「桜宮高校体罰事件」の判決を法廷で聞く(後半)

拙会員制メールマガジン「事件の放物線」9月30日号で配信した『「桜宮高校体罰事件」の判決を法廷で聞く』を昨日、今日の2日にかけて全文公開します。

前半部分はこちら

【目次】─────────────────────────────────

■懲役一年執行猶予三年

■体罰を是認しない裁判所の意思

■裁判所での議論をもっと示す方法はなかったか

■「体罰死」を裁く限界なのだろうか

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■裁判所での議論をもっと示す方法はなかったか■

判決当日、私は関西のローカル番組でこの判決をとり上げた。スタジオで同席したジャーナリストの大谷昭宏氏は、「裁判官は単独ではなく、合議制にしてもっと議論をつくすということもできたのではないか」と指摘した。なるほど、と私は思った。

地方裁判所が第一審となる場合、一人の裁判官が審理する事件を単独事件と言う。大谷氏の言う合議制というのは、右陪席・左陪席と呼ばれる裁判官をふくめた三人の裁判官の合議体で審理する事件を合議事件と呼ぶわけだが、今回をそうできなかっただろうかという指摘だ。

通常、裁判は一人の裁判官がおこなう。簡易裁判所や家庭裁判所は一人だ。そもそも今回のような「体罰」が暴行罪や傷害罪として立件され、在宅であれ、起訴されるというケース自体が稀だし、過去の例では簡易裁判所で裁かれることが多かった。

殺人や放火などのように重い刑罰が定められている事件は、必ず合議体で審理しなければならないとされているが、今回のような「傷害」と「暴行」事件であっても、争点が複雑だったり、被告が否認している等の理由があれば合議体で審理することもできる。

しかし、被告は起訴事実をすべて認めており、法廷では自殺との因果関係も認め、改悛の言葉を繰り返している。なによりも「傷害致死」事件ではないのだから、合議である必要はない意見がふつうなのだろうと思う。

そして、公判も一回しか開かれなかったとはいえ、被害者参加人の質問をふくめて三時間以上おこなわれたのだから十分ではないのかという意見もあるだろう。しかし、合議体にすることにより、事件の「重大性」を社会に示すという方法も選択肢としては、たしかにあったのではないかと私も思うのだ。

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■「体罰死」を裁く限界なのだろうか■

判決にもあるように四件の暴行・傷害事件で起訴され、法廷では、体罰と自殺の因果関係が追及され、被告はそれを全面的に認め陳謝するという異例の展開だった。つまり起訴内容にないことを謝罪している構図になった。

しかし、前回も書いたように、自らも事情聴取に協力した大阪市外部チームによる報告書を読んでいなかったり、事件から九カ月も経つのに賠償等のはたらきかけをまったくしていないことなどが明らかになり、とうぜんそれらは被害者の側からすれば「反省していない」ことのあかしとして受け取られた。

判決後の記者会見では少年の両親はつぎのような内容のことを語った。

「もしも、(実刑が出るのではないか)という気持ちもあった。判決は真摯に受けとめたいけれど、自殺との引き金になったことが認められていても、暴行罪と傷害罪でしかさばけないのが司法の限界なのかなと思った。もしも、量刑が実刑だったら、社会へのメッセージになったのに、と思う。

判決を被告には真摯に受け止めてほしいと祈るような気持ちだ。(自殺した)息子には、判決がおりたね、おつかれさま、と声をかけてやりたい」

私は遺族に、事件後も報道される「体罰事件」を見てどんな思いで見ているのかを会見場で質問した。父親はこう語った。

「信じられない気持ちだ。いまだに体罰が間違った行為であるという認識が浸透していない証拠ごだと思う。暴力で指導するという連鎖が根深く続いている」

そして夫の言葉を継ぐように、亡くなった少年の母親が言った。

「事件の裁判の真っ只中で(体罰事件の映像が流れるのは)ショックだった。そういう教師たちは、桜宮のことを自分には関係のないことがと思っているのではないか。息子はもっとひどいことをされていたんだろうなという思いで見ていました」

会見が終わったあと、裁判所の敷地内で私は両親と立ったまま話しをした。「藤井さんの本やツイッター、メルマガも読みました」と言われたので赤面ものだったが、ありがたくもあった。

今後、民事訴訟で小村氏や行政(教育委員会)の責任を追及していくかどうかはわからないということだが、小村氏のような人物をのさばり続けさせた者たちや組織の責任は何らかの方法で問いたいと両親は口を揃えた。しかし、そのやり方がどうしたらいいのかわからない、とも。私はその言葉を黙って受け止めるしかなかった。

今回問われたのはあくまでも小村基氏という一人の元教員の「責任」にすぎない。彼を体罰教師たらしめてきた構造はなんら責任を負わされることはない。これではトカゲの尻尾切りのようなもので、大勢の者たちがこころのなかでは笑っているのではないかと私は思えて仕方がないのである。

終わり

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