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「千人計画敵視」で科学者人材流出国に転落したアメリカ、後を追う日本

榎木英介病理専門医&科学・医療ジャーナリスト
人材流出国に転落したアメリカ(赤がアメリカ、青が中国、緑がOECD)

 G7「成功」の陰で

 先日G7サミットが広島で開催された。G7首脳らの原爆慰霊碑への献花や原爆資料館への訪問、さらにはウクライナのゼレンスキー大統領の参加などが大きな話題となった。外交的には大きな成果があったと言われる。

G7広島サミット|外務省

 G7は首脳会議だけではない、様々な会合が開催されている。5月12日から14日まで、仙台では科学技術大臣の会合もあった。

G7仙台科学技術大臣会合特設サイト

 4月に読売新聞などがG7科技相声明原案について報じていたが、気になることがあった。

G7科技相声明原案、中国念頭に「研究環境を不当に搾取」…軍事流用を懸念 (読売新聞)

 読売新聞は自らがこれまで繰り返し報道してきた中国の千人計画と声明案を関係づける形で記事を書いている。千人計画を中国の軍事技術スパイ計画とみなす論調だ。

 しかし実際のG7科技相声明では「研究環境の軍事利用への懸念」は示されているものの、実際に名指しで非難されたのはロシアであり、千人計画が声明に盛り込まれることはなかった。

G7仙台科学技術大臣会合(概要)

 中国に関しては「一部の行為者が」と暗示するのみで、名指しは避けた。

 軍事関連技術の流出は当然防ぐべきだ。だが、千人計画を中国による軍事技術のスパイ計画とみなす一部メディアや政治家の前提には無理がある。

知られていない「チャイナ・イニシアチブ」中止

 私はこうした無理なこじつけに基づくバッシングは人材流出を引き起こし、日本の国益をむしろ損なうものであるという指摘を繰り返ししてきた。

「日本からの応募が増えました」読売「千人計画」バッシングが加速させる「人財」の中国流出 (榎木英介)

 この記事に関しては、客観的な数字が乏しいとの批判もあったが、これは決して誇張ではない。

 千人計画警戒論の元祖ともいえるアメリカでは、司法省(FBIが捜査担当)の「チャイナ・イニシアチブ」で、千人計画に関与する大学研究者への杜撰な捜査、捜査員の虚偽申告などが問題となり、昨年「チャイナ・イニシアチブ」は終了している。

 スパイ摘発を目的として、大学の中国系研究者を中心に数百人もの大学研究者が逮捕された。しかし、技術スパイとして有罪になった例はみられず、有罪になったケースも中国の大学を兼務した際の収入の未申告といったパターンがほとんどだったのだ。「チャイナ・イニシアチブ」終了は当然と言える。

 最終的なG7の科技相声明に千人計画というワードが盛り込まれていないのは、そういったアメリカの動きと無縁ではないだろう。

 それにも拘わらず、日本ではいまも根強く千人計画脅威論が残っている。日本では一部の政治家、メディアなどにより千人計画脅威論が経済安保の推進、対中警戒の本丸の一つとして喧伝されたためか、そういったアメリカの情勢変化はあまり報道されておらず、読売新聞は「チャイナ・イニシアチブ」の終了の事実すら今なお報じていない。

米国政府は謝った〜対「千人計画」「チャイナ・イニシアチブ」が続く日本の異様 (榎木英介)

実態との間にズレのある日本の「千人計画脅威論」

 ここで状況をおさらいしてみたい。

 読売新聞などの千人計画報道やそれに先立っての甘利明議員のブログ記事などには、明示的もしくは暗示的な形で千人計画に関して下記のような前提を共有している。

  • 外国人が対象
  • 軍事関連の技術流出のため
  • その引き換えに高額報酬
  • 自国の大学に所属しながら中国の大学を極秘で兼務

 実際、このような千人計画への認識が日本では今も一般的なのではないだろうか。だが、これらは実態とは異なる。千人計画については文科省傘下のJSPSやJSTが以前から詳しい調査記事を出している。

中国の高度人材呼び戻し政策 日本学術振興会 北京研究連絡センター

 千人計画の採択者の9割は中国人であり、そもそも海外へ流出した中国人研究者の中国への呼び戻しプロジェクトとしてはじまっている。対象となる研究分野も自然科学全般と軍事関連の研究に限っているというわけではない。また、給与についても約680~1020万円程度といった年収の実例が紹介されている。決して「札束につられて」と言えるような金額ではない。

 雇用形態についても、中国でフルタイム勤務の形態が主だ。実際、読売新聞が千人計画を大きく特集していた際も記事で取り上げられていた日本人研究者は、日本の大学に職がない若手研究者か、定年後のシニア研究者がほとんどであり、それらはいずれもフルタイム勤務だ。

 アメリカで問題になった兼務型のケースも、軍事関連の技術流出により摘発されたというわけではなく、中国の大学を兼務していた際の海外収入の未申告による脱税だ。脱税は当然犯罪だが、日本で喧伝されているような「軍事関連の技術流出」とは明らかに異なる。

 だが、このような詳細が日本のメディアで報道されることはほとんどなく、中国の大学の日本人研究者らに対して「軍事関連の技術流出と引き換えに高額報酬をもらっている」という印象論が広まる結果となった。

