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明治以降に3度も焼失した銀座、150年前の大火で煉瓦街が生まれ日本一の繁華街に

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(写真:イメージマート)

銀座の由来

 江戸開府と共に、徳川家康が、駿府にあった銀貨鋳造所を江戸に移し、新両替町に銀座役所を作りました。これが銀座の地名の由来になりました。ちなみに、金座は日本橋の日本銀行本店の場所にありました。銀座は江戸前島の上に位置しており、徐々に周辺が埋め立てられていきました。日比谷の入江を埋めた場所にあるのが大・丸・有です。その後、銀座周辺に、呉服店や芝居小屋などができ、賑わうようになりましたが、幕末には廃れていたようです。そんな銀座を、今から150年前、明治5年(1872年)に大火が襲いました。この年の10月14日に、新橋から横浜まで日本初の鉄道が開業することもあり、銀座の復興が図られました。

銀座の大火

 1872年4月3日の午後3時頃に、今の和田倉門の皇居外苑にあった兵部省から出火し、強風に煽られて外濠を超えて銀座にまで火災が広がり、さらに、三十間堀川を超えて築地まで焼き尽くしました。焼失面積は100ヘクタール弱、焼失戸数は5千戸弱にも達しました。日本で最初に作られた本格的ホテルの築地ホテル館も焼失してしまいました。日本初の鉄道の起点の新橋ステーションに隣接する場所でもあり、明治政府は近代化のシンボルとして西洋風の街を作る都市改造に取り組みました。

銀座の煉瓦街

 当初、東京府知事だった由利公正が中心になって事業を進める予定でしたが、由利が岩倉具視使節団に加わったため、大蔵省が中心になって復興を進めることになりました。大火からの復興なので、不燃都市を目指し、道路の拡幅による街路整備と煉瓦家屋による再建が行われました。設計は、お雇い外国人のトーマス・ジェームズ・ウォートルスが行いました。

 まず、東京府が全焼失地域を買収して区画整理を行い、拡幅した通り沿いに洋風の2階建ての街並みを作りました。建設には、当時の政府予算の4%もの大金が投入されました。銀座通りの道路幅は27mで、煉瓦敷きの歩道が整備され、ガス灯や桜・松・楓の街路樹も整備されました。碁盤の目状に整えられた街区は、今の銀座の基礎になっています。

 その後、銀座は、新橋ステーションの駅前商店街として賑わいました。西洋からの新しい商品を売る商店や、情報発信を先駆けた新聞社が進出し、勸工場という百貨店のような大規模商業ビルもできて、多くの人が集まりました。さらに、文化人が集まる社交サロンのカフェーが開設され、皆の憧れの街になっていきました。

関東大震災により灰燼に帰す

 大正時代になると、銀座の煉瓦街は日本風に改造され、街路樹も柳に変わったようです。こういった中、1920年に東京市長に就任した後藤新平は、1921年に「東京市政要綱」を発表し、東京の大規模な都市改造を計画しました。当時の国家予算が15億円なのに、8億円もの費用を要する計画で、「後藤新平の大風呂敷」とも言われて実現はされませんでした。その内容は、道路、ごみ処理、社会事業施設、教育、上下水、住宅、電気・ガス、港湾、河川、公園、葬祭場、市場、公会堂などにも及ぶものでした。この一環として、銀座通りの車道を拡張し、柳をイチョウに植え替え、歩道をコンクリート舗装にするという計画が作られ、1921年に実行されました。そんな街を、1923年9月1日に関東大震災が襲い、揺れと火災で銀座の煉瓦街はほぼ全滅しました。

震災からの復興

 震災の後、逞しい銀座の人たちは、前衛芸術家と協力してモダンなバラック建築を建て、2か月後には店開きをしたそうです。さらに、後藤新平が主導した帝都復興計画により、晴海通りが拡幅され、広幅員の昭和通りが作られました。1924年には松坂屋がオープンし、翌年には、松屋デパートが進出するなど、百貨店と高級専門店が混在する新たな賑わいの街ができました。さらに、昭和になると、銀座三越も開店し、日比谷には映画館や劇場街ができ、地下鉄も浅草から銀座へとつながりました。そして、多くの飲食店が集まり、華やかな夜の街も生まれました。このようにして、銀座は、日本橋や浅草を凌ぐ日本一の繁華街になりました。

太平洋戦争で焼け野原になった銀座の復興

 太平洋戦争が始まり戦況が悪化すると、銀座では街灯や都電のレールが取り外され、劇場も閉鎖され、街の華やかさは失われました。そして、1945年1月27日以降、3月9日、10日、5月25日の度重なる空襲で、銀座はほぼ全域が焼失ました。

 終戦後は、焼け残った松屋や和光など、大きなビルはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収され、米軍用の売店になりました。銀座通りには米軍相手の商売をする露店が軒を並べたようですが、衛生面の問題からGHQの命令で1951年に廃止になりました。そして、サンフランシスコ講和条約の締結を受けて、1952年に和光や松屋が返還され、銀座の復興が始まりました。その後、銀座周辺の川や堀が埋め立てられ、高速道路や地下鉄が整備されていきました。川や橋の名残は、京橋、新橋、数寄屋橋などの地名に残っています。

望まれる銀座のビルの耐震化

 1960年代には、1967年に銀座通りを走っていた都電が廃止され、自動車社会に相応しい形に、銀座通りが改修されました。その結果、電柱が無くなって電線が地中化され、歩道の幅が広がり、街路樹や街灯なども一新されました。そして、1970年から銀座通りでの歩行者天国がスタートしました。銀座にある有名なビルの多くは、この時期に建設されました。

 実は、これらのビルは1981年より前の旧耐震基準で設計されています。このため耐震的に問題が残る建物が数多くあります。東京都中央区が公表しているデータによると、銀座通りに面して建てられた旧耐震基準で作られた建物の約半数が、耐震的に問題があることが分かっています。公表がされていない裏通りの建物はもっと厳しい状況にあります。首都直下地震の今後30年間の地震発生確率は90%だと言われています。国内外から人が集まる日本一の繁華街ですから、日本中の繁華街の範を示すためにも、早期に耐震化が行われることが望まれます。

参考文献

TOKYO GINZA Official ヒストリー https://www.ginza.jp/history

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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