地震、飢饉、疫病が続発し、南北朝から戦国時代へと乱世が続いた室町時代

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南北朝から戦国時代へと続く乱世の時代

 室町時代の災禍について紹介する前に、歴史を簡単に復習しておきます。足利尊氏の裏切りと新田義貞による攻撃で鎌倉幕府が滅亡し、1334年に後醍醐天皇による「建武の新政」が始まりました。ですが、天皇中心の政治に武士の不満が高まり、尊氏が都を奪い、武家中心の社会に戻りました。尊氏は後醍醐天皇に対抗して光明天皇を立てたため(北朝)、後醍醐天皇は吉野に逃れ(南朝)、1336年に南北朝時代が始まります。

 尊氏は守護の権限を拡大して各地の武士をまとめます。守護は後に守護大名化します。国人と呼ばれた土着の武士は集団化し、後に戦国大名になっていきます。農村でも、荘園などの内部で農民たちが自立的・自治的な惣村を作り集団化しました。また、貨幣経済の浸透で商工業が栄え、流通も盛んになりました。

 こうして、社会が多様化し、民衆の力が高まりました。その結果、幕府の力が弱まり、飢饉も頻発して、土一揆、国一揆、一向一揆などが各地で起き、社会が乱れました。そして、足利義政の跡継ぎ争いや、守護大名間の勢力争い、守護大名の家督争いなどが絡んで1467年に応仁の乱が始まり、戦火が全国に広がりました。応仁の乱で守護大名が出陣したため、各地では、留守を預かった守護代や国人が力を持ち、下剋上が起こり、戦国時代につながりました。これらの背景には、すさまじい災害と疫病、飢饉があったようです。

北条の反乱のさ中に鎌倉を襲った大風

 鎌倉幕府の執権だった北条高時の遺児の北条時行は諏訪に逃れていましたが、1335年に足利直義を破って鎌倉を占拠し、鎌倉幕府の再興を企てました。まさにその時に暴風雨で大仏殿が潰れ、大仏殿に逃れた500人が命を落としたと言われています。大風が吹かなかったら、時代は変わっていたかもしれません。

 この争乱は中先代の乱と呼ばれ、後醍醐天皇の命を受けた尊氏によって鎮圧されます。翌1336年には、尊氏らが京都に戻って建武の乱を起こし、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を始めます。尊氏は、建武の式目を発表し、1338年に征夷大将軍になって室町幕府を始めました。尊氏は、鎌倉幕府と後醍醐天皇を裏切ったため、余り人気が無いようです。

南北朝の内乱の時代に起きた疫病の頻発と南海トラフ地震

 南北朝の時代は1392年に足利義満によって合一されるまで、約60年続きました。この間、南朝では8回、北朝では17回の改元が行われます。その内、災異改元は、南朝が4回で、天変が2回と兵革が2回、北朝は10回で、重複はあるももの、疫病に関わるのが8回、天変が7回、兵革が6回あります。すなわち、南北朝の60年は疫病と天変と内乱の時代でした。

 1361年8月3日には南海トラフ沿いで正平・康安地震が発生します。正平は南朝、康安は北朝の元号です。奈良や大阪、熊野で堂塔が倒壊、破損し、和歌山の湯の峯温泉が涸れるなどしたようです。また、高知、徳島、大阪での津波の記録も残されています。南海地震側の震源域の被害記録が多いようですが、最近、各種のデータから東海地震も連動したと考えられるようになりました。また、この地震の1年前に津波を伴う地震があり、3日前と2日前にも京都が強く揺れる地震がありました。これらが同じ震源域内の地震かどうかは不明ですが、もしも震源域周辺の地震だったとすると、南海トラフ地震臨時情報の活用が期待できることになります。正平・康安地震や疫病、兵革もあり、1362年に北朝の元号が康安から貞治に改元されます。

 ちなみに、ヨーロッパでは、この南北朝の時代に、1339年から英仏間で百年戦争が始まり、1347年にはペストが蔓延し、ルネッサンスの時代へとつながっていきます。

応仁の乱に至る間の地震、飢饉、疫病による混乱と一揆

 南北朝の時代が終わった後、室町幕府は、応永の乱で大内義弘を討つなどして守護大名の力を削ぎ、明との勘合貿易などで豊かになって、安定期を迎えました。その中、1408年に紀伊や伊勢に被害を出した応永地震が起きています。

