 翌年、1973年11月29日、熊本市の大洋デパートで死者104人を出すビル火災が起きたことを受け、1974年6月に消防法が改正されました。内容は、既存不適格の防火対象物に対しても消防用設備等設置の遡及適用を行うという、画期的なものです。とくに、火災報知器や避難誘導用設備などは、防火対象物の区分や用途に関わらず遡及適用することになりました。

 既存不適格の問題は、火災対策だけに限りません。耐震基準についても同様の課題を抱えており、旧耐震基準の建物の多くが耐震補強をされずに残っています。今年は、ホテルニュージャパン火災から40年、千日デパート火災と北陸トンネル火災から50年、銀座大火から150年、明和の大火から250年を迎える年です。昨年末には北新地のクリニックで放火があり、27人が死亡しました。改めて、備えあれば憂いなしとするために、火災の怖さを思い出すと共に、災害に関わる法制度のあり方を考えたいと思います。