明治維新以降の大改革で近代化を短期に達成

 明治に入って新政府は大改革を進めます。江戸を東京と改めて京都から遷都し、1871年、廃藩置県で中央集権化する一方、岩倉具視を全権大使とする使節団を欧米に派遣します。伊藤博文、大久保利通、木戸孝允などの重鎮が欧米の実情を視察し、富国強兵の大切さを学びます。1872年には、新橋-横浜間に鉄道を開通させます。

 矢継ぎ早の改革に不満を持つ士族が1877年に西南戦争を起こしますが、明治政府はこれを鎮圧し、より強固な体制を作りました。1877年には東京大学を設立し、1879年に富岡製糸場が操業を始めるなど、近代化を担う人材育成と工業化に取り組み、明治維新から僅か10年で近代化を成し遂げました。その背景には、江戸幕府が進めていた近代化への準備も役立ったと思います。

 立憲国家としての体制も整えられます。明治天皇が1876年に憲法の起草を命じ、1881年に国会開設の勅諭を示したことを受け、1889年2月11日に大日本帝国憲法が公布され、1890年11月に第1回帝国議会が開会されます。さらに、1889年7月1日には、新橋から神戸を結ぶ東海道線が前線開通します。明治維新から20年で、日本は近代国家としての形を整えたことになります。

列強の駆け引きの中、日清戦争に勝利する

 この間、欧米では、1869年にスエズ運河が開通し、1870年に普仏戦争が起きます。ビスマルク率いるプロイセンが、ナポレオン3世が率いるフランスに完勝し、1871年にドイツ帝国ができ、イタリアも統一を果たします。その後、ビスマルクは、フランスの脅威を感じ、1882年にドイツ、オーストリア・ハンガリー、イタリアの間で三国同盟を結ぶと共に、ロシアとの関係にも気を配ります。

 1877年に起きた露土戦争でオスマントルコに勝利したロシアは、東アジアでも満州や朝鮮半島への南下を目論んでいました。これを危惧した明治政府は、朝鮮の近代化を図りますが、朝鮮を属国とする清との対立が深まり、1894年に日清戦争を始めます。装備の近代化に先んじた日本が勝利し、下関条約で多額の賠償金を得ます。賠償金の一部は、八幡製鉄所の建設に利用され、重工業化が促進されました。朝鮮は清から独立し、大韓帝国になります。

近代化した日本を襲った大地震

 近代化に成功した日本を大地震が襲いました。1891年10月28日に発生した濃尾地震です。内陸で起きた過去最大のM8.0の巨大地震です。根尾谷断層などの活断層がずれ、7273人が犠牲になりました。当時の日本の人口は4000万人程度ですから、2011年東日本大震災を上回るダメージだったと思います。この地震が起きるまで、明治初期にはいくつかの地震や火山噴火を経験していました。1872年3月14日に島根県で浜田地震が発生し、500人以上の死者が出ました。1875年には東京気象台(1887年に中央気象台に改組)が設置されます。

 1880年2月22日には、横浜で小規模な地震が起き、煙突が多数倒壊しました。来日していたお雇い外国人教師たちは地震の揺れに驚き、世界で初めて地震を専門とした学会の日本地震学会を設立します。そして、地震計の開発などを行い、1885年には地震観測網を整備します。

 1888年7月15日には磐梯山が大噴火し山体崩壊によって500人弱の人が犠牲になりました。五色沼をはじめとする大小の美しい湖沼は、この噴火によってできたものです。

 1889年7月28日には明治熊本地震が発生します。被害写真が残る最古の地震です。この年の9月16日には、オスマントルコの戦艦エルトゥールル号の遭難事件が起きます。和歌山の串本沖で、台風の強風にあおられて座礁・沈没し、500名以上の乗組員が犠牲になりました。地元住民の懸命の救出活動で69人を救助し、日本海軍が生存者をトルコに送り届けました。1985年イラン・イラク戦争のとき、イランから脱出できなかった邦人215名をトルコ航空機が分乗させて帰国させてくれたことは、このときの感謝のしるしだったようです。

濃尾地震でできた震災予防調査会で地震学・耐震工学が始まる

 濃尾地震では、根尾谷の水鳥で、水平に8m、上下に6mもの断層ずれが生じました。この地震では、西洋から導入された煉瓦造の建物や東海道線の鉄橋が大きな被害を受けました。このため、地震後、震災予防調査会を文部省に設置し、地震学や耐震研究を推進します。

