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東南海地震が今日起きたらどうなるか? 当時を振り返り、今をシミュレートする

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(ペイレスイメージズ/アフロ)

東南海地震発生の直前

 73年前の今日、小春日和だった1944年12月7日(木)の午後1時36分、三重県沖を震源とするマグニチュード7.9の昭和東南海地震が発生しました。紀伊半島沖から遠州灘を震源域とした南海トラフの東側の一部が活動した地震です。過去の南海トラフ地震の中では最も小ぶりの地震でした。

 地震が発生した時、地震学者・今村明恒の意向を受けて、陸軍陸地測量部が静岡県掛川市付近で水準測量を実施していました。過去の傾斜変動の調査結果との傾斜変化を確認することを目的にしていたようで、地震発生前に傾斜変化が加速したことが確認されました。後日、地震発生前日と当日午前中行われた水準測量の往復測定値の差が着目され、前兆滑りによる異常隆起だとの解釈がされ、地震予知の根拠にもなりました。ただし、近年、この解釈に疑問も投げかけられています。一方、当時の人たちの日記などからは、地震発生前には人が感じる異常は無かったようで、一般の人にとっては突然の地震でした。

 現在は、東海地震の震源域などに体積ひずみ計が設置されているので、同様の異常が観測されれば、「南海トラフ沿いの地震に関する評価検討会」が「南海トラフ地震に関連する情報」(臨時)を発表することになります。内閣府防災担当は、これを受けて「関係省庁災害警戒会議」を開催し、関係省庁による今後の取組を確認すると共に、予想被災地の住民に対して、今後の備えについて呼びかけを行います。

 臨時情報が出れば、報道各社はこぞって過去の南海トラフ地震での被害や、予想される被害を報じ、多くの地震学者の見解を紹介することになるでしょう。各地に設置した観測装置から送られる様々なデータの変化について各種の解釈が示され、多くの国民が一喜一憂することになると思われます。センセーショナルな話題がSNSを駆け回るかもしれません。

 今秋に、確度の高い地震予知は困難との見解が政府から示され、警戒宣言発令が事実上凍結されており、現在は社会全体の統一的な対応が困難なため、地域や事業者によって対応に差が生じ、社会が混乱することが予想され、不安が感じられます。

揺れと津波、緊急地震速報と大津波警報

 東南海地震では、強い揺れに加え高い津波が沿岸部を襲いました。被害は、愛知県、静岡県、三重県の3県に集中し、津波による被害は三重県南部の海岸沿いで顕著でした。公表資料によると、地震による死者は、総計1,223人と言われており、愛知438人、三重406人、静岡295人などでした。2年後に起きた南海地震を加えても、政府が発表した南海トラフ地震の最悪の被害32万3千人と比べると2桁もオーダーが異なっています。これは地震規模が小さかったこと、人が居住する集落が比較的安全な場所で人口も現在の5割強程度だったこと、小春日和の昼間だったことなどが関係していると思われます。

 なお、今であれば、地震発生直後に緊急地震速報や大津波警報が発せられ、多くの住民は揺れや津波の到達前に警報を得ることができ、適切な対応をすれば被害を大きく減らすことができます。

半田、熊野、海部での3人の体験談

 本日の中日新聞の名古屋版には、若い時に東南海地震を経験した80代の3人の体験談が掲載されています。それぞれ、現在の愛知県半田市、愛知県愛西市、三重県熊野市で地震を経験されました。

 半田市は知多半島の根元に位置し衣浦港湾に面したまち、愛西市は木曽三川に面した海抜ゼロメートル地帯の海部地区、熊野市は三重県南部の熊野灘に面した海辺のまちです。それぞれ揺れ、液状化、津波が甚大だった場所で、3人は中島飛行機半田製作所、小学校の帰り道、映画館の中と、異なる場所で地震に遭遇しました。3人の方が語る震災教訓は、地震に関する正しい知識の獲得、正確な情報の発信・取得、災害時の的確な行政対応、津波からの早期避難、実践的な訓練の必要性、災害教訓の次世代への伝承、など大切なことばかりです。

 3人の中の一人、名古屋大学名誉教授の川本先生は、遠く京都第3中学在学中で、学徒動員された中島飛行機半田製作所で地震に遭遇され、山方工場で同級生13人を亡くしました。この工場は軟弱地盤に建ち、紡績工場の柱を抜いて飛行機工場に転用していたため、工場が倒壊しました。多くの犠牲者は入り口近くで折り重なっていたそうです。この地震によって半田製作所全体で150名余の犠牲者が出ましたが、軍部の情報統制により他の工場で働いていた同級生には詳細が伝わらなかったようです。