「千人計画脅威論」の暴走で人材流出国に転落したアメリカ

 アメリカの「チャイナ・イニシアチブ」では計246人の研究者が捜査対象となったことがサイエンス誌により報道されている。ちなみに、中国の大学の日本人研究者が注目を集めた日本とは異なり、アメリカで捜査の主な対象となったのはアメリカの大学に在籍する中国系研究者だ。

PALL OF SUSPICION (Science AAAS)

 だが既に述べたようにもともとの狙いであったスパイ摘発にはつながらなかっただけではなく、それによりアメリカは大きな代償を払うことになった。

 ここに衝撃的な統計データがある

Abandoning the US, More Scientists Go to China (CATO Institute)

 「チャイナ・イニチアチブ」の開始後、アメリカら大量の中国系研究者が流出し、アメリカが人材流出国に転落したというのだ。

 2017年では4292人の「Published research scientists」(論文発表している研究者)を獲得していたアメリカが、2021年には人材流出国へと転落する一方、2017年の時点で116人しか獲得できていなかった中国が2408人の大量の人材を獲得している。

上記記事より著者作成。アメリカの減少が目立つ。
上記記事より著者作成。アメリカの減少が目立つ。

 中国の人材獲得を警戒したアメリカがその対策として「チャイナ・イニシアチブ」をはじめたにも拘わらず、むしろ中国の人材獲得をアシストする結果となっている。世界中から人材を惹きつけてきたアメリカにとってこれは大きなダメージだ。

人材流出を加速させる日本

 アメリカが千人計画に関する軌道修正を図る中、日本ではそういった動きは政府側にもメディア側にもほとんどみられない。軌道修正どころかむしろ強化されている感まである。

 かつて千人計画に関するブログ記事が炎上した甘利明議員は、ノーベル賞候補の藤嶋博士の移籍についても「国益とは?と怒りを覚えます」とツイートしまたも炎上していたが、中国への人材流出対策として10兆円大学ファンド創設を推進したとされている。

 だが、これは的外れといえよう。

 理由は単純で、大学ファンドは数校程度のごく一部の大学が支援対象という露骨な「選択と集中」路線であり、ほとんどの大学には関係ない。日本の大学研究者が中国へ移籍するのは、「中国のほうが給料が良いから」などではなく、そもそも安定した雇用が日本にないことが一番の理由だが、甘利議員を含め、千人計画脅威論を訴える政治家や一部メディアの側にはそうした認識はないようだ。一部のトップ校のみ支援を強化するという選択と集中路線では、多くの大学で雇用が不安定化し、若手研究者の海外流出は増えるばかりでむしろ逆効果である。

 甘利氏と関係の深い「チーム甘利」の一員とされる五神真氏が理事長を務める理化学研究所でも状況は同様だ。

 選択と集中の名の元に大量の研究者の雇止めが実行されてしまった。雇止めされた研究者の中には、Nature誌などに論文を発表し、JSPSの「卓越研究員」にも採択されていた極めて優秀な研究者もおり、雇止めにより中国の研究機関へと異動したという。

 中国への対抗策として選択と集中路線の強化が示される中、その選択と集中がまさに中国への人材流出の原因となったというのはこの上ない皮肉な状況だ。

 アメリカが「千人計画脅威論」の暴走の結果、人材流出国に転落してしまったのと同様の状況であり、アメリカが「千人計画脅威論」からの軌道修正を図ったのと同様に、日本でも軌道修正が必要であろう。

 対中警戒が重要なのは言うまでもない。だが、実態とズレた警戒では中国を利し、自国の側にダメージがあるものとなってしまうというのがアメリカから学ぶべき教訓ではないだろうか。

2023年5月26日追記

 上述の卓越研究員の雇い止めの件については、衆議院文部科学委員会において、日本共産党の宮本岳志議員が質問のなかで、理研の虚偽申告による補助金の不正申請にあたるのではないかと指摘した。

理研、資金申請に虚偽 (しんぶん赤旗)

 今のところこの件をとりあげているのはしんぶん赤旗のみであるが、優秀な研究者が雇い止めに遭い中国へ異動した事実、またそれが補助金の不正申請に該当する可能性はいずれも重大な問題だ。

 この件を通じて、現在起きている事態が日本の基礎科学研究にとって危機的な事態であることを多くの方々に知ってもらい、問題解決のきっかけになることを願う。

病理専門医&科学・医療ジャーナリスト

1971年横浜生まれ。神奈川県立柏陽高校出身。東京大学理学部生物学科動物学専攻卒業後、大学院博士課程まで進学したが、研究者としての将来に不安を感じ、一念発起し神戸大学医学部に学士編入学。卒業後病理医になる。一般社団法人科学・政策と社会研究室(カセイケン)代表理事。フリーの病理医として働くと同時に、フリーの科学・医療ジャーナリストとして若手研究者のキャリア問題や研究不正、科学技術政策に関する記事の執筆等を行っている。「博士漂流時代」(ディスカヴァー)にて科学ジャーナリスト賞2011受賞。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。近著は「病理医が明かす 死因のホント」(日経プレミアシリーズ)。

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