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まもなく1月17日で阪神・淡路大震災から24年、1月は時代を画す地震が起きた月

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(ペイレスイメージズ/アフロ)

戦乱の時代を大きく変えた天正地震

 1586年1月18日(天正13年11月29日)に起きた天正地震は、内陸で起きた過去最大の地震の一つです。この地震では、養老・桑名・四日市断層や阿寺断層など複数の活断層が連続して動いたと言われています。津波も発生したようなので、海底の活断層も動いたと疑われます。飛騨・越中などで山崩れが起き、中でも帰雲山の崩落が有名です。これにより帰雲城もろとも内ヶ島氏は滅亡しました。被災地域は過去最大の内陸地震と言われる1891年濃尾地震よりも広いようです。

 この地震では、現在の高岡市にあった木舟城が倒壊して前田利家の末弟の前田秀継が落命したり、長浜城の倒壊で山内一豊の一人娘与祢と乳母が圧死したりしました。また、豊臣秀吉が徳川家康を攻めるための前線基地にしていた大垣城が全壊焼失し、秀吉方の織田信雄の長島城も液状化で倒壊しました。家康が命拾いした地震とも言えそうです。最近の発掘調査で清洲城でも液状化の跡が見つかっています。このように、天正地震は、戦国時代の集結の行方を大きく左右させた地震と言えそうです。

大正桜島噴火の直後に発生した桜島地震

 1914年(大正3年)1月12日に起きた大正桜島噴火に伴う地震です。桜島では、大噴火に先立って1月10日から地震が繰り返し発生したようです。そして12日の午前10時過ぎに大噴火が起き、その後断続的に噴火が繰り返す中、午後6時30分にM7.1の地震が発生しました。この地震で、鹿児島市内でも石垣や家屋が倒壊しました。大正桜島噴火では、58名の死者が出ました。噴出量は約2km3と、20世紀以降わが国最大の噴火です。この噴火で溶岩流が360mの幅があった瀬戸海峡を埋め、桜島と大隅半島とが陸続きになりました。

 また、噴火前に地震や様々な異常現象があったにもかかわらず、測候所から安心情報が提供されたことから、「科学不信の碑」が建立されました。そこには、「本島ノ爆發ハ古来歴史ニ照シ後日復亦免レサルハ必然ノコトナルヘシ住民ハ理論ニ信頼セス異變ヲ認知スル時ハ未然ニ避難ノ用意尤モ肝要トシ平素勤倹産ヲ治メ何時變災ニ値モ路途ニ迷ハサル覚悟ナカルヘカラス茲ニ碑ヲ建テ以テ記念トス 大正十三年一月 東櫻島村」と記されています。2009年にイタリア・ラクイラで起きた地震のとき、群発地震が発生する中、大地震の心配はないと記者発表して多くの犠牲者を出したことと似ています。

 南海トラフ沿いで異常な現象が発生した時に出される予定の「南海トラフ地震に関連する情報(臨時)」の大切さを改めて感じます。

関東地震の余震だった丹沢地震

 関東地震から4か月後の1924年(大正13年)1月15日に、神奈川県の丹沢で余震と思われる地震が発生しました。地震の規模はM7.3と、兵庫県南部地震や熊本地震と匹敵する大地震です。19人が犠牲になりました。M8クラスの巨大地震が起きれば、こういったM7クラスの余震や誘発地震が起きます。1944年に発生した東南海地震の1か月後には、次に述べる三河地震が起きていますし、2011年東北地方太平洋沖地震の後も沢山の地震が起きました。

 ちなみに、神奈川県の山々は、富士山や箱根の噴火による火山堆積物に覆われています。関東地震の時には、あちこちで山崩れが起きたようで、丹沢の近くの秦野市と中井町との境には、丘陵が崩れてできた震生湖があります。北海道厚真町や熊本県南阿蘇村の大規模土砂崩れを思い出します。神奈川県の丘陵に多数の住宅が建築されていることは気掛かりです。

東南海地震の誘発地震の三河地震

 1945年(昭和20年)1月13日に深溝断層や横須賀断層が動いたM6.8の地震です。南海トラフ沿いでの東南海地震の37日後に起きた誘発地震です。死者は2,306人と、東南海地震による1,223人に比べ多くの人が犠牲になりました。深夜に起きたこと、東南海地震の揺れで家屋が痛んでいたことなどが原因したようです。1か月前には名古屋市で最初の本格的空襲があり、名古屋から疎開していた児童が、疎開先の寺社の倒壊で多く犠牲になりました。

 今、東南海地震と同様の地震が起きれば、南海トラフ地震に関連する情報(臨時)が発せられます。そして、東南海地震の震源域の両側にある南海地震や想定東海地震の被災地の沿岸では、津波からの避難が間に合わない人中心に、予め1~2週間、避難することになります。

 ですが、三河地震は、活断層の地震で、発生したのは1か月以上経ったときです。半割れの地震が起きた後の警戒のあり方の難しさが分かります。結局は、いつ地震が起きても良いように耐震化や家具固定などの日頃の準備を進めるしかありません。