 戦後、学徒動員された同級生で地震前後の日記をまとめた「紅の血は燃ゆる」(読売新聞社)を出版し、その教訓が後世に残されています。それを読むと、戦争と地震を経験する中、工場労働しながら受験を目指す若者の心の中が分かります。ですが、東南海地震は1か月後に起きた三河地震と共に「隠された地震」と言われ、その被害実態は周知されていません。

 3人の体験談は、いずれも地震のときのことしか触れられておらず、地震後の生活については語られていません。度重なる空襲と戦争末期の混乱でそれどころではなかったのかも知れませんが、職住近接で、周辺に畑や井戸があり、かまどや汲み取り便所を使った生活でしたから、現代と比べ生活の困難は少なかったのだろうと想像されます。

3人の被災地の現在

 現在、中島飛行機半田製作所の跡地には、半田市役所や消防署、市民病院などの災害拠点が立地しており、周辺には昔ながらの酒や酢の醸造工場、多くの製造工場があります。近接する衣浦港湾には、火力発電所や自動車産業の工場が多数立地しており、西三河に集中する我が国最大の産業中核拠点の玄関口にもなっています。万が一、今、東南海地震が起き、これらの施設が被災すれば、その影響は計り知れません。

 また、他の2つの被災地については、三重県南部では、津波危険度の高い沿岸低地に漁港を中心とした小さなまちが点在しています。いずれも漁村らしいまちの佇まいで、狭隘な道路を挟んで古い木造家屋が密集して残されており、昔と比べ高齢者の多いまちになっています。東南海地震の津波教訓は残されていますが、災害に弱い住民が増えており、かつてと同様の被害が懸念されます。

 また、東南海地震時には輪中に囲まれた田園地帯だった愛知県西部の海部地域は、この70年で宅地開発が進み、多くの住民が住むようになりました。遠浅の沿岸は広く埋め立てられ、日本有数のコンテナターミナルや自動車部品の物流センター、MRJなどの航空機産業の拠点、発電所などになっています。堤防が破堤するなどして海抜ゼロメートル以下の干拓地の道路が湛水すれば、これらの機能が長期間停止し、その影響は日本だけに留まらず世界に及びます。

 海部地域の沿岸を含み、名古屋港の輸出金額は長年日本一であり、港湾機能が低下すれば、我が国経済への影響は多大です。名古屋港周辺の埋め立て地には、自動車生産の要となる製鉄所、製油所や油槽所、発電所、ガス工場などが集中しています。隣接する四日市港では、東南海地震で世界一の煙突が倒壊しました。長周期長時間地震動の影響だと思われます。設備が老朽化しつつある四日市石油コンビナートなど、産業防災の課題が多々残あります。

 これらの施設の稼働には、電気・燃料・水と、道路・航路の確保が不可欠です。どれかが欠けただけで製造が止まりますが、いずれも相互依存の関係にあります。また、これらは住民の生活・生命維持にも欠かせません。

静岡県西部では

 東南海地震では、上記愛知県・三重県の3か所に加えて静岡県西部も甚大な被害を受けました。東南海地震は東海地震の震源域までは活動しなかったので、静岡県の被害は西部に集中しました。とくに大きな被害を出したのは、太田川下流域の軟弱地盤が広がる袋井市です。静岡県西部は愛知県や三重県北部と同様、自動車、2輪車、楽器など我が国を代表する製造品メーカーが立地しており、東海道新幹線や東名高速道路・第二東名高速道路などが東西の物流をつないでいます。

 例えば、平日13時36分に岐阜羽島から熱海までに滞在する新幹線車両は往復40編成くらいあります。各車両に千人程度が乗車しているとすると、約4万人が高速で走る新幹線車両にいることになります。また、東名高速道路と第二東名高速道路の一日の平均通行量は約8万台ですから、同時間に高速で走行中の車は1万台くらいだと想像され、1台に平均2名が乗車していたとすると2万人くらいが高速走行中に強い揺れを経験することになります。こういったことは、昭和東南海地震にはなかったことです。緊急地震速報によって、緊急停止の暇を確保できるようになったものの、73年前と比べ、危険度が増していると思われます。

 このように、ライフラインやインフラに頼り切った生活をしている現代社会は、かつてと比べ、ハザードやリスクが増している面が多いようです。便利で効率的な社会故に、その一つが途絶しただけで計り知れない影響となります。長期間電気や水が途絶えたらどうなるか、その時をしっかり想像し、わがことと受け止めて、これらが止まっても何とかできる自助努力をするとともに、社会の維持に不可欠なものについて、社会全体で守っていこうという気運を盛り上げることが必要です。 

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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