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11月5日は世界津波の日、稲村の火と南海トラフ地震臨時情報

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
「稲むらの火の館」HPより

津波防災の日

 2011年東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の甚大な津波被害を受けて、同年6月に津波対策推進法が制定されました。この法律の中で、広く津波対策についての理解と関心を深めるために、11月5日を「津波防災の日」にすることが定められました。11月5日が選ばれたのは、旧暦の嘉永7年(安政元年)11月5日に、南海トラフの西半分を震源域とする安政南海地震(モーメントマグニチュードMw8.7)が発生したことにちなんでいます。この地震で、紀伊国広村を襲った津波から、村人たちを避難させた濱口梧陵の逸話が、津波防災教育の上で大切だと考えられたからです。旧暦が選ばれたのは、西暦では1854年12月24日とクリスマスイブに当たるので、これを避けたのではと想像されます。

世界津波の日

 2015年12月22日に開催された第70回国連総会本会議で、11月5日が「世界津波の日」に定められました。この決議は、2015年3月に仙台で開催された第3回国連防災世界会議と、2015年9月に国連で開催された国連持続可能な開発サミットの成果文書「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ」のフォローアップとして採択されました。決議には、津波の脅威について関心を高め対策を進めることを目的に、(1)11月5日を「世界津波の日」に制定すること、(2)早期警報、伝統的知識の活用、「より良い復興」を通じた災害への備えと迅速な情報共有の重要性を認識すること、(3)すべての加盟国、組織、個人に対して、津波に関する意識を向上するために、適切な方法で、世界津波の日を遵守することを要請すること、等が盛り込まれています。ちなみに、2030アジェンダで掲げられたのは、有名な「持続可能な開発目標(SDGs)」です。

稲村の火

 稲村の火は、安政南海地震での津波の際に、紀伊国広村(現在の和歌山県有田郡広川町)であった濱口梧陵(儀兵衛、1820-1885)の逸話に基づく物語です。1896年明治三陸地震津波のあとに小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が英語で記したA Living Godを、広村の隣町の湯浅町出身の中井常蔵が翻訳・再構成し、「燃ゆる稲村」と題して文部省による国語教科書の教材公募に応募しました。これが入選し、1937年から10年間、「稲村の火」という題名で国定国語教科書に掲載されました。

 物語は、高台に家がある庄屋の五兵衛が、南海地震での揺れのあと、海の水が沖合に引くのを見て、海岸で祭りの準備をしている村人たちに津波の危険を知らせるため、刈り取ったばかりの稲むら(稲のたば)に火をつけ、庄屋の家が火事だと思わせて、村人たちを高台に集めて救ったというストーリーになっています。地震後の津波避難の大切さを伝える防災教育効果の高さが認められました。

 2011年からは、光村図書出版の小学5年生用の国語の教科書に、「百年後のふるさとを守る」(河田惠昭)のタイトルで、浜口儀兵衛の伝記が掲載されるようになりました。同じ年に東日本大震災が発生したことは因縁のように感じます。

濱口梧陵

 五兵衛のモデルとなった梧陵は、千葉県銚子市に本社がある現在のヤマサ醤油の当主に当たります。梧陵は地震の前年に家督を継ぎ、出身地の広村と銚子を行き来していたようで、地震のときは偶々広村にいました。地震が起きたのは16時半ごろで、冬至に近く日暮れが早い時期です。梧陵は、高台にある広八幡神社への道を示して住民を津波から避難しやすくするため、自分の田んぼにあった藁の山に火をつけて明かりを灯し、村人を高台に誘導しました。地震後には、村人に仕事を与えることも兼ねて4年間かけて広村堤防を作り、90年後の昭和南海地震の津波から村を救うことにも寄与しました。

 梧陵は地震の後、和歌山県の副知事に相当する職や、郵政大臣に相当する職、和歌山県の初代県議会議長なども務めました。そして、1885年、世界旅行中にニューヨークで病死しました。

 広村堤防の近くには、昭和三陸地震が起きた1933年に濱ロ梧陵の偉業とその徳を称えた感恩碑が建立され、毎年11月には津浪祭が催されています。また、津波について学ぶことができる「稲むらの火の館 濱口梧陵記念館・津波防災教育センター」も建設されています。

南海トラフ地震臨時情報

 安政南海地震の32時間前には、南海トラフの東半分を震源域とする安政東海地震(Mw8.6)が、安政南海地震の2日後には西側の豊予海峡で地震(M7.4)が起きました。

 安政東海地震では、三重県から静岡県にかけて強い揺れと津波によって甚大な被害を受けました。この年は、3月にペリーとの間で日米和親条約が結ばれていますが、地震の時にはロシアのプチャーチン提督が条約交渉のため伊豆の下田を訪れていました。地震の津波によって戦艦ディアナ号が損傷を受けその後沈没したため、伊豆の人たちによって作られた戸田(へた)号で帰国したことは有名です。

 今であれば、静岡、愛知、三重の甚大な被害の様子がテレビに映し出され、日本全体が大混乱に陥っていると思われます。稲村の火の舞台となった広村も、震度4程度の揺れに見舞われ、地震後に出される大津波警報で高台に避難することになります。そして、地震後2時間程度たったところで、南海トラフ地震臨時情報(巨大地震警戒)が発表されます。続いて発生することが懸念される南海地震への備えを促す情報です。

 津波避難の時間が十分に確保できない広村は事前避難対象地域に指定されると思われますから、大津波警報が解除されたら、住民は高台にある避難所などに移動し1週間の事前避難をすることになります。そして、避難の最中に南海地震の揺れに見舞われます。揺れが到達する前に緊急地震速報が発せられるはずですから、揺れる直前には安全行動をとることができるはずです。広村の町並みは強い揺れと津波によって大きな被害を受けることになりますが、住民は緊急地震速報と事前避難のおかげで怪我はしないはずです。

 さて、今なら、どんな「稲村の火」の物語が描かれることになるのでしょうか。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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