平成時代の地震の始まりとなった釧路沖地震

 平成のはじめは、1989年のベルリンの壁の崩壊、東西冷戦終結、1990年の東西ドイツ統一、1991年の湾岸戦争勃発、ソ連の崩壊など、世界では歴史的な出来事が続き、日本でも消費税の導入やバブル崩壊で雲行きが怪しくなっていました。

 そんなとき、1993年(平成5年)1月15日の成人式の日に、M7.5、最大震度 6の地震が北海道の釧路市沖で起きました。震源の深さが約100kmと深かったことから、被害は限定的でした。この地震の半年後の7月12日には、北海道南西沖地震で巨大津波が奥尻島を襲い、さらに翌1994年10月4日に北海道東方沖地震、12月28日に三陸はるか沖地震と、北海道周辺での地震が続発しました。そして、その20日後に兵庫県南部地震が起きました。

失われた20年を引き起こした兵庫県南部地震

 1995年(平成7年)1月17日、午前5時46分に明石海峡の地下でM7.3の兵庫県南部地震が発生し、観測史上初めての震度7の強い揺れが、淡路島、神戸、芦屋、西宮などを襲いました。1月14日~15日はセンター試験、16日は成人の日で、3連休の翌朝未明の地震でした。大都市・神戸をはじめ、人口が密集する京阪神地区を強い揺れが襲ったため、今年還暦を迎える1959年伊勢湾台風を上回り、戦後最悪の自然災害となりました。西日本での大地震は、3,700人もの犠牲者を出し震度7を新設する契機にもなった1948年福井地震以来です。おそらく、当時の関西の人たちは、地震は関西では起きないと思っていて、まさに突然の地震だったはずです。

 この地震では被害状況の把握や救命・救助活動が遅れ、2カ月後に発生した地下鉄サリン事件と共に、わが国の危機管理能力が問われました。その後、日本は失われた20年に突入していきます。まさに、阪神・淡路大震災は平成の時代を画す一大事件でした。

強い揺れで甚大な建物被害

 被害は甚大で、翌朝、被災地で見た情景には言葉を失いました。2006年5月19日に消防庁が確定させた被害は、死者6434人、行方不明者3人で、死者のうち6402人は兵庫県で発生しました。負傷者は重傷10,683人、軽傷33,109人です。戦後最大の被害でしたが、死亡率は福井地震や1923年関東地震の方が上回っています。

 住家被害は、全壊104,906棟(186,175世帯)、半壊144,274棟(274,182世帯)、一部破損390,506棟、計639,686棟です。非住家も公共建物が1,579棟、その他40,917棟が被害を受けました。被害の中心は、1981年に改定された建築耐震基準を満たさない既存不適格建築物でした。とくに、古い木造家屋の倒壊や、10階建程度の中高層ビルの中間階の崩落、マンションの1階ピロティの崩落などの被害が目立ちました。神戸市役所2号館や神戸市立西市民病院の被害は象徴的です。そこで、年末に耐震改修促進法が制定され、耐震化が進められることになりました。

災害に弱い大都市

 ライフライン・インフラの被害も深刻でした。電気は比較的早く復旧しましたが、鉄道、水道、ガスの復旧に時間を要し、これらに頼る大都市・神戸での生活は困難を極めました。また東西の物流が途絶えたため、全国の製造業にも大きな影響がでました。この地震による被害総額は約10兆円とされています。

 同じM7.3で直接死が50人だった2016年熊本地震や、上記の丹沢地震と比べ、大都市では被害が甚大になります。昨年起き同じM6.1だった島根県西部の地震と大阪府北部の地震とでは、家屋被害が100倍も違っていました。改めて大都市の脆弱さを実感します。

 この地震は、未明に発生したので、多くの人は自宅で就寝中でした。このため、住家の倒壊や家具の転倒が犠牲者の死因の8~9割を占めました。もしも、昨年の大阪府北部の地震のように、地震発生時間が2時間遅れていたら、多くの人は通勤・通学途上で、新幹線も走っていましたから、強い揺れによる脱線転覆で、福知山線の事故のような惨状が多数発生したと想像されます。また、昼間の地震だったら、倒壊した三宮のオフィスビルや湾岸の工場の中で多くの人が犠牲になったと思います。おそらく、安否の確認も困難だっただろうと想像します。異なる季節、時間、天候、場所などをイメージし、日頃の備えをする必要があります。

神戸の教訓を活かし南海トラフ地震に備える

 南海トラフ地震が起きる数十年前から、兵庫県南部地震のような西日本での内陸直下の地震が頻発すると言われます。すでに大震災から24年、その間、西日本で多数の地震が起きています。前回の東南海地震や南海地震から4分の3世紀が過ぎました。予想されている被害は、阪神・淡路大震災や東日本大震災とは比べものになりません。大阪や名古屋などの大都市も被災します。大震災の教訓を活かし、少しでも被害を減らしたいと思います。先週1月8日に、菅官房長官や山本防災担当大臣から新しい対策の方向性が示されました。被害軽減のため、できる限りのことをしたいと思います。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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