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新潟県中越沖地震10年、その頃すでに指摘されていた原発災害とサプライチェーン途絶

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(提供:海上保安庁/ロイター/アフロ)

新潟県中越沖地震から16日で10年が経ちます。柏崎刈羽原力での火災や自動車部品工場の被災による自動車生産の停止が話題になりました。この教訓を活かしていれば、東日本大震災の被害を低減できたかもしれません。

新潟県中越地震から3年後の地震

10年前の今日、2007年7月16日(月)10時13分23秒に、新潟県中越沖の深さ約17kmを震源とするマグニチュード6.8の地震が発生しました。この地震で、新潟県長岡市、柏崎市、刈羽村、長野県飯綱町で最大震度6強の揺れを記録しました。柏崎刈羽原発内の地震計では、震度7相当の揺れも観測されています。この地震では、海底下の断層がずれたため、新潟県が管轄する柏崎の検潮所で1mの津波が確認されました。

この地震の被害は、死者15人(直接死11名、災害関連死4名)、負傷者2,346人、住家全壊1,331棟などとなっており、経済被害は、1.5兆円程度と推定されています。当日は、海の日の祝日で、午前中の地震だったこともあり、住家被害のわりに人的被害が少なかったように感じられます。

ちなみに、地震発生時は安倍晋三首相の第一次安倍内閣でした。当日、安倍首相は、7月29日投票の参議院選挙の遊説のため、長崎県で街頭演説し沖縄に向かう予定でした。首相は、地震発生を受けて沖縄遊説を中止し、急遽東京に戻り、夕刻には被災地・柏崎市に入りました。当時から旺盛な行動力があったことが分かります。2週間後の参議院選では、自民党は獲得議席37議席と歴史的敗北をして、民主党が参議院第一党となり、その後、9月26日に退陣に追い込まれました。地震時の防衛大臣は、現東京都知事の小池百合子さんです。10年での政治状況にも変化に驚きます。

日本海側のプレート境界

新潟県中越沖地震の3年前の2004年10月23日には新潟県中越地震(マグニチュードM6.8)が、4ヶ月前には能登半島地震(M6.9)が発生しており、当時、2つの地震との関係も議論されました。また、日本海周辺では、大規模な液状化が発生した1964年6月16日 新潟地震(M7.5)、小学生が津波で犠牲になった1983年5月26日 日本海中部地震(M7.7)、奥尻島での津波被害が甚大だった1993年7月12日北海道南西沖地震(M 7.8)などが起きています。これらの地震により、日本海にユーラシアプレートと北アメリカプレートとのプレート境界が存在することが共通認識となりました。

また、中越沖地震前後には、短い期間に、新潟県中越地震、能登半島地震(M6.9)に加え、2011年3月12日長野県北部地震(M6.7)、2014年11月22日長野県神城断層地震(M6.7)などが続発しています。これらの地震は、GPS観測でひずみの集中が指摘されている新潟-神戸歪集中帯や、東日本と西日本を構造的に区分する糸魚川-静岡構造線の近傍で起きています。糸魚川-静岡構造線断層帯には、高い地震発生確率の中北部区間の牛伏寺断層(今後30年間の地震発生確率13~30%)や富士川河口断層(同10~18%)が存在しており、今後の活動が気がかりです。

これらの地震以外にも、日本海沿岸地域では19世紀以降、1828年三条地震、1872年浜田地震、1925年北但馬地震、1927年北丹後地震、1943年鳥取地震、1948年福井地震、2000年鳥取県西部地震、2016年鳥取県中部地震などが発生しています。能登半島地震や新潟周辺の地震も含めると、新潟以西の日本海沿岸で、隙間無く地震が発生しているように見えます。逆に言えば、まだ地震が起きていない地域は要注意とも言えそうです。南海トラフ地震が起きる前後は、西日本は地震の活動期だとも言われていますので、耐震対策などの防災対策をしっかり進めておきたいと思います。

柏崎刈羽原発の火災事故

中越沖地震では、世界最大の原子力発電所・柏崎刈羽原子力発電所を震度7の強い揺れが襲いました。地震計で観測された最大加速度は、耐震設計時の想定を上回り、1号機地下5階では東西方向680Galと設計想定の倍以上でした。一方、1号機と離れた位置にある6号機地下3階の揺れは322Galと1号機の半分程度でした。その後の調査研究で、この揺れの差の原因は地下の地盤構造にあることが確認され、地下の地盤による揺れの増幅効果の大切さが認識されました。

この揺れで、運転中だった2号機、3号機、4号機、7号機は自動停止しました。幸い、重要度の高い原子炉建屋やタービン建屋には大きな被害はありませんでした。筆者は、ゼネコンに勤務していたときに7号機原子炉建屋の耐震設計に携わったことから、ほっと胸をなで下ろした記憶があります。

