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熊本の5市町村を巡回 肌で感じた「復興の難しさ」

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
筆者撮影

震度7の揺れが2度襲った熊本地震

 2016年4月14日と16日にマグニチュード6.5と7.3の地震が発生し、益城町で2度、西原村で1度、震度7の揺れを観測しました。この地震の被害は、直接死50人、関連死等223人、全壊家屋は8,667棟に及びます。平成にはM7.3の地震が3つ起きていますが、その被害は、1995年兵庫県南部地震は死者6,434人(直接死5,500人)、行方不明者3人、全壊家屋104,906棟なのに対し、2000年鳥取県西部地震は、死者0人、全壊家屋435棟でした。熊本地震の被害は、両地震の中間です。これらのことから、人口集中が地震被害を加速度的に大きくすることが分かります。

修復が進む阿蘇神社と免震病院

 私が最初に訪れたのは阿蘇のカルデラにある阿蘇市です。肥後国の一の宮で、式内社や官幣大社でもある阿蘇神社が、大きな被害を受けました。とくに日本三大楼門の一つとされ、1850年に建設された重要文化財の楼門が倒壊したことは、衝撃的でした。被害を受けた重要文化財6棟のうち5棟は今年3月に修理を終え、4月から楼門の修復に着手しました。現在は、基礎工事と素屋根の建設が始まるところでした。倒壊した楼門の1万以上の部材を修復し、再度組み立てるようです。現場にあった説明パネルには、楼門の中に制振構造を仕込むことで、耐震性を確保するとのことでした。文化財に指定されていない拝殿も倒壊しましたが、こちらは寄付金を募って再建するようです。

 阿蘇神社の近くには阿蘇医療センターがあります。免震構造を採用していますが、免震装置が46cmも変形したことで有名です。この変形量は、これまでの地震で記録された免震装置の変形量として最大です。ただし、免震構造のおかげで、阿蘇医療センターは地震後も医療を継続することができました。

南阿蘇村の2つの大学施設と阿蘇大橋の周辺

 南阿蘇村には東海大学の阿蘇キャンパスと京都大学の火山研究センターがあります。地震では東海大学の学生3名が学生アパートの倒壊により犠牲になりました。残念ながら両施設とも、道路が塞がれていて、訪れることができませんでした。

 南阿蘇村の道路は至る所、通行止めになっていました。とくに、阿蘇大橋背後の大規模な斜面崩落現場は、今なお痛々しいものでした。現在は、崩落した阿蘇大橋の600mほど下流で、新しい橋の工事が行われています。ちょうど橋脚工事が終わり来年度には完成するようです。私は、さらに下流にある阿蘇長陽大橋を渡って、南阿蘇村から大津町に抜け、震度7の揺れを記録した西原村に入りました。

当時と変わらない西原村役場と減少する仮設住宅

 2mを超える強い揺れを観測した西原村役場ですが、壁の多い2階建ての庁舎は、震度7の揺れでもびくともしませんでした。現在、駐車場周辺で擁壁工事が行われていたものの、役場の様子は当時と変わりませんでした。

 役場の近くには、仮設住宅が建つ小森仮設団地がありますが、訪れたところ木造仮設住宅の改修工事中でした。調べたところ、空室が増えたため団地の集約を進めるとともに、木造仮設住宅については県から村が無償譲渡してもらい、改修して賃貸住宅に転用するようです。

 ちなみに、西原村では、地震の前年に発災型防災訓練を行っていた消防団が大活躍し、倒壊家屋から多くの人を救出し、震災後にはガレキ撤去も率先して行い、復旧にも大きく貢献しました。

空き地と新築家屋が目立つ益城町

 2度の震度7の揺れを記録した益城町は、空き地が目立ちました。地震で被害を受けた益城町役場は解体され、現在は空き地になっていました。先週、11月29日から、新庁舎基本設計(案)に関するパブリックコメントがスタートしましたから、いずれ、仮庁舎から免震構造の新庁舎に引っ越しすることになると思います。

 役場の北にある町営住宅は、地震後に調査したところ、地震の強い揺れで滑ったような痕跡があり、自然の免震効果によるのか、震度7の揺れでもほとんど無被害でした。今でも、役場の敷地の向こうに3年前と変わらない姿で町営住宅が建っている様子は、印象的でした。

 益城町の被害で最もメディアに登場した場所は、寺迫の交差点の橋の上からみた家屋倒壊の惨状でした。再訪したところ、川の両側の家屋は撤去され、空き地が広がっていました。また、最も被害が甚大だった秋津川北側の住宅地は、道路の不陸が残っており、空き地が目立ち、建っているのは新築住宅ばかりでした。県道28号熊本高森線の沿道の商店もほとんど解体され、賑わいが無くなっていました。地震の傷跡はまだまだ癒えていません。

石垣が痛々しい熊本城

 益城町から熊本市に入ると地震被害の痕跡は少なくなりました。ですが、熊本城の石垣を見て、印象が一変しました。天守閣は外観の修復が終わり立派な姿を見せていましたが、櫓や石垣など、まだ手付かずの箇所も多数残され、各所が鉄骨架台などで支えられており、痛々しい有様でした。地震前の状態に戻すには20年の歳月がかかるようです。

 細川家の資料が収蔵されている熊本大学永青文庫研究センターの稲葉継陽センター長からお聞きしたところ、細川家の初代熊本藩主だった細川忠利が、着任早々の1633年に起きた地震で石垣が崩れることを恐れ、熊本城の本丸から城外の花畑屋敷に拠点を移したとのことです。1889年の明治熊本地震でも熊本城は大きな被害を出しており、過去の災害を学ぶことの大切さを実感します。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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