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江戸のまち作りから東京の地震危険度を考える

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(ペイレスイメージズ/アフロ)

太田道灌が作った江戸城

 東京の旧地名「江戸」は、「江」と「戸」ですから、大きな川の入り口を連想させます。確かに、複数の河川の河口がある場所にあります。「江戸」は、武蔵国の豊島郡にあった小地名だったようで、12世紀に江戸を所領していた江戸重継が、今の皇居の位置に城館を建てたのが始まりのようです。重継の子・江戸重長が鎌倉幕府の御家人になり、この地を治めたようですが次第に衰えたようです。

 その後、江戸氏に変わって扇谷上杉氏の重臣だった太田道灌が、15世紀半ばに江戸氏の館の跡に江戸城を築きました。今の皇居東御苑の位置に当たります。城の北側には、平川が白鳥池から流れていて、小石川と合流して日比谷入江に注いでいたようです。また、不忍池やお玉が池からは石神井川が日比谷入江に注いでいました。浅草周辺には、千束池や姫ケ池など湿地帯も広がっていました。道灌の死後は、扇谷上杉氏の支配を受けましたが、その後、後北条氏に敗れ後北条氏が支配しました。

道灌の時代の名残

 今でも皇居の北に「平川門」や「平川濠」があります。九段下から大手町につながるお堀や、首都高速道路下の日本橋川などが平川を偲ばせます。また、白鳥池やお玉が池は江戸時代に埋め立てられてしまって今はありませんが、白鳥池は今の飯田橋の北側に広がっていたようで、白鳥橋という地名が残っています。

 お玉が池は秋葉原の近くの神田岩本町周辺にあり、不忍池と同規模の大きな池だったようです。千束池なども埋め立てられ、今は浅草、入谷、千束、竜泉などの地名になっています。この地には、1855年安政江戸地震で1000人以上が犠牲になった吉原遊郭や、1923年関東大震災で約500人が溺死した弁天池がありました。

 日比谷入江は、大手町から芝にかけての東京湾の入江で、その東には半島状に突きだした江戸前島がありました。日本橋や銀座などは前島の上に位置します。前島の東には隅田川が注ぐ江戸湊が広がっていました。日比谷の地名は、のりの養殖に用いる「ひび」に由来があるようです。「ひび」とは、小枝の多い枝木や竹類を材料とした海苔粗朶 (そだ)のことです。いずれにせよ、海と関わりの深い地名だということです。

徳川家康の関東転封

 後北条氏は、1590年の小田原征伐で豊臣秀吉に滅ぼされました。その直後、駿府に居城のあった徳川家康は、秀吉から後北条氏の旧領への転封を命ぜられました。家康は、秀吉の薦めもあり、関東の中心だった小田原や鎌倉ではなく、道灌の開いた江戸城を居城に定めました。湿地帯と原野ばかりの土地を見て、家康はどう感じたでしょうか。最初の十数年は、何もなかったところに城下の礎を築くため、築城よりまちの整備を優先したようです。

河川の大改造

 まず、日比谷入江に注ぐ平川を付け替えるため、前島を開削して日本橋川や道三堀を築き、隅田川側に注ぐようにしました。これにより、日比谷入江周辺の洪水危険度を減じ、輸送路としての水運も確保しました。開削で出た土を使って日比谷入江を埋め立てはじめます。道三堀は明治の末に埋められてしまいましたが、日本橋川の上には今、首都高速道路が通っています。

 さらに、小川にダムのような堤を築いて水をせき止め、千鳥ヶ淵や牛ヶ淵を作りました。これによって、大切な飲料水を確保しました。皇居周辺を歩いてみると、千鳥ヶ淵の東にある田安門橋や牛ヶ淵の南にある清水門橋は土橋になっていて、千鳥ヶ淵の水面の方が牛ヶ淵より高くなっています。皇居のお堀のなかで千鳥ヶ淵や牛ヶ淵だけが「淵」と呼ばれ、他は「濠」と記していることもこんなことと関係しているのかもしれません。

 道三堀の東延長部には、行徳塩田で作られる塩を江戸に運ぶために、隅田川から中川まで小名木川という運河を開削します。この運河は周辺の干拓地の排水路の役割も果たしたようです。運河周辺には深川などの町ができ、埋め立ても進んで新田開発などが行われました。その後も縦横に運河が造られ、水運を活用した町が作られていきました。今でも深川周辺を散策すると多くの運河に出会います。