原子炉建屋の耐震設計では、サイトでの地震動を想定した地震力と、通常の建築物の地震力の3倍の地震力を考え、両者を包絡する地震力に対して設計をしています。柏崎刈羽原発の場合には、後者の地震力が前者を大きく上回っていたため、設計想定を超える地震動に対しても耐震上は余力が確保されていました。

しかし、多くの人がテレビを通して見た3号機近くの変圧器火災を始め、6号機原子炉建屋天井クレーン継手の破損、6号機使用済燃料プール水の漏洩、固体廃棄物貯蔵庫内のドラム缶数百本の転倒、3号機排気ダクトのずれ、1号機軽油タンク地盤沈下など、数多くの被害が報告されました。これらは、我が国で初めての地震による直接被害でした。海では1m程度の津波も観測されており、このときに、原子力発電施設の総合的な地震時安全性についてもっと深刻に受け止めていたらと、悔やまれます。

部品工場の被災による自動車生産の停止

地震によって、自動車部品のピストンリングの最大手メーカー、(株)リケン・柏崎工場の生産設備が被災し、ピストンリングの生産が停止しました。ピストンリングは自動車のエンジンのピストンとシリンダーの間に組み込む部品で自動車生産に不可欠な部品です。リケンは、基礎研究で有名な「理化学研究所」が、1926年にピストンリングの製造法を開発し、事業会社として設立した会社で、ピストンリングの国内シェアは5 割にもなります。このため、ダイハツ工業、トヨタ自動車の国内全ての工場が操業停止したのを始め、国内の自動車メーカー8社全てで一部生産停止しました。オンリーワンの部品メーカーが被災すると、全ての自動車メーカーに影響が及ぶという、サプライチェーン途絶の怖さを見せつけた被害事例です。

リケンは、2004年新潟県中越地震でも被災していたため、耐震補強工事やBCPの策定を進めていました。その甲斐あって、工場建屋などの大きな被害はなく、情報システムもすぐに復旧しました。しかし、残念ながら、従業員など約40名が負傷しました。工場では、生産設備の位置ずれや転倒の影響が大きく、仕掛品やゲージ、金型などが棚から落下し生産が停止しました。自動車メーカー各社は、操業停止の影響の大きさから、リケン復旧のため全力で支援をしました。各自動車メーカーから最大1日840人、延べ7,900人もの支援部隊が入って復旧活動を行い、被災後1週間で操業を再開し、2 週間後の22日に生産ラインがすべて復旧しました。 幸いインフラ関係も、停電は無く、また全国の水道事業者や瓦斯事業者の応援によって、水道は21日夜、都市ガスは22日に復旧しました。物流も迂回路を利用することで凌ぐことができたようです。

サプライチェーンの大切さと事前防災

リケンの問題は、多くの部品を多重の下請け構造で生産・供給する製造業の脆さを露呈しました。大手自動車会社の場合、1次下請けは約400社、2次請けは約5,000社、3次請けは約3万社もあるといわれ、大きなピラミッド構造になっています。しかし、その中に、リケンのピストンリングのように、特定の工場でしか作っていない部品があると、ダイヤモンド構造となってしまい、1つの工場の被災が全体に影響してしまいます。これを回避するために、サプライチェーン上のオンリーワン工場を探しだし、その強化をすると共に、備蓄や代替製造などの方策を作っておく必要があります。

柏崎刈羽原発やリケンの被災で改めて明らかとなったことは、建屋の耐震強化の大切さです。ですが、建屋そのものが健全であっても、2次的被害で機能停止することが明らかになりました。工場であれば、生産設備機器の移動防止や転倒防止のための耐震固定、クレーンや壁体・天井などの落下防止、棚上の物の落下防止、ライフライン途絶時のための事前の備えなどが重要になります。また、周辺地域の復旧が進まない中、工場だけが稼働するわけにはいきません。工場周辺地域の復旧が工場再開の前提になりますから、周辺地域への貢献も大切です。これらのことは、東日本大震災や熊本地震でも共通して指摘されていることです。是非、ライフラインやインフラのことも含めた事業継続計画(BCP)を策定し、万全の備えをしておきたいものです。

新潟県中越沖地震では、連続地震、原発災害、サプライチェーン途絶、ライフライン・インフラ途絶、津波など、その後の地震災害で大きな問題になったことが示唆されていました。個々の災害で起きたことから可能な限り教訓を学び取り、豊かな想像力で過酷事象を想定し、災害を未然に防ぐことの大切さを改めて痛感します。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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