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日本を暗黒の時代に突き落とした関東大震災から96年

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
東京都慰霊堂、筆者撮影

大正デモクラシーの時代を吹っ飛ばした一撃

 大正時代は、元老を中心とした藩閥主義を脱して、尾崎行雄や犬養毅らの政党政治に移行しようとした時代でした。第一次世界大戦による好況や、護憲運動や労働運動、婦人参政権運動、部落解放運動など、民衆運動が活発に行われました。洋食・洋服・文化住宅などの西洋式の衣食住が広がって、芸術・大衆文化、新聞・ラジオ、路面電車や乗合バス、家庭電化製品などの都市文化も形成されました。この時期には、1914年秋田仙北地震を除いて、犠牲者を多く出す地震もありませんでした。そんな中、関東地震が発生し、強い揺れが南関東を直撃しました。その甚大な被害故に、災害名は関東大震災と呼ばれます。

関東地震の発生

 関東地震は1923年9月1日11時58分に発生しました。小田原周辺を震源とするマグニチュード7.9の地震で、フィリピン海プレートと北アメリカプレートが接する相模トラフでのプレート境界地震です。1703年に発生した元禄関東地震よりは一回り小さい地震でしたが、震源域は神奈川県西部から房総半島南部に及び、南関東を中心に広域な被害となりました。震源域からは少し離れていますが、地盤が軟弱な東京の沖積低地も強く揺れました。死者・行方不明者は我が国史上最大の10万5千人余り、全潰家屋11万棟、焼失家屋21万棟に上ります。経済被害は日銀の推計では物的損失が約 45 億円、また、東京市の推計では約52億7,500万円とされています。これは、当時の日本の名目GNP約150億円の1/3、一般会計歳出額約15億円(軍事費を除くと10億円)の3倍に相当します。このため、経済的にも苦境に陥りました。

寺田寅彦が残した揺れの記録

 地震の揺れの様子は、物理学者・寺田寅彦が「震災日記」に書き残しています。「それにしても妙に短周期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありあり想い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。仰向あおむいて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い周期でみし/\みし/\と音を立てながら緩やかに揺れていた。・・・中略・・・主要動が始まってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大した事もないと思う頃にもう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長周期の波ばかりになった。」

 寺田は、震源から離れた上野の喫茶店で揺れを経験しました。このため、揺れは相対的に小さかったと考えられますが、初期微動と主要動との時間差、揺れの長さ、長い間続く長周期の揺れなど、震源から少し離れた場所での巨大地震の揺れの特徴を見事に描写しています。震災日記には、地震後の下町の惨状や、社会の様子も端的に描かれています。青空文庫で閲覧できますから、一度ご覧になると良いと思います。

火災だけでなく揺れ・津波・土砂災害も

 関東地震は正午前の地震で、日本海を進む台風によって風が強かったため、住家が密集した東京や横浜で大規模な地震火災となりました。とくに、多くの住民が避難していた本所の陸軍被服廠跡では、火災旋風によって4万人弱もの人が犠牲になりました。焼失棟数は21万棟にも上り、全死者の9割が焼死によるものでした。

 このように関東地震は火災被害の印象が強いですが、揺れによる全壊家屋数も約11万棟ありました。家屋倒壊による死者数は全死者の約1割の1万1千人で、阪神・淡路大震災の倍にもなります。住宅の全壊棟数は、東京市が12,000棟、東京市の1/5の人口の横浜市が16,000棟で、人口比で考えると横浜市の被害は東京の7倍にもなります。震源域に近かった横浜の揺れの強さが想像できます。

 また、地震後には、伊豆半島から相模湾、房総半島の沿岸に高い津波が押し寄せ、熱海、伊東、鎌倉などで、200~300人の犠牲者が出ました。土砂災害も各地で発生し、全体で700~800人の死者となりました。とくに小田原の根府川駅での列車転落事故では、山津波によって列車が海中に没し、その直後に津波が押し寄せ100人を超える犠牲者を出しました。また、神奈川県秦野市と中井町の境には、土砂崩れでせき止めが起こり、震生湖ができました。神奈川県は、富士山や箱根の火山噴火で噴出した堆積物が地表を覆っているため、土砂災害が起こりやすいようです。

甚大な被害が国を破たんへと導く

 震災後、大正デモクラシーと呼ばれた自由な時代は一気に変貌していきました。被害の中心は東京と横浜の市街地でした。震災直後、政府は、緊急勅令によるモラトリアムをし、震災手形を発行しました。また、震災手形割引損失補償令を公布し、震災手形による損失を政府が補償する体制を整えました。しかし、1927年にこの震災手形が不良債権化し昭和金融恐慌を招くことになります。

 この地震の後、1925年に北但馬地震、27年に北丹後地震、30年に北伊豆地震、33年に昭和三陸地震と被害地震が続発します。その間に、25年治安維持法の制定、27年金融恐慌、31年満州事変、32年5・15事件が起きます。さらに、33年国際連盟脱退、36年2・26事件、37年日中戦争、41年太平洋戦争と時代が移っていき、8年間の戦争で310万人もの犠牲者を出します。

土地利用が招いた大震災

 震源から離れた東京の被害は甚大でしたが、被害が大きな原因は、沖積低地の下町に密集した住宅火災にあります。東京市の死者7万人のうち、6万人弱が隅田川の東の低地で発生し、西側に比べて死亡率が約25倍にもなりました。このため、地震規模が大きかった元禄関東地震に比べ、大正関東地震での東京の犠牲者は200倍にもなりました。現在、この地域の人口は震災時に比べ8倍位に増加しています。かつてより「君子危うきに近寄らず」と言いますが、江東デルタ地帯中心に1年後に東京五輪が開催されます。「転ばぬ先の杖」で、万全の対策を進めていきたいものです。

 関東大震災後には、帝都復興院が設置され、後藤新平総裁を中心に帝都復興構想が立案されました。国による被災地の買い取りや、100m道路、ライフラインの共同溝化など、斬新な計画でしたが、財政緊縮のため構想は大幅に縮減されました。ですが、これによって現在の東京の都市の骨格が整えられました。災害は、社会を苦しめると共に、新たな時代を生み出します。首都を襲う次の災害のために、壊れないまちに直すと共に、万一壊れたときに備え、事前に復興構想を作っておくことで、新生日本を生み出す準備になると思います。

【Yahoo!天気・災害の「災害カレンダー」用に執筆した記事を加筆・修正し、Yahoo!ニュース個人に掲出しています。】

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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