 その後、1419年に洪水や大風・干ばつなどが、1420年に大干ばつが発生し、凶作で応永の飢饉が起きました。さらに1428年にも2年続きの飢饉が起き、農民が徳政を望んで正長の土一揆を、翌年には播磨の土一揆を起こしました。1438年にも飢饉や疫病が起き、1441年に嘉吉の徳政一揆が起きます。この年には、播磨の守護の赤松満祐が将軍足利義教を暗殺する嘉吉の乱も起きました。さらに、1445年には諸国を台風が襲い、1446年は大洪水、1447年には大風、洪水、干ばつなどがありました。このため、凶作と疫病で文安の飢饉となり、徳政を求めて文安の土一揆も起きました。

東国での地震、争乱と応仁の乱

 関東地方では、1433年に永享相模の地震が起き、1436年には鎌倉で大火があります。さらに、1454年には東北地方太平洋沖を震源とする享徳地震が発生します。この地震は東日本大震災と同様の超巨大地震です。直後には、鎌倉でも大地震があったようです。こういった中、関東地方を中心に戦国時代の先駆けともいえる四半世紀に及ぶ享徳の乱が始まります。

 関東での争乱の中、1459年の干ばつと台風、1460年の大雨洪水、冷害、バッタの蝗害(こうがい)などが重なって各地で凶作となり、長禄・寛正の飢饉が起きました。飢餓に陥った人が都に集まり、飢えと疫病に苦しんで大量の犠牲者が出ました。この中、寛正の土一揆が起きます。そして、混乱が続く中、1467年に応仁の乱が始まり、都は焼け野原となります。

地震だらけだった戦乱の時代

 応仁の乱が終結した後、1485年に山城の国一揆が、1488年に加賀の一向一揆が起き、1493年の明応の政変の後、本格的な戦国時代に突入します。この戦乱の中、大地震が続発します。1495年9月12日に明応鎌倉地震が起きました。一説では、この地震の津波に乗じて、戦国大名の北条早雲が小田原城を奪取したともいわれています。鎌倉大仏殿が津波で破壊されたとの説もあり、相模トラフ沿いの地震の可能性も指摘されています。ただし、いずれも諸説あるようです。もしもこの地震が相模トラフ沿いの地震だとすると、1293年永仁鎌倉地震、1703年元禄地震、1923年大正関東地震と、200年に一度くらいの頻度で地震が起きていることになります。

 1498年には7月9日に日向灘で地震があり、9月20日には南海トラフ沿いで明応地震が起きます。被害は甚大で、安濃津や浜名湖の津波被害などが、伝えられています。ですが、戦乱の時代の中のため、その真偽は良く分かりません。相模トラフ沿いと南海トラフ沿いの地震が3年の間隔で発生したとすると、1703年元禄地震と1707年宝永地震と同様の連続発生だったことになります。

 その後、1502年に越後南西部での地震、1510年に摂津・河内の地震、1520年に紀伊半島や京都で被害が記録される永正地震などの被害地震がありました。また、1535年には美濃で大水があり2万人が犠牲になったとの記録もあります。ただ人数が多すぎる気もします。斎藤道三と土岐頼純が激突し戦火が広がっていたさ中の洪水です。

 さらに、1539年に大雨・洪水、蝗害で飢饉が発生し、1540年にも大雨・洪水や疫病流行などが起き、天文の飢饉になりました。畿内では、1544年、1557年にも洪水が起きたようです。そして、1560年に今川義元と織田信長が雌雄を決した桶狭間の戦いを迎えます。

大航海時代のヨーロッパの影響が日本に忍び寄る

 明応地震が起きた1498年は、ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開いた年です。これ以降、ヨーロッパと東アジアが海路で結ばれ、香辛料やお茶などの交易が盛んになります。また、1492年にコロンブスが西インド諸島を発見し、コロンブス交換が起こり、アメリカ大陸から梅毒が欧州に伝わり、逆に天然痘などがアメリカ大陸に伝わりました。この天然痘によって中南米のアステカ文明とインカ文明が滅びました。1521年にスペイン人のコルテスが中米のアステカを征服し、1533年にピサロがインカ帝国を滅亡させます。マゼランの率いたスペイン艦隊が世界一周を成し遂げたのは1522年です。日本が戦乱に明け暮れる中、世界は大航海時代に突入しました。また、ルターが1517年に95か条の論題を発表して宗教改革を始め、欧州は大きく変貌していきます。

 その影響は、日本にもやってきました。アメリカ大陸から伝わった梅毒が倭寇を介して日本にも伝染し、1512年に流行を起こしました。有名な戦国武将の浅井長政や加藤清正も感染したようです。また、1543年に、ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝え、1549年には、宗教改革に対抗するイエズス会のフランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えます。そして、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康による天下統一へと時代が進んでいきます。

 様々な災害や感染症、西洋との関りを考えることで、室町時代の歴史の変遷が分かりやすくなるような気がします。