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72年前に炎上した名古屋城、木造での再建が5年後に予定される

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(ペイレスイメージズ/アフロ)

72年前に焼失した名古屋城

名古屋城は、徳川家康の命で、1610年の清州越しによって清州から名古屋に引越すことで作られました。加藤清正によって築かれた天守閣の石垣を始め、外様大名の総力による天下普請でした。金鯱の天守閣が有名ですが、将軍の宿泊所として使われた本丸御殿も武家風書院造の名建築でした。

尾張徳川家の居城として使われた名古屋城は、明治以降は天皇の離宮として用いられました。その後、1930年に名古屋市に下賜され、城郭として国宝第1号に指定されました。1612年の天守完成以降333年間も焼失を免れた名古屋城は、「尾張名古屋は城で持つ」と言われるように名古屋の宝でしたが、1945年5月14日の大空襲で、天守閣・本丸御殿ともに焼失してしまいました。戦時中には、金鯱を下したり、本丸御殿の障壁画を疎開させるなどしていましたが、空襲時には金鯱も載っており、本丸は、南東の辰巳隅櫓、南西の未申隅櫓を除いて、多くが焼失してしまいました。幸い、開戦前に作成されていた実測図や、疎開させていた障壁画などは無事でした。

悲惨を極めた大空襲

戦前の名古屋は、三菱重工を始め軍需工場が集中する日本最大の軍需産業都市でした。このため、米軍により度重なる空襲を受けました。最初の本格的な空襲は、1944年12月7日に発生した東南海地震の翌週、12月13日でした。B-29爆撃機90機が、日本一の飛行機のエンジン工場、名古屋発動機製作所大幸工場を空襲しました。ナゴヤドームはその跡地に建っています。

その後も、3月12日にB-29爆撃機200機による大規模空襲、3月19日にB-29爆撃機230機による大規模空襲がありました。そして、5月14日のB-29爆撃機440機による空襲で名古屋城が炎上しました。6月9日の熱田空襲では、愛知時計電機・愛知航空機の社員や動員学徒を含む2000人余の死者を出しています。名古屋の空襲は計63回に及び、死者は計約8千人、市域は壊滅的に破壊されました。その間には、1945年1月13日に三河地震にも見舞われています。

焼け野原となった名古屋は、戦後、大規模な土地区画整理事業によって、縦横の百メートルなどの広幅員道路を整備し、都市計画の範ともなる復興を遂げました。

清洲から名古屋への引っ越し

名古屋城は、今川氏親が、尾張進出のために築いた柳ノ丸が起源のようで、その後、1532年に織田信秀が今川氏豊から城を奪って那古野城と改名しました。織田信長はこの城で1534年に生まれています。その後、信秀は古渡城(現在は真宗大谷派の東別院があります)に移って、那古野城は信長の居城となりました。信長は1555年に本拠を清洲城に移したため、那古野城は廃城となって、尾張の中心は清州に移りました。

しかし、清州城は、五条川ほとりにあったため、1586年に発生した天正地震で液状化被害を受けたり、水害危険度の高さの問題を抱えていました。徳川家康は、大坂の豊臣家の政治情勢のこともあって、1609年に尾張藩の居城として名古屋城を築くことを決定し、1610年に築城を始めました。清州から名古屋への城下丸ごとの引っ越しは清州越と呼ばれています。

震災前高台移転の近代的都市計画

名古屋城は、熱田台地の北西端に築かれました。北側は矢田川が削った崖、西側の崖の下には堀川を開削して、物資輸送に利用しました。南と東は、碁盤の目状に町割りをし、寺町と武家屋敷を作って城下の防備を固めました。まさに、江戸初期の近代的な都市計画でした。

熱田台地の南端には三種の神器の草薙の剣が祀られる熱田神宮があります。東海道の宿場町は熱田宿(宮宿)におかれ、桑名宿までは海路「七里の渡(宮の渡)」でした。

清州越は震災前高台移転とも言えるもので、そのおかげで、名古屋城は、1707年宝永地震、1854年安政東海地震、1891年濃尾地震、1944年東南海地震などを経験しましたが、濃尾地震で被害を受けた多聞櫓以外は、大きな被害を受けることはありませんでした。ちなみに、宝永地震での被害については、お畳奉行・朝日文左衛門による鸚鵡籠中記に詳しく書かれています。

豪壮な天守閣

天守閣は名古屋城の本丸の北西隅に位置しています。本丸は南東を二之丸、南西を西之丸、北西を御深井丸、さらに南から東にかけて三之丸よって防御されています。本丸の四隅には、天守閣と隅櫓が作られ、四周を多門櫓が囲んでいました。天守閣は、5層5階、地下1階、高さ55.6メートルと、最大規模の天守閣でした。屋根には徳川家の威光を示す金鯱が載せられました。

本格的な書院作りの本丸御殿は、当初は藩主の居住用の御殿でしたがその後、将軍の御成り用の御殿になり、藩主は二の丸御殿に居住するようになりました。藩主専用の庭の二之丸庭園も、大規模なものでした。また、御深井丸の北西に残る戌亥隅櫓は、清州城を移築したとも言われています。

明治になって、二の丸の建物や庭園は撤去され、現在は大相撲名古屋場所が開催される愛知県体育館が建っています。また、重臣の屋敷や神社があった広大な三の丸は、建築物がすべて取り壊されました。現在は、愛知県庁や名古屋市役所、国の合同庁舎などが集中する官庁街になっています。

天守閣と本丸御殿の再建

天守閣は、再建を望む名古屋市民の声を受けて、市制70周年記念事業として、1959年に鉄筋コンクリートで再建されました。そのときに金鯱も復元されました。戦前に、詳細な実測図が作成されていたおかげで、外観が正確に復元されました。天守閣の竣工式は1959年10月1日に予定されていましたが、直前の9月26日に伊勢湾台風が襲来したため、簡素に行われました。金鯱は水を呼ぶと言われたため、当時、伊勢湾台風の高潮被害と金鯱との関係も噂されました。

本丸御殿も、民間からの寄付も含め、総工費150億円を投じて、2008年から木造での復元工事が行われており、来年2018年の完全公開が予定されています。

天守閣の耐震性の問題と木造再建

天守閣が鉄筋コンクリートで再建されて約60年が経ちます。このため、その耐震性や老朽化が問題となり、天守閣を木造で建て直すことが計画され始め、2010年度予算案に調査費が計上されました。そして、2012年に市民検討会を開いて準備をすすめ、総事業費が約500億円と試算されました。

その後、今年3月23日の名古屋市議会本会議で、天守閣の木造復元の関連予算案が可決され、木造再建を公約とする河村たかし市長が4月23日に再選、さらに先週5月9日に、木造復元事業の基本協定が名古屋市と事業者の竹中工務店との間で締結されました。

今後、再来年2019年9月に現在の天守閣の解体を始め、20年6月に復元工事を始め、22年12月の完成を目指すことになります。72年前に焼失した名古屋城は、5年後に木造で再び姿を現すことになりそうです。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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