 小名木川のさらに東には、旧江戸川まで新川が開削され、道三堀~小名木川~新川と「塩の道」が作られました。

 より大規模な川の付け替えは、利根川で行われました。複雑に分流・合流していた多数の河川を整理し、東京湾に注ぐ利根川を東へと付け替え、銚子から太平洋に注ぐようにしました。これによって、水上交通の確保、関東以北への守り、江戸の水害の制御など、利水・治水を一緒に成し遂げました。

 このように、関東転封後の十数年間は、壮大な構想に基づく大都市・江戸の基盤造りの期間だったようです。

天下普請による江戸造り

 1600年の関ヶ原の戦いに勝利して1603年に家康が征夷大将軍になると、江戸は国の中心となり、諸大名に命じて天下普請によって整備されることになります。

 まず、政治の中心でもある江戸城については、本丸、二の丸、北の丸の整備が行われます。城の南には、上水確保のため溜池が作られます。上水については、さらに、神田上水が作られ、その後、玉川上水も作られました。神田上水は井之頭池を水源とし、水戸藩江戸屋敷を経て神田川を懸樋(水道橋)で渡して配水されました。また、玉川上水は多摩川から引かれました。

 城の東では、神田の山を削って日比谷入江を埋め立てるという大工事が行われました。これによって大名屋敷の用地が確保されました。江戸前島には外堀を堀って武士と町人の居住地域の区割りがされます。五街道などの道路計画も定めます。

 さらに、駿河台を掘り割りして平川や小石川の流れを東向きにして神田川に繋げ、城下の水害危険度を減らしました。中央線が走っている水道橋やお茶の水にかけての掘割の立派さには驚きます。また、八丁堀などの舟入を整備して、海運を盛んにすると共に、江戸城の濠や石垣造りを進めました。

 この結果、「の」の字型の総構えを有する周囲16kmにも及ぶ城郭ができました。江戸城の工事は1640年ごろに終了し、本丸・二ノ丸・三ノ丸、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸が作られました。そこに、20基の櫓と5重の天守が作られました。本丸、二の丸、西の丸などには将軍などの御殿が建ち、吹上には御三家の屋敷が、東の大手門下から和田倉門外には譜代大名の屋敷が、南の桜田門外には外様大名の屋敷が配され、西の半蔵門外から神田橋門外の台地に旗本・御家人が住み、東の低地に町人地が作られました。

 ちなみに、半蔵門から西に甲州街道が伸びています。甲州街道の周辺には服部半蔵の家臣たちが住んでいました。半蔵は伊賀衆と甲賀衆を指揮しており、将軍は、いざというときに、彼らに守られながら尾根筋を通る街道を通って甲府に逃げることになっていました。尾根にある道は珍しいですが、矢に射られないためでしょうか。また、半蔵門橋は橋が落とされないようにするためか土橋になっています。

明暦の大火以降の江戸

 残念ながら、1657年に起きた明暦の大火で江戸の町の大部分が天守も含めて焼けてしまいました。その後、城内にあった御三家の屋敷などが紀尾井町(紀州・尾張・井伊)などに移されたり、火除地としての庭園などが作られるなどしました。さらに、1659年に両国橋を隅田川に架けて隅田川を越えて逃げられるようにしました。これによって、江戸の町は東に拡大していきました。

 このように江戸時代の大改造によって作られた東京のまちは、地名から多少偲ばれますが、かつての地形(台地、湿地、池、川、海)が分からなくなってしまっています。ですが、沢山ある坂道から残っている地形の変化を感じることができます。東京は全国で最も坂道の多い都市の一つです。23区内に、名前が付いている坂道は740もあるそうです。坂道が多いのは、武蔵野台地の端の港区と文京区、少ないのは低地の墨田区と足立区です。

 このように東京は地形改変によって地盤の堅さが場所によって大きく異なります。その結果、1703年元禄江戸地震、1855年安政江戸地震、1923年関東地震など、過去に江戸を揺すった地震では、共通して強く揺れた場所があります。そこは、大切なものが集中している場所に重なります。一度ハザードマップ(例えば地域危険度マップ)をチェックしてみて下さい。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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