 調査会は重点課題として、「一、何如なる材料、如何なる構造は最も能く地震に耐ふるものなるや。二、建物の震動を軽減するの方法ありや。三、如何なる種類の建物は危険なるや。其取締り法何如。四、日本中何如なる地方は震災最も多きや、一地方に於ても多き部分と少き部分との区別ありや。五、何如なる地盤は最も安全なるや。六、地震を予知するの方法ありや否や。」の6点を掲げました。地震予知、建物の耐震性向上、過去の地震史の編纂など、重要な課題が列記されています。

 濃尾地震後には、1894年3月22日に根室半島沖地震、6月20日に明治東京地震が起き、7月25日に日清戦争が始まります。さらに戦争中の10月22日に庄内地震、1895年1月18日に霞ヶ浦付近の地震が起きます。

 日清戦争の帰還兵の検疫に当たったのは、後藤新平です。後藤は、臨時陸軍検疫部事務官長として、2ヶ月間、似島検疫所で検疫業務に就き大きな成果を残しました。児玉源太郎に認められた後藤は、日清戦争で割譲された台湾の民政長官に就き、衛生行政にも取り組みます。これは、現在の台湾での感染症対策にも生きているように感じます。

 日清戦争に勝利した翌年には、1896年1月9日に茨城県沖の地震、6月15日に明治三陸地震が、8月31日には誘発地震ともいえる陸羽地震も起きました。明治三陸地震はゆっくり地震で揺れが小さかったこと、旧暦の端午の節句の日で、日清戦争の帰還兵の凱旋の祝宴が行われていたことなどから、2万人を超える津波犠牲者を出しました。

蒸気機関、内燃機関、電気などの技術開発と石油・石炭の資源開発

 この時期、人力や馬力に頼っていた動力の大変革があり、蒸気機関を用いた蒸気船や蒸気機関車が登場しました。実用化された蒸気船は1838年にアイルランドからニューヨークに航行したシリウス号、蒸気機関車はスティーブンソンが1829年に開発したロケット号で、これ以降、急速に普及します。

 電気に関しても、1830年代にスコットランドのアンダーソンが電気自動車を発明し、1886年ごろに電気自動車が実用化されました。また、ベルが1876年に有線電話を発明し、エジソンが1877年に蓄音機を、1882年に電球を発明しました。

 1860年にはフランスのルノワールが石炭ガスを燃焼させて動力を取り出す内燃機関を開発し、軽量・コンパクトな動力を作りました。さらに、1885年にベンツが初めて三輪のガソリン自動車を開発、同年にダイムラーも改良型エンジンを用いた二輪車を開発しました。

このように、19世紀後半に技術変革が起こり石炭や石油の資源開発競争も始まりました。

日露戦争に勝利し大正デモクラシーに

 日清戦争で勝利した日本は、露・仏・独の三国干渉によって清から得た遼東半島を返還しました。列強各国は、小国・日本に敗れた大国・清を見て、清を蝕んでいきます。その中、ロシアは南下政策を進めます。1899年に開戦した南アフリカ戦争などで自ら対応ができなかったイギリスは、1902年に日本と日英同盟を結び、南下を抑止しようとします。そして、1904年に日露戦争が始まります。日本は、旅順を攻略し、1905年5月27~28日の日本海海戦に勝利します。バルト海からの大航海でバルチック艦隊は疲弊していたようです。日本は、6月2日に起きた芸予地震による呉の海軍基地の被害を秘匿し、日露戦争に勝利します。国力が圧倒的に劣る日本が大国・ロシアを破ったことは、列強に苦しめられる国々に勇気を与えました。これに触発されたオスマントルコでは、1908年に青年トルコ革命が起きます。

 日露戦争後、1906年にロシアから譲渡された南満州鉄道の初代総裁に後藤新平が就き、台湾での経験を生かして満州経営を進めます。1910年には韓国を併合し、1912年に護憲運動が始まります。この時期、大正デモクラシーとよぶ民主主義的な運動も芽生えました。

 一方、中国では、1911年に辛亥革命が起き、清が滅亡し、孫文が中心となって中華民国が建国します。

混とんとするヨーロッパで第一次世界大戦

 ヨーロッパでは、ドイツが三国同盟により軍事力を強化しますが、これに脅威を感じたイギリス・フランス・ロシアが1907年に三国協商を結びます。そして、一触即発の状況の中、1904年にバルカン半島から第一次世界大戦が始まります。連合国と協商国との総力戦で、ヨーロッパは焼け野原になりました。4年に及ぶ戦争で戦死者は1000万人にも上りました。

 大戦では、潜水艦、飛行機、戦車、毒ガスなどの最新兵器が導入されました。潜水艦は1900年にホランドが設計した潜水艦ホランド号がアメリカ海軍に就役したのが最初で、ドイツのUボートが有名です。1903年にライト兄弟が有人飛行に成功した飛行機も、偵察機や軍用機に使われました。また、膠着した地上戦を有利にするために、英仏が戦車を開発しました。そして、ドイツは塩素ガスを毒ガスに用います。19世紀後半に生み出された新技術が兵器開発に使われ、勝敗を左右することになりました。

 戦後、1919年にパリ講和会議が開催され、ヴェルサイユ条約が結ばれました。ドイツは全ての植民地を失い、多額の賠償金を負うことになりました。日本は、南洋諸島の統治権を得ます。条約に基づいて、1920年に国際連盟が創設され、日本も常任理事国に加わりました。戦地から離れていたアメリカと日本は、大きな利益を得ることになり、空前の好景気となりました。

大戦前後の災禍

 アメリカでは中心都市のシカゴとサンフランシスコが大きな被害を受けます。1871年10月8日にシカゴ大火が起きました。アメリカでの19世紀最大の災害で、大火後、シカゴは再開発され摩天楼の町に変身します。1906年4月18日にはサンフランシスコ地震が起きます。大火も起き、3000人もの死者を出します。この地震の後、西海岸の中心都市がロサンジェルスに移っていきます。

 日本では、1909年8月14日に琵琶湖東岸で姉川地震が起きます。1910年8月には、明治43年の大水害が起き、埼玉県の低地や東京下町が水没しました。

 1914年1月12日午前10時過ぎには桜島の大正大噴火が起き、58人が亡くなります。溶岩流が瀬戸海峡を埋め、桜島と大隅半島とが陸続きになりました。同年1914年3月15日には秋田県で仙北地震が起き、死者94人を出します。1917年9月30日には東京湾台風による大正6年高潮災害も発生しました。1000人を超す犠牲者を出し、東京湾岸の行徳塩田などが大きな被害を受け、東京湾での製塩業が途絶えることになります。

スペイン風邪とウェゲナーの大陸移動説

 そして、1918年からスペイン風邪が日本でも流行します。大戦末期の1918年に米軍兵士の間でインフルエンザが流行し、アメリカの参戦で全世界に広がりました。中立国だったスペインの感染が報じられたためスペイン風邪と呼ばれることになりました。1918年から20年に流行し、世界の全人口の半数が感染し、2~3%の4000万人を超える人が死亡したと言われています。戦死者の何倍もの犠牲者数で、大戦の終結を早めたともいわれます。日本でも40万人弱が死亡しました。

 この時期、外務大臣や東京市長を務めていたのは後藤新平です。外務大臣のときに、1917年ロシア革命に呼応してシベリア出兵し、毒ガス兵器の塩素の存在を知ったようです。スペイン風邪の終息後、後藤が東京市長だった1921年に、東京の上水道に塩素消毒が導入されました。当時乳幼児死亡が30万人を超えていたようですが、これ以降、死亡者が激減しました。スペイン風邪の蔓延と、衛生行政に長けた後藤の存在が関係したように感じられます。

 なお、1912年にドイツ人の気象学者、アルフレッド・ウェゲナーが、南アメリカ大陸の東海岸線とアフリカ大陸の西海岸線が似ていることに気づき「大陸移動説」を唱えます。1915年に『大陸と海洋の起源』を著し、地質学・古生物学・古気候学などの資料を基にして、大西洋をはさむ四大陸が分離して移動して大西洋ができたと主張しました。世紀の大発見でしたが、当時は受け入れられませんでした。その後、1960年代にプレートテクトニクス理論が構築されてウェゲナーの主張が裏付けられました。

大正関東地震の発生

 1923年9月1日11時58分ごろ、小田原付近を震源とするM7.9の関東地震が起き、日本の首都を直撃します。災害名は関東大震災と言います。相模トラフ沿いの巨大地震で、1703年元禄関東地震より一回り小さい地震でした。震源域に近い神奈川県や千葉県南部に加え、地盤が軟弱な東京下町の低地も強く揺れました。地震後発生した火災の影響もあり。東京や横浜を中心に、10万5385人が犠牲になり、国家予算の3倍もの経済被害を出しました。

 地震の揺れの様子は、上野の喫茶店で地震に遭遇した物理学者・寺田寅彦が「震災日記より」に書き残しています。「震災日記より」には、地震後の下町の惨状や、社会の様子も端的に描かれています。