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耐震のはなし 日本の耐震基準は命を守る最低基準、生活や生業はどうなる?

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(写真:つのだよしお/アフロ)

100年ほど前に作られた日本の建物の法制度

 日本の都市や建物の法制度は、100年ほど前に整備されました。1919年に公布された都市計画法と市街地建築物法です。都市や市街地という名前から分かるように、法律の対象地域は、東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸の6大都市だけでした。これらの法律によって、今でも使われている都市計画区域、用途地域、防火地区などが定められました。合わせて、鉄筋コンクリート(RC)造や鉄骨造の建物を対象に、百尺制限や構造計算法などが定められました。

 百尺制限は、建物を高さ100尺までに規制するものです。構造計算法は、建物の重さ(固定荷重)や、床上の積載物(積載荷重)など、下向きに作用する力(鉛直荷重)に対して安全性を確認する計算法です。これ以降、日常的に作用する鉛直荷重に対して、建物の安全性を科学的に確認することになりました。

火災だけでなく家屋倒壊もひどかった関東大震災

 2つの法律が定められた4年後の1923年に関東大震災が起きました。この震災では東京や横浜を中心に10万人を超える人が亡くなりました。犠牲者の多くは火災が原因でしたが、家屋倒壊、津波、土砂災害による犠牲者も多く発生しました。経済被害は当時の国家予算の3倍を超え、日本社会は大きなダメージを受けました。この震災以降、被害地震が続発し、日本は、戦争へと突き進んでいきました。

 大震災では、火災の前に、強い揺れによって11万棟弱もの家屋が全潰し、潰れた家によって1万人以上の人が命を落としました。この数は家屋倒壊が著しかった阪神・淡路大震災を上回ります。このため、市街地建築物法に世界初の耐震規定が定められることになりました。

震度法による耐震設計

 関東大震災では、東京・丸の内に建つ多くのビルが倒壊しました。ですが、塔博士で有名な内藤多仲が設計した完成3か月後の旧・日本興業銀行本店は軽微な被害に留まりました。この建物は、耐震壁を配した7階建ての鉄骨鉄筋コンクリート造で、水平震度1/15を用いた震度法で設計されていました。水平震度とは地震によって建物に作用する水平力を重量で除した値で、建物の水平応答加速度と重力加速度(980ガル)の比に対応します。ですから、水平震度1/15は、65ガル程度の揺れを意味します。

 震度法は、佐野利器が1915年に「家屋耐震構造論」で提案した方法です。佐野は、1906年に起きたサンフランシスコ地震の被害調査をして、RC造や鉄骨造の耐震性の高さを実感しました。佐野の指導を受けた内藤は、大震災の前年の1922年に「架構建築耐震構造論」を発表し、翌年に完成したのが日本興業銀行本店です。この震災で耐震設計の大切さが分かり、市街地建築物法に耐震規定が定められることになりました。ちょうど、阪神・淡路大震災で免震の有効性が実証され、免震建物の普及が進んだことに似ています。

市街地建築物法における耐震基準

 関東大震災を受けて、1924年に市街地建築物法が改正されて、耐震規定が加えられました。水平震度0.1、コンクリートの安全率は3.0と定められましたので、300ガル(震度6弱と6強の境くらいの建物の揺れに相当)に対して安全性を確かめることを意味します。地震学者の石本巳四雄が東京本郷の加速度を300ガル程度と推定していたことが根拠のようです。当時のRC造建物は壁が多くて堅かったので、建物と地盤の揺れは同程度だと考えたのだと思います。

 気を付けないといけないのは、本郷の揺れは小田原、横浜、東京下町に比べ、弱かったということです。すなわち、家屋被害が甚大になる震度7のような強い揺れに対しては、建物の安全性は保障していないことを意味します。

建築基準法の制定

 戦時下の1943 年に資材節約のため臨時日本標準規格が制定され基準が緩和されましたが、1944年東南海地震、1945年三河地震、1946年南海地震などの被害地震を経て、1947年に日本建築規格3001号が制定されました。この規格では、常時作用する鉛直荷重は長期荷重、稀にしか作用しない地震荷重は短期荷重と考え、短期荷重の安全率を1.5と半減しました。そこで、従来と同等の耐震性を確保するために、荷重を倍にし、水平震度を0.2と倍に引き上げました。

 その後、1948年福井地震を経て、1950年に建築基準法が制定されましたが、耐震基準の基本的な考え方は日本建築規格を踏襲しています。

最低基準の建築基準法

 建築基準法の第一条には、「この法律は、建築物の敷地、構造、設備及び用途に関する最低の基準を定めて、国民の生命、健康及び財産の保護を図り、もつて公共の福祉の増進に資することを目的とする。」と法の目的が記されています。国民が建物を建てる自由を認めた上で、公共の福祉のため必要最小限の規制を行うことを目的にしています。

 これは、憲法第13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」にある基本的人権、第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」にある生存権、第29条「財産権は、これを侵してはならない。」「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」にある財産権に基づいています。

 国民の最低限の生存権を保障し、公共の福祉に反しない範囲で、国民の財産権を保障しようとする最低基準です。ですから、震度7のような強烈な揺れに対してまで生命を保障した基準ではありません。

地盤・建物の揺れやすさによって異なる地震被害

 建物の耐震設計に用いる地震力は建築基準法施行令第88条に規定されています。そこには、「標準せん断力係数は、0.2以上としなければならない。」と記されています。標準せん断力係数とは、建物全体の平均応答加速度と重力加速度の比を意味します。すなわち、200ガル程度の建物の揺れに対して耐震性を確認していることになります。

 最近の建物は、昔の建物に比べて背が高く、壁量も少ないので、地盤の揺れに比べて建物の揺れが強くなりがちです。例えば、建物内で揺れが2~3倍に増幅されたとすると、地盤の揺れは70~100ガルとなり、安全率1.5を考えても100~150ガル程度しか考えていないことになります。すなわち、震度5強程度の揺れで、建物に被害が生じ始めても仕方ないことを意味します。

 2018年大阪府北部の地震では、1200億円程度の地震保険金が支払われていますが、震度5強の地域では一部損の支払いが10~20%程度になっていました。また、この地震では6万台を超えるエレベーターが緊急停止し、多くの人が閉じ込めになりました。このように、今の耐震基準では、命を守ることはできても、建物の損傷は許容しているので、生活や生業を維持するのは難しそうです。

 市街地建築物法から約100年、建築基準法から約70年が経ちます。現代は、戦後の貧しかった時代とは異なり、豊かで成熟した社会です。命を守ることを主眼にした最低基準から、生活や生業を継続できる建物を実現する基準へと変えていく時期のように思